自然とデザイン

自然と人との関係なくして生命なく、人と人との関係なくして幸福もない。この自然と人為の関係をデザインとして考えたい。

新しい政治・経済を考える~政治も経済も情報である⑩

2019-03-22 21:00:31 | 自然と人為
 「新しい人類史の展開に対して責任を負い、日本と世界に尽くそうとする人間の形成」を教育理念とする京都精華大学が、「日本と世界を考える」連続講座を開催していることを「山本義隆講演20161021」で知った。山本義隆氏といえばメディアが伝える「全共闘」の闘志を鮮明に覚えている。1968年の東大闘争で翌年の東大入試が中止された。
 今年は東大入試中止後50年となるが、闘争に参加した学生だけでなく、東大入試中止で他大学の競争率が高くなり、大学受験の高校生を含めて多くの人々の人生に影響を与えた。
 参考:京都精華大学 山本義隆講演録(質疑応答:p.20-22)
     山本 義隆「私の1960年代」
     山本義隆『私の1960年代』を読み解く
     60年代学生運動を振り返って 元衆議院議員・弁護士辻恵さん


 当時の大学生はすでに古希を迎え、高校生はもうすぐ古希を迎える。今では厳しい戦争体験を語れる貴重な高齢者も少なくなった。私は幸か不幸か我が国の「家」制度に何の疑問も抱かず、「跡取り」として大学に進み、前年(1967年)に大学を卒業して家業を手伝っていたので、自分の人生をどう生きるかと悩むことはなかったが、父とともに男として幸福な人生を送れたのは、女性(祖母と母と3人の姉と奥さん等々)のお蔭であったと、古希も過ぎ仕事納を迎える時期になって、やっと感謝と反省の気持ちが湧くようになってきた。一方、若いが故に社会的正義に燃えた人々の闘争は、佐藤栄作内閣の矛盾と問題を抱える国を含む体制側から容易に鎮圧され、排除された。大学に絶望して、自主的に退学した人もいたであろう。東大闘争から50年、当時の若者の正義のエネルギーはどこに向かい、今の若者はどこに正義を求めているのだろう。自立した個人は育っているのだろうか?
 参考:エマニュエル・トッド 混迷の世界を読み解く(動画)

 医学部の研修医の問題で東大闘争が始まった当時、山本義隆氏は理学部の大学院博士課程で学ぶ優秀な学生であったが、人望があったのだろう後に東大全共闘議長も務めた。当時はベトナム戦争(1965年北爆~1973年米軍撤退)特需を背景にした高度経済成長期にあった。武器輸出等による高度経済成長を続けるために理工系学部・学科を増設し、その費用を補うため文系の学生定員増が国策として実施された。「東大入試を中止させた」(2)のは米国の北爆に協力していた長期政権(1964年11月9日~1972年7月6日)の佐藤栄作である。彼は武器輸出三原則等の功績で、1974年にノーベル平和賞を受賞しているが、「平和賞を選考するノルウェーのノーベル平和賞委員会は、2001年に刊行した記念誌『ノーベル賞 平和への100年』の中で、「佐藤氏はベトナム戦争で、米政策を全面的に支持し、日本は米軍の補給基地として重要な役割を果たした。後に公開された米公文書によると、佐藤氏は日本の非核政策をナンセンスだと言っていた」と記し、「受賞理由と実際の政治姿勢とのギャップを指摘」している。また、2010年(平成22年)10月に『NHKスペシャル 核を求めた日本』(動画)において、佐藤内閣下で、極秘に「核保有は可能か」と検討が行われていたことが明るみに出た。
 1972年5月15日の沖縄返還も佐藤栄作首相の時であるが、沖縄の「核抜き本土並み」返還には、大きな問題が残された。本土並みとは基地の縮小だけでなく、沖縄県民も「日本国憲法」の下に置かれるべきだという基本的な問題、そして「核抜き」には「有事の際には持ち込める」密約がつけられていたことだ。
 参考:沖縄返還と密約~アメリカの対日外交戦略~
     【沖縄の真実】「沖縄返還」における『本土並み』の意味 そして密約
     「核抜き本土並み」沖縄返還交渉難航(動画)
     『NHKスペシャル 核を求めた日本』~被爆国の知られざる真実(動画)


 岸、佐藤、安倍という同族政権はアメリカ従属を大義名分とし、そのことが有利な大企業支配の政治を続けてきた。日本は「異常な対米従属」「異常な大企業中心」の自民党政治が国民の支持を得て、そのことを問題視する共産党の支持層が伸びない不思議な国だが、アメリカ=自由、ロシアや中国=不自由という、国民の「自由への信頼」が強烈なのかもしれない。それよりも、政治には地域の有力者のコネを利用して就職等の個人的恩恵を期待する部分が多いのかもしれない。日本人は集団で生きることには馴染んできているはずだが、会社員としては組織に服従する一方で、個人の生活は自由にしたいという欲望が強いだけでなく、自立した個人が育っていないように、私は思う。自立した個人とは他者を尊重し、自己の自由に責任を持つ人のことだ。そのような個人が育たないから、一方では「欲望の資本主義」が格差を拡げ、一方では個人を大切にする組織も育たない、と私は思っている。日産のゴーン解任事件の詳細は分からないが、下請けや社員を切り捨てて経営を立て直したことが評価され、自分は何億というお金を自由にできるのが経営者の理想だろうか?そこに、アメリカの自由と「欲望の資本主義」の行きつく先があるように、私は思う。しかし、「欲望の資本主義」は信頼を失い、大きく崩れ始めているとも思う。

 日本は明治から戦前までは富国強兵を国策としてきたことはご存知だと思うが、戦後も戦時体制(1940年体制)が続いていることを知らない人は多いのではなかろうか。銀行が企業に融資する「間接金融」は今では常識となっているが、これは軍事産業に資金を集中させるために1940年に政府主導で実施されたもの。また、1940年の税制改革で直接税から間接税に変わり、法人税が新生され、源泉徴収制度が導入された。その後は1988年に消費税法が成立し、導入された以外は税制は変わっていない。一方、企業の仕組みは昔から変わっておらず、株主を重視せず、経営者は内部昇進によるといった閉鎖的な仕組みがそのまま残っている。善かれ悪しかれ、閉鎖的仕組みは日本そのものであろう。
 高度成長時代は、企業は資金不足で銀行からの融資が重要であったが、1980年代からは企業の「ISバランス」(2)の変化によって企業の貯蓄が増加し、銀行の融資に依存する傾向が大企業から減少しつつあった。1985年のプラザ合意(2)によるバブル経済、続く90年代の金融危機を経て、日本経済の資金循環の仕組みが変わった。

 このことを理解するには、まず「お金の発行の仕組み」から理解する必要がある。銀行にお金を預けているので、金庫にはお金が一杯あるから、銀行の経営が危なくなるという噂が立つと、一斉に預金を引き出そうと取り付け騒ぎを起こすことがある。これは止めなさい。銀行は企業等に融資するために日本銀行からお金を発行してもらう。その融資したお金が返済されると、銀行に貯まるのではなく、お金は無くなる。この辺りは銀行業務を知らないので私も実感は湧かないが、銀行業務に詳しい『大西つねき』さんの講演会でしっかり勉強したい。

 お金は「生活の質、生きる価値」を守るために循環する。銀行の融資先がないと、株やギャンブルや不動産等にお金が回り、バブルを起こす。最近は大企業等は社内留保が増加して、銀行の融資に依存することが少なくなってきている。その結果、銀行は資金運用難に陥ってしまい、不動産融資に活路を見出そうとし、不動産バブルが生じている。
 参考:欲望の経済史-日本戦後編(全6回)
    1 焼け跡に残った戦時体制 終戦~50s
     2 奇跡の高度成長の裏で~60s
     3 繁栄の光と影が交錯する~70s
     4 ジャパン・アズ・ナンバーワンの夢~80s
     5 崩壊 失われた羅針盤~90s
     最終回「改革の嵐の中で~2000年代
     野口悠紀雄氏に聞く
     「1940年体制」からの脱皮を―環境変化の中で自らが変わっていくことが重要―


 経済のことは現在、猛勉強中、関連資料だけ紹介しておきます。
 ご質問は『大西つなき』講演会で、お願い致します。
    プラザ合意から33年、1985年は何だったのか
      失われた20年から抜け出せていない原因は
     プラザ合意再考~経済敗戦か、それとも政治敗戦か
     プラザ合意が日本経済に与えた影響
     アメリカ人の貯蓄・投資の関係をISバランス論で理解する
     トランプ大統領が目指す、「巨額減税と貿易赤字削減の両立」は困難?
     「ISバランス論」について考える
     歴史に学ぶ通貨と為替:プラザ合意 行き過ぎた「ドル高の是正」
     プラザ合意とISバランス
     プラザ合意とドル建BA市場の衰退
     環太平洋パートナーシップ(TPP)協定交渉
     トランプ政権 TPP離脱を表明
     TPP、アメリカの最大の誤算とは?日本の外交力が気に入らないトランプ政権


 大学は真理の探究の場だというイメージがあるが、政治、経済および社会的に、大学が真空の場であるはずはない。政治、経済および社会的に大学が歪んでいると確信したとき、歪みを是正するために、純粋な若者達は闘争に向かった。山本義隆氏はその闘争の続きとして、科学の在り方を考え続けて、科学史の研究の道を歩まれたように私は思う。ここで大学の闘争の外側にいた私ごとを持ち出すのは恐縮だが、私は養鶏孵化業の後継者として生まれ、そのことに疑問を持つことなく大学に入学し、学生時代に孵化業界にアメリカ雛が入ってきていることを知りつつ、これと契約することを拒否し、卒業して家業を手伝い始めた。その過程で養鶏が規模拡大して儲けを追求する方向に向かいつつあり、孵化業としてはブロイラー産業の系列に入るしか道がないことを知らされ、これは私の尊敬してきた父の仕事を継ぐこととは違うと感じた。どんな環境にいても、自分の想像する仕事と現実とのギャップはあるだろう。私の幸福はそのギャップに悩み、家業を止める選択ができたことだ。仕事を続けて欲しいと願う従業員の眼差しが今も瞼に浮かぶが、仕事を続けて家業が上向くという気持ちは全くなかった。廃業を決意したことが、私も従業員も泥沼で溺れてもがき苦しむことから救われたと、今も思っている。家業は廃業したが、養鶏の道から肉牛の研究の道に転身でき、自然へと向かうシステム科学の道を歩み、牛を放牧することで里山管理の夢を持ち続けることができた。

 牛の飼育は放牧で草を食べさせることに意義がある。酪農の見本として「日本で唯一 想いやり生乳」の北海道中札内村にある「想いやりファーム」がある。一般の酪農経営からすると特別な飼育方法に見えるかもしれないが、日本の資源を利用した酪農の原点だと思う。

 乳牛として利用しない部分は和牛を交配して、F1の肉質の価値を高めるコマーシャル生産に利用し、F1雌牛は放牧繁殖に利用すれば理想だ。和牛は育種集団なので、精液や受精卵が一部、闇で輸出されたと騒いでいるが、日本の和牛の宣伝をしてくれていると思えば良い。こんなことで日本の和牛改良が危うくなるほど日本の和牛界、和牛登録協会は弱くはない。日本に和牛登録協会があるから、酪農界は乳牛に和牛を交配したF1生産が容易にできる。F1雌牛を放牧して繁殖すれば、美味しい赤身肉を生産できる。そのことをブログ「『ごはんジャパン』富士山岡村牛(テレビ朝日系列)の録画」 (2016.10.29)で紹介しているが、牛が笑う富士山岡村牛(動画)は、私の研究した乳牛に和牛を交配して生産したF1雌牛を繁殖に利用して、理論的なハイブリッド牛生産を世界一の”想いやり”管理で実現していただいた実例として、岡村牧場の皆様には深く感謝している。この経営には交配と流通のシステム化が必要だが、岡村さんは7年で軌道に乗せたという。
 さらに、草刈り隊で地域の管理をしていた地区で、荒れた山に和牛を放牧して地域の宝となっている「大谷山里山牧場」(2)(3)もある。何故、和牛かといえば、評価の高い流通市場が確立されているので、2頭ほどの繁殖なら和牛が適しているからだ。F1雌牛を繁殖に利用するには、市場とシステムを作る必要がある。そのシステム作りに畜産システム研究所が貢献してくれると期待している。里山の管理なので、土地利用には行政の協力も必要となろう。新しい仕事を作るということは、これまでの常識を打破することが大きな要因となろう。荒れた里山を牛の放牧で美しくすれば、そこは人が集まる公園ともなる。これまでの常識に拘って苦しむよりは、常識を打破して楽しい仕事にしていこう。それが、日本の畜産の可能性だ。


初稿 2019.3.22 更新 2019.4.7 更新 2020.2.23(ブログ目次削除)

骨太の仕事と生き方~日中交流

2019-03-08 21:55:11 | 自然と人為

 戦時中、日本が中国を侵略した爪痕は消すことはできないが、その軍部の動きを苦々しく思っていた人々が戦後の日本のリーダーにはいた。また長い歴史において、中国との交流で日本文化が育ったことや、中国の鉄鉱石と石炭により日本の産業が発達した恩義を感じている人々もいた。そうした人々が経済や政治のリーダーとして、中国の「開放改革」を支えた。中国にも日清戦争以来、日本軍から苦しめられ続けた家族から「売国奴」と罵られながら、日本の支援を求めた鄧小平の右腕として働いた中国副首相・谷牧(こくぼく)もいた。日本側の支援の中心にいた新日本製鉄会長稲山嘉寛と経団連会長土光敏夫にとっては、中国の「改革開放」支援が日本だけでなくアジア、さらには世界の平和のためになるとの信念の仕事であった。稲山は「自分の製鉄所を建設するような気持で全社一丸になって協力しよう」と呼びかけ、「日中関係は元旦と大晦日のようなもので、1日の近さもあるが365日も遠くなることもある危ういものだ」とも言った。いずれも他者を尊重し、今、必要と思う仕事に誠心誠意、全力投球をした。この番組に下手な解説はいらない。我々の知らないことが多く、見ていただくだけでも意義があると思う。
 BS1スペシャル「中国改革開放を支えた日本人」
 BS世界のドキュメンタリー中国 改革開放30年(前編)(後編)

 お金を求めるだけの経済が何をもたらしたかを教えてくれる番組もある。2008年9月15日に、アメリカ合衆国の投資銀行であるリーマン・ブラザーズ・ホールディングスによるリーマン・ショックを背景にして、2009年2月16日~21日にNHK-BS1で放送された「シリーズ・金融危機(全6回)」の内、確認できた5回分を紹介する。著作権違反削除対策のためか動画のタイトルと内容が違うものが多いが、ここで示したタイトルは動画の内容から確認している。
 BS世界のドキュメンタリー 「シリーズ・金融危機(全6回)」
①.世界を震撼させた1か月 ~金融危機はこうして始まった~ ,⑥,⑤
②.“ドル時代”の黄昏~金融危機の波紋~,③
3.クラッシュ1929~世界恐慌の教訓は生かされるのか
4.再訪・上海バスターミナル~不況下の帰省ラッシュ~)
⑤. 異国で夢破れて~出稼ぎポーランド人の苦悩
6.差し押さえの町で~サブプライムローンの悲鳴
 ①,②,③,⑤,⑥は動画あり


初稿 2019.3.8 更新 2020.3,1(後半部分移動,動画交換等)