歩くことも書くことも不自由な74歳となり、現場に行く体力も気力も無くなったが、畜産システム研究会開催という公的な仕事をいただき、これを最後の仕事と全力投球をすることが出来た。今は、記憶が急激に衰えているという恐怖の自覚から、認知症予防のためにも、政治家の嘘に騙されず個人個人の力で、孫の代、次の代、その次の代と、いついつまでも平和を守り続けるためにも、生きてる限り考え続けたい。
「こころの時代『父に問う 今と未来を知るために』」,動画(全編60分)で、「歴史は相似的に反復する」と教えてくれた辺見庸に刺激され、ブログ「組織か個人か? 国家か国民か?~歴史は相似的に反復する」を年末に武田泰淳の紹介も兼ねて書いたが、「考える」ことは多様な解釈を伴う。
参考:「戦後日本社会の欺瞞と天皇制の闇を暴く!」
特別対談:『1★9★3★7』著者・辺見庸氏×ジャーナリスト・小笠原みどり氏
多様な解釈があるにしても、「自然とデザイン」について考え続けることは変わらないし、アマゾンで200人たらずの先住民族が生活するメイナク族の「すべてが一つの世界」を教えてくれた森谷監督の映画
「森の哲学者メイナク族」が、考える原点にあることも変わらない。
しかし、これまでのブログをザッと読み直すと、似たような考えをくどくどと感じたまま書いている。そこで、ネットで資料を集め、もう一度私の考えを整理するために経済、政治、個人の関係を歴史的に学び直したい。このブログは私の主張のためにあるのではなく、多様な解釈を整理するための資料を集め、皆さんと共に考えることに意義があると、今では考るようになった。
人口が増え、文明によって人工物が増えるにしたがって、人はバラバラとなり、支配に伴う争いが絶えなくなった。文明とは欲望を限りなく肥大化させるものなのだろうか?文明が進んだ国に住む我々は、アマゾンに住むメイナク族と随分、価値観の違う世界に来てしまった。
我が国を守るためと言って政府は軍事力を強化しているが、戦争をしなければ戦争放棄した我が国に軍隊はいらない。自衛隊は災害救助のために国民に信頼されているのであり、軍隊にするための憲法改正は必要ない。防衛のためという詭弁には、戦争を必要悪とする気持ちが常に隠されている。政府の詭弁に誤魔化されてはならない。16~18世紀、ヨーロッパの専制君主の時代には重商主義と植民地支配が国を繁栄させると考えられ、これを支えるために軍備を増強させた。それは現代のアメリカの産軍共同体と重なり、アメリカの植民地としての戦後の日本とも重なる。アメリカに従うための軍はいらないし、アメリカから解放されるためにも軍はいらない。戦争放棄の日本の憲法は平和を守るための世界で最も進んだ憲法のはずだ。もう少し、そのあたりの資料も集めて、皆様と共に考えたい。それが平和を守るために、私個人として出来る仕事だと思っている。
資料を集める前に、気になっていた保守主義を自認する西部邁を追悼するネット上の2つの番組から「政治」を考えて見たい。
追悼: 西部邁流、保守主義のすすめ 動画
追悼 【平成29年 年末特別対談】西部邁氏に聞く[桜H29/12/29]
前者の対談は11年前のものであり、建前としては否定できるものはない。「本来保守が最も警戒する急進主義的構造改革を保守主義者が擁護するという今日の日本の捻じれた現状を、西部氏は表がいつのまにか裏になっている『メビウスの輪』に例える。では西部氏の考える保守のあるべき姿とはどのようなものなのか。そもそもヨーロッパにおける保守主義とは、フランス革命が掲げた自由、平等、博愛の精神に対し、人間の浅知恵で先人たちが永々と築いてきた歴史や共同体を軽視するべきではないとするエドマンド・バーク,(2)に代表されるイギリス型保守思想に端を発している。さらにヨーロッパには、古代ギリシア時代から、一筋縄ではいかない世の中の矛盾に苦悩しながら、理想と現実のバランスをとるための英知を蓄積してきた保守主義の歴史的系譜が存在するという。これに対し、アメリカではそもそも国の成り立ちが、ヨーロッパでは急進主義と位置づけられるような個人の自由や科学の合理性を重視することからスタートしているため、そのアメリカ的価値を守ろうとするアメリカの保守主義は、ヨーロッパのそれとは正反対の立場となる。」
後者の対談では、「北朝鮮はアブノーマルに侵略的な国だ。しかし、アブノーマルに侵略的な国はアメリカもだ」と対談者同士で同調し合い、「世界はならず者国家だらけだ。北朝鮮への制裁は戦闘行為」だという認識も、アメリカを動かしているのは産軍共同体だという認識も対談者同士で一致している。だから日本も武装しろと言うが、そこには論理の飛躍がある。
西部氏はモダニズム、近代化の危険性を指摘し、「モダニズムの追求は人間を浅薄にし、国土も荒廃させることにヨーロッパは産業革命で気付いたが、アメリカは南北戦争後に一斉に駆け込んだ」とも言う。その認識は前者の対談でも触れられているので、次回にでも資料で確認して論じたいが、解釈の一致と論理の飛躍がどこから来るのか、死を前にした飛躍なのか私には分からない。これからは解釈、認識、論理の飛躍についても意識しなければならないようだ。
ただし後者の対談は死の直前のものだし、対談の相手も違う。後者は「この国は嫌だ、死にたい」という本音の対談だと思う。対談の中で三島由紀夫の言葉「これからの日本は、のっぺらぼうで価値中立的で食えれば良いだけの国になるだろう。国をなくすだろう。そういうことを何ら心配しない日本人とは口を利きたくない」を引用して、『僕は口をききたくないだけでなく骨になりたい』と言っている。
後者の対談の43分40秒からの本音こそが、西部邁に与えられた命と能力を燃やし尽くす価値のある仕事だったと私は思う。
「多くの女性は日常性、恒常性に生きている。
公の場に立たず、日常に生き、黙って死んでいく。
彼女たちこそ、庶民こそ
日々同じことを繰り返しているので知恵があり、
深いところからものの哀れ、
真実を見抜いている。」
多くの女性も一般庶民も戦争を心の底から嫌っている。しかし、三島も西部も戦争を忌避せず、思想や知識に殉じる上から目線の人達だと思う。彼らこそモダニズム妄想の被害者だと思う。彼らに知識ではなく、自然と生きることの幸せを知る機会があったらと思う。彼らは日本の歴史を大切にしているが、その歴史を憲法に、今に生かすとはどういう状況を想定したら良いのだろう。
あなたや私の存在を認識するのはあなたや私だとしても、あなたや私が一人では生きていけないように、あなたや私の存在をどう解釈するかは他者である。人口が少なかろうが多かろうが、他者と一体であるとき我々は幸せであり、他者と一体が常識の世界に生きるとき、我々は幸福だとか不幸だと言う言葉さえ必要としなくなる。
初稿 2018.1.27 更新 2019.9.5