自然とデザイン

自然と人との関係なくして生命なく、人と人との関係なくして幸福もない。この自然と人為の関係をデザインとして考えたい。

エコノミーとエコロジーについて考える(1.古代ギリシャの共同体と学問)

2017-03-31 17:40:55 | 自然と人為

 1.言葉の意味と語源

 私はこれまで経済学もギリシャ哲学も関心を抱いたことはなかったが、人間を知るにはこれらを勉強することが大切ではないかと、古希を過ぎて思い始めた。正確に言えば「瑞穂の国の歴史に、牛の放牧による里山管理の文化創造を加える」ことについて提案してからである。
 農業を大切にした戦後、高度成長期までは農家は牛を家族の一員として大切に飼育したが、今では利益を求めて牛を飼う。戦後50年にして「経済」で求めていたもの、大切にするものが変わったように思う。

 そもそも「経済」とは一体何者だ。ここでは参考文献として、Webで皆さんに確認してもらえるものを提示しながら考えた。言葉の語源をWebで探し、自分なりに得られた関連する様々な情報を編集し、理解して発表することは、緊張感をもって自らの生きる姿を見つめ直すことでもある。これまでは仕事を通じて考えてきたことを発表してきたが、そのことの意味の根拠をこれからは探してみたい。

2.エコノミーとエコロジーの共通語源「エコ」

 エコノミー(経済)とエコロジー(生態)は同じ「エコ」を頭に持つが、このエコは「オイコス(すみか,家)」の意味を持つそうだ。それなのになぜ、現代においては対立的な立場で使われることが多いのだろう。
 また、エコノミーを意識して2000年以上も遅れて造語されたエコロジーが、今ではエコと略して呼ばれるのも、言葉は時代とともに意味を変える興味深い現象とも言えよう。
 参考: エコの語源
      エコノミーとエコロジーの語源


3.古代ギリシャ共同体(オイコス)の維持・発展と学問の誕生

 古代ギリシャのエーゲ文明地図)はBC2000年頃に始まる。日本の三内丸山遺跡は、今から約5500年前~4000年前の縄文時代の集落跡とされているのでほぼ同時期であり、中国最古の夏王朝殷王朝の時期とも重なる。
 オイコスが共同体として有名なアテネスパルタポリスと呼ばれるようになったのは、古代ギリシャ暗黒時代後のアルカイック期(BC800-BC480)であり、タレス(BC625年頃-547年頃)ソクラテス(BC470/469―399)プラトン(BC427-BC347)アリストテレス(BC384-BC322)等の学問は共同体の維持・発展の過程で誕生した
 さらに時代は古代ギリシャ北方の古代マケドニアから勢力を拡大したアレクサンドロス大王(前356~前323年)(2)ヘレニズム時代(B.C.334~B.C.30)へと続くが、アリストテレスはアレクサンドロスを若い頃教えたことがあり、アレクサンドロス大王の死の翌年に没した。

4.オイコス + ノモス = オイコノミア

 「オイコス」について調べて、共同体は「ポリス」に至ることを知った。興味深くて深追いするとテーマから逸脱してしまいそうなので、「オイコノミア」の「ノモス」の意味について調べることとする。
 ノモス【nomos】については次の説明がある。「(法律〉〈礼法〉〈習慣〉〈伝統文化〉を意味するギリシア語で、元来ネメインnemein(〈分配する〉の意)という動詞から派生し、〈定められた分け前〉という原義をもつ。そこからモイラ(運命)と同じように、神々または父祖伝来の伝統によって必然的に定められた行動規範という意味を担うようになった。さらにそこから転じて、前5世紀後半には意味のない因襲、自由を束縛する強制力と受け取られるようになり、ソフィストたちはノモスからの解放を主張した。」 さらに次の説明もある。「古代ギリシャで、法律・習慣・制度など人為的なものをいう語。ソフィストが、ピュシス(自然)に対するものとして取り上げ、これによって人間の認識や生活の相対性を指摘した。」また、「ノモスは規範と訳されますが、これは、カオスから脱するルールを創る事で、コスモスから落ちこぼれたものを管理するという意味があります。つまり、これが、人間存在なのです。」という興味深い説明もある。

5.オイコノミアとは

 P. L. バーガー (「カオス/ノモス/コスモス」)や ハイエクの「ノモス」と「テシス」のように、言葉は後の時代に説明されることが多いので、共同体が「ポリス」と言われていた時代に「オイコノミア」という言葉はどう使われていたのか調べてみた。
 ソクラテスの弟子であるクセノフォン(BC.430-354ごろ)の著書『オイコノミコス』(オイコノミアの形容詞)の越前谷 悦子訳「オイコノミコス―家政について」が出版されているが、その解説がWebにあり、アリストテレスの『政治学』第1巻も訳していただいている。
 
 経済学者ではない私が経済の語源を説明することは難しいので、これらを参考に皆さんに「オイコノミア」とは何かを考えていただきたいが、私なりにオイコノミア=家政を「善を求める共同体の(経済的)規範」と一応は理解している。荒谷氏の経済をあらためて考える~過去・現在・未来~や柳沢ゼミナールの古代ギリシャの経済思想は分かり易くまとめられている。

 今回はエコノミーの語源を古代ギリシャまでWeb資料で調べるのが精一杯であったが、京都弁証法認識論研究会のブログ「古代ギリシアにおける学問の誕生を問う」を紹介して次回に続きたい。
(1)古代ギリシアは学問の発祥の地である
(2)なぜ古代ギリシアにおいて学問が誕生したのか
(3)エーゲ文明はオリエント文化を継承しつつも独自の文化として形成された
(4)ミケーネ文明はエーゲ文明を継承しつつも独自の文化として発展した
(5)暗黒時代を通してポリスの土台が形成された
(6)植民活動によりギリシア勢力圏が拡大した
(7)労働から解放される階級が誕生した
(8)普遍性を求める認識が形成された
(9)一般民衆が社会的な地位を向上させた
(10)討論による対象の究明が行われるようになった
(11)究明の対象が自然から社会へと移り変わっていった
(12)学問はあくまでも共同体の維持・発展の過程で誕生した
(13)現代日本こそ本物の学問が求められている


初稿 2017.3.31





エコロジー的なものの見方が農業と地域を救う

2017-03-21 10:16:58 | 自然と人為

 本拙文は季刊 無教会 第21号(2010年5月20日)に掲載されたものを、「です・ます」調をこのブログの「だ・である」調に統一し、農業のグランドデザインを意識して加筆修正した。
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 アマゾン先住民のメイナク族には「自然」という言葉も「幸福」という言葉もない。自然と一つになって生きるだけではなく、みんなが一つになって生きているので、世界を「自然」と「人工」、「幸福」と「不幸」に切り裂く必要もない。国が違い時代が変わろうとも、私たちが自然とつながり人とつながって生きていることは永遠に変わらず、農業は自然と人、人と人をつなぐ大切な仕事であり続ける。しかし、農業のあり方や活力は農業に対する見方や、その時代の国をリードしている政治や経済の力によって大きく影響される。政治を動かしている人々の考え方によって自然と人、人と人をどうつなぐかは変わるし、経済を動かしている貨幣に実体はなく貨幣を使う人の心が実体をつくりだす。分業化が進んだ社会では貨幣が社会の隅々まで循環し続けることにより希望と安心を与るが、一部に留まると貧富と政治力の差が生まれ、その富と力によってさらに貨幣の循環が偏在してしまう。また、科学が人類の希望を実現して幸福をもたらすという神話が自然と人、人と人の 関係を切り裂いてもいる。科学技術による近代化は部分を満足させるが全体に矛盾と対立を生むからだ。私たちは自然や人との多様なつながりのなかで、多様に生き、生かされているというエコロジー的なものの見方で、この世界を今一度見つめ直す必要があろう。

1.農業は自然と対話する仕事

 人間の都合で家畜を自由自在に管理することが研究者の仕事だと思い込み、いかにアメリカに支配されない畜産技術を開発するかを考えていた私にとって、北海道旭川市の斎藤晶さんの美しい牧場で、牛の放牧とは牛の生きる力を引き出して資源を循環的に活用することだと気づかされたことは、ものの見方のコペルニクス的転換だった。
 斎藤さんは「開拓とは条件が悪くて 開墾されていない土地を血のにじむような努力で作物が育つ農地にすること」だと思い込み、苦労に苦労を重ねたが農業で食べていけるようにはならなかった。それでも自分にはここしか生きる場所はない、どうしたらここで生きられるかと追い詰められていたある日、同じ山で野鳥や昆虫がのびのび生きていることに気づいたと言う。「環境が厳しいのではない、自然を自分の考えで征服しようとした農業や開拓に対する自分の固定観念が環境を厳しいと思わせていた」と気づいて、自分も自然と対話しながら野鳥や昆虫のようにこの山で生きてみようと、牛の放牧を始めた。そうすると、なにもないと思っていた石ころだらけの山が美しい宝の山に変わった。牛は草さえあれば自分で生き、草は光さえあれば増えていく。守るべき木は残し、早春に放牧して若草を選り好みしないで食べさせ、牛が食べないで増える草は刈ってやることで芝草の美しい草地になった。
 これまでの農林業に牛の放牧を組み合わせて自然と対話する場が広がれば、斎藤さんや私のように農業に対する社会の見方も変わっていくのではなかろうか。

2.農政にもコペルニクス的転換を

 1954年に日本は朝鮮戦争特需の継続として経済援助を得たいため、アメリカからMSA援助を受 ける協定(2)を結ぶ。MSA援助は余剰農産物の輸出振興と軍事援助を一体に進めたアメリカの世界戦略で、その後日本の農政は食糧自給から農家戸数を減少させる選択的規模拡大へと大きく転換し、新しく生まれた畜産は大規模経営による輸入飼料に依存した加工型経営への道を邁進することになる。

 「農業界の憲法」と言われた農業基本法(1961年)は、わが国の「農業の向かうべき新たな道を明らかに示す」とし、農業生産の選択的拡大、農業経営の近代化など「農業構造の改善」を図るとした。新しく施行された食料・農業・農村基本法(1999年)は、この「農業構造改善」を「経営構造対策」としているが、地域が経営体で守れると思っているとしたら疑問だし、牛の放牧を取り入れた地域共同体の維持と活性化の考えもない。農業の根源は地域の資源を多様に組み合わせて生きることにあり、どのような農業をめざすかは農家の自由であり生き方でもある。また、農業は生活と一体であり農家間の協力が地域をつないできたので、農家の生きる場所である里山の管理が第一に必要である。農業の生産性改善に力点を置いて、経営体を育成することだけでは地域の共同体を強固にし、農業を強くすることにはならないと思う・・・。

 我々の祖先には、山で平和に1万3千年も暮らした縄文人と、大陸から稲作を持ち込み、国までつくった弥生人がいる。国を造ってからは争いが絶えないが、農業で国際競争力を争うのは商業人や工業人の考えること。私は争いをしないで長く平和を守った縄文人の生きかたと知恵を尊敬している。

 憲法は国民の進むべき道を示すものではない。「憲法に示された基本的人権や生存権や平和を守る」ために、 「国民が国の権力の行使を拘束・制限するためにある」という基本認識から農政も見直す必要があろう。

3.牛の放牧と自給のための農業で地域の自立をめざす

 この部分は牛が拓く未来 ― 牛の放牧で自然と人、人と人を結ぶと内容が重なるので、一部を削除し、大幅修正した。
 
 牛を放牧するには2頭まで/1haと広大な土地が必要であり、経営体で土地を所有することは考えられない。一方、広大な里山や奥山は放置され荒れている。日本で放牧により山を管理するには経営体だけではなく、行政や地域住民の協力が必要である。どのような協力関係が出来て、牛の放牧管理が可能かを具体的に考えていく必要があるが、少なくとも経営体と行政と地域住民をつなぐNPOのような組織が必要と考えている。

 里山放牧で獣害対策と公園化が実現すれば、米、野菜、果樹の栽培を維持することが容易になり、小規模の農家が交代しながら、それぞれが自家用に作った生産物の一部を公園で直売することも可能になろう。農家には米ぬか、稲わら、野菜くず、芋蔓等牛の飼料となる資源も多い。また、公園は憩いや遊び、交流や教育の場となる。これらの事業を地域の人々が主体的に取り組むことで地域の自立を促すことにもなる。里山放牧は牧柵設置と放牧牛の導入の初期投資をすれば、牛が里山を管理しながら子牛を生み、牛の導入経費は子牛や放牧牛肉の販売で回収できるので、少ない経費で持続可能な運営ができる。今では酪農や肉牛生産のように規模の大きい専業経営が畜産の常識となってしまい、牛が必要な所に牛と牛を飼う人がいなくなってしまった。しかし、牛の放牧は牛が生きていくのを手助けすれば良いので、それほど専門知識はいらない。むしろ専門意識が固定観念にならないように教育には注意が必要だ。ただし、牛が脱柵しないように牛と人との関係を築いていくことは大切だ。

 地域の人々が地域の連帯を強め、地域の生活を豊かにすることは、経営体だけや行政だけではできない。経営体や行政も参加して、生産から消費までをつないで牛や農業資材や生産物を回して持続的なシステムをつくり、それを動かすNPOのような組織が必要だ。
 「希望」という青い鳥は遠い「坂の上の雲」にいるのではなく皆の集落にる。地方の時代とか地方分権とは、単に政治や行政を国から地方に委譲することではなく、地域の人々が自立して自分たちで暮らしたい町をつくっていくことだ。そのことを行政も理解し、NPOが協力して希望を形にして欲しい。希望はあきらめない限り希望であり続けるので、 我々の世代で実現できなくても次の世代に引き継いで地域を宝の山にするために、 水田稲作の歴史に放牧による里山管理の考え方を加えて、地域の方々が一緒になって新しい町づくりが動き始めることを祈っている。

初稿 2010.5.20 更新 2017.3.21

畜産のハイブリッドデザイン

2017-03-12 20:25:01 | 自然と人為

 ハイブリッドデザインとはハイブリッドを利用した設計科学のことで、システム科学とともに畜産システム研究会の活動の柱になる考え方である。しかも新しさを求めるものではなく、瑞穂の国の常識を変革するこれからの考え方、畜産による資源の活用と日本の文化でもある里山を維持管理する日本の心豊かなグランドデザインともなろう。これまでも「システムからデザインへ」を提案し、「ハイブリッドデザイン」を技術的に解説したが、そのウエブページは文字化けしてスマホやiPadでは読めないので、このブログ「畜産のハイブリッドデザイン」にグランドデザインを意識して新しい内容を追加して更新しておく。

ハイブリッドとは
 ハイブリッド車の普及により知られるようになったハイブリッド(hybrid)とは、もともと雌豚と雄猪の子、またはローマ人の男と非ローマ人の女の間に生まれた子のように雑種とか混血という意味のラテン語(hybrida)に由来し、メンデルがエンドウの実験で使用して以来、遺伝学の分野で交雑の結果生まれる「子孫」という意味で使われてきた。
 メンデルは論文雑種植物の研究(Versuche uber Pflanzen-Hybriden,1866:発表;1865年.)」の序言で、ゲルトナーの「植物の雑種(Die Bastarderzeugung im Pflanzenreiche)」やヴィシュラの「柳の雑種(die Bastarde der Weiden)」を紹介しているが、彼自身の研究では軽蔑の意味を含むBastardではなくHybridを雑種の用語として使用している。メンデルが雑種をBastardではなくHybridと表現した理由には、これまでの雑種の観察ではない画期的な新しい研究だというメンデルの自負心が秘められているのではなかろうか。
 参考: メンデルの仕事と生涯 第6章 遺伝法則の再発見とメンデルを巡る論争
      科学の歩みところどころ 第14回 遺伝子発見への道「ノーダン・メンデルの法則
      生命科学の明日はどっちだ!?  第3回 メンデルは跳んでいる


ヘテロシスとは
 一般に近親交配をすると繁殖能力や強健性等が低下(近交退化)するが、雑種では活力が向上する。これを雑種強勢(hybrid vigor)またはヘテロシス(heterosis)と言う。ヘテロシスは、トウモロコシの雑種強勢を研究していたG.H.Shullがheterozygosisをシンプルにした造語(1911年)である。雑種強勢(ヘテロシス)は、何故あらわれるのか。一般には近親交配により、ある形質にとって有害な劣性遺伝子がホモになり形質の低下があらわれるが、雑種ではホモがヘテロになることで有害な劣性遺伝子の発現が抑えられるとされているが、未だに遺伝子の分子生物的な研究では完全には解明されていない。
 しかも遺伝学だけでなく、牛と人と地域と自然の要素を組み合わせたハイブリッドにおけるヘテロシスの研究はこれからである。
 参考: 作物の一代雑種 -ヘテロシスの科学とその周辺-
      植物の雑種強勢の分子生物学的な研究と展望 - 化学と生物
      雑種形成(ヘテロシス)の分子機構の一つが解明
      マウス雑種強勢QTL(量的形質遺伝子座)の遺伝解析


交雑育種
 外山亀太郎はカイコの遺伝に関する実験的研究を始め、明治39年(1906年)にはカイコの雑種強勢を報告している。また、雑種強勢を利用したカイコの生産を提唱し、ハイブリッド品種を世界で初めて実用化し、昭和のはじめ(1920年代後半)には全国に普及している。
 トウモロコシのハイブリッド品種は、1930年代(昭和5年~15年)にアメリカで開発された。鶏のハイブリッドは1950年代にアメリカで開発され、昭和36年(1961年)に施行された農業基本法による選択的規模拡大と農産物輸入の促進策により、1962年には鶏および鶏肉の輸入が自由化され、アメリカからハイブリッド鶏が怒涛のように日本に押し寄せ、国産鶏の改良と生産は壊滅状態になった。交雑育種は生物の改良だけでなく、資源の管理方法とも関係し、社会と経済界にも大きな影響を与えている。
 参考: 羊の交雑育種の実際
      家畜遺伝学における最新情報
      選抜と交配


フィールドの研究が科学の基礎を築く
 メンデルは植物栽培の豊富な経験から、両親から子への形質の伝わり方に一定の法則があることに気づき、この法則を明らかにするために計画的に交配実験をして優劣の法則、分離の法則、独立の法則を明らかにし、遺伝学の扉を開いた。メンデルの報告は現象に潜む遺伝の法則を数理的に解明したが、当時の博物学的な現象の説明方法に馴染まず理解されなかった。没後16年(発表後35年)経過した1900年に、コレンス、ド・フリース、チェルマクの3人によって独立にメンデルの遺伝の研究が再発見され、コレンスがこれを「メンデルの法則」と命名した。メンデルの法則は、フィールドにおける豊富な植物栽培の経験から発想し、フィールドの実験によって明らかにしたフィールド科学の成果であり、フィールド科学がその後の科学的方法の基礎を築いたことを記憶に留めておきたいものである。
 現在でも様々な環境と育種と飼養条件で発現する牛の形質と遺伝子解析をストックしてゲノム解析に利用すれば、畜産学の新しい分野の基礎を築けるであろう。     

F1とハイブリッドは同じである
 雑種のことをメンデルはハイブリッドと言い、雑種の一代目の個体群をハイブリッドの第一代目(Die erste Generation der Hybriden)と呼んだ。これを英語に訳すと The First Generation From the Hybrids となる。1900年のメンデルの法則の再発見後、英国の遺伝学者ウィリアム・ベイトソン( グレゴリー・ベイトソンの父 )は、メンデルの論文を英訳(1902年)して英語圏に積極的に紹介し、遺伝学 (genetics)、対立遺伝子 (allelomorph)、ホモ接合体 (homozygote)、ヘテロ接合体 (heterozygote)などの術語を導入する等、近代遺伝学の成立に大きく貢献した。

 近代遺伝学ではハイブリッドに関する表記についても、親の世代(P世代,parental generation)および子の世代(F世代,filial generation)の術語が導入され、雑種第一代を子の1代目(F1, the first filial generation)、雑種2代目、雑種3代目をF2、F3と呼ぶように用語の整理がなされた。メンデルのハイブリッドは現在ではF1(エフワン)、F1同士の交配で生まれたものはF2(エフツー)と呼んでいる。日本ではF1の子をF1クロスと呼んでいる。交雑により生まれた子孫の名称をF1やF2と定義したために、日本人にはhybridとfilial generationの区別ができず混乱している。しかもハイブリッドから車を連想する人が多いように、F1(エフワン)からはカーレースのFormula One(フォーミュラ・ワン)を連想する人が多い。農業と自動車産業の圧倒的な情報量の差は仕方がないとしても、メンデルのハイブリッドを英語圏に紹介する際に術語の使用法が整理されてF1、F2、F3と呼ぶようになったことが原因しているのか、日本では人工授精が普及しているので使用される種雄牛は鶏の系統に相当するが、畜産分野においても牛のF1とハイブリッドが同じであると思わない人が多い。

鶏はハイブリッドで牛は交雑種(F1)?
 鶏は選抜して残された育種集団の系統間の交雑で能力が揃い雑種強勢が期待できるコマーシャル鶏をハイブリッド鶏とし、牛は個体選抜なので牛のハイブリッドは不可能とされ、牛の品種間交雑には交雑種(F1)という言葉が使用されてきた。
 ハイブリッドとは市場に出回る生産物(卵や牛肉)を品種や系統間交雑で生産するコマーシャル集団を呼ぶ。国産鶏はハイブリッド鶏の輸入で壊滅状態になったが、その「青い眼の鶏」に立ち向った国産鶏(2)がいる。コマーシャル鶏を生産する種鶏、原種鶏群がいなければ国産卵の首根っこを握られているのも同然だ。牛はコマーシャルと種畜の分離が曖昧で、生産物の品質ばかりに関心が集まるが、世界では地域資源の管理こそ牛の重要な役割である。

 私の牛の交雑の研究は、単なる牛のF1の研究ではない。F1の研究を始めた1975年から、酪農の副産物であるF1を肥育利用するだけでなくF1雌牛を繁殖利用してF1クロスの肥育を考えていた。肥育だけ考えれば早期繁殖させて1産取り肥育が効率が良いが、F1を放牧繁殖して里山を管理させれば日本の資源を利用しつつ住環境の里山管理ができる。牛を飼うことは利益を上げることではなく資源を管理することが世界の常識だが、稲作の国日本では稲作を中心に考えるので、機械化で牛が稲作に必要なくなったとき里山を牛の資源として利用しつつ管理させる発想がなかった。
 乳牛と和牛の交雑の研究成果を出版する際にも、「牛のハイブリッド」をタイトルに入れることを提案したが、まだ民間にはその実績がなく諦めたことがある。しかしこれからはF1の肥育やF1雌牛の放牧繁殖といった牛の研究だけでなく、牛と人と地域と自然の関係の研究、これらの要素をハイブりドに組み合わせて、日本の地方の活力と心豊かな生活を持続させるグランドデザインを必要とする時代が来ると思う。

そして畜産のハイブリッドデザインへ
 デジタル技術では点をつなぐことで文字や映像を表現するが、設計(デザイン)は要素と要素をつなぐことで構想をビジュアル化する。しかも「畜産のハイブリッドデザイン」は、乳牛と肉牛、酪農と肉牛産業、地域と自然と資源を要素として、「牛の放牧によるイノベーションとソーシャルビジネスの提案」で示したように、持続的で心豊かな「地方創生」を目指している。

 高度経済成長が始まった1961年に制定された農業基本法は「農業の自然的経済的社会的制約による不利を補正し、他産業との生産性の格差が是正されるように」、選択的規模拡大を政策の柱とした。自然の恵みを利用するのではなく、自然的制約の不利を補正するという考え方は高度経済成長とパラレルに農業を考えていたことが伺える。これに対して1999年に改定された食料・農業・農村基本法は、「食料の安定供給の確保」と「多面的機能の十分な発揮」、その基盤となる「農業の持続的な発展」と「農村の振興」の4つの基本理念が掲げられた。2001年に改正された森林・林業基本法も、森林の有する多面的機能の発揮、林業の持続的かつ健全な発展を目的に加えている。(参考:「林業基本法」と「森林・林業基本法」

 農林業の多面的機能には稲作に加えて草資源を牛等に利用させて里山や林業を維持管理する方法が重要だが、瑞穂の国ではそのことの重要性に気づいていないのだろうか。
 安倍政権は地方が成長する活力を取り戻し、人口減少を克服するために「地方創生」を目玉政策として首相直轄の総理府に「まち・ひと・しごと創生本部」を開設した。地方創生関連交付金として地方創生加速化交付金が予算化されているが、「しごと創生」にはITの活用や、 農林水産品の輸出拡大、観光振興(DMO)、対日投資促進等が示されている。この「地方創生」と食料・農業・農村基本法に基づく農林行政とはどのような関係があるのだろうか。農林業と「地方創生」の関係があまりに総花的で、鐘や太鼓や笛を鳴らして宣伝しても、地方の人々が安心して豊かに暮らすグランドデザインが見えてこない。
 これまでこのブログで、「牛が拓いた斉藤晶牧場」、世界で一番小さい「大谷山里山牧場」「牛が笑っている牧場」富士山岡村牧場民の公的牧場をめざしている混牧林経営の「ふるさと牧場」、その他全国の事例(2)等を例に「畜産が示す日本のグランドデザイン」として、大学や試験研究機関の連携と総合的研究が発展することを夢見ている。
 参考: 森林・林業基本法―森林と人との新しい関係は生まれるか。
      重点テーマ 地方創生の動き:農林水産省
      農林水産省が取り組む地方創生 農山漁村の天然資源に可能性


参考文献
F1生産の理論と実践
科学の歩みところどころ. 第14回 遺伝子発見への道(鈴木善次)
遺伝学電子博物館(国立遺伝学研究所)
細胞の生物学:遺伝の法則
雑種植物の研究,メンデル(岩波文庫) 
メンデルの「雑種植物の研究」
世界初ハイブリッド品種の育成-蚕の外山亀太郎博士
作物の一代雑種 -ヘテロシスの科学とその周辺-,山田実,養賢堂
植物の世界「ハイブリッド品種」 GLNからこんにちは 38. ハイブリッド品種

初稿 2008.7.26 更新 2017.3.12

自然と生きるシステムの共創~ハイブリッドデザイン

2017-03-08 21:05:13 | 自然と人為

 「自然と生きる」、「自然の暮らし」、「自然と人間の調和」等、自然と人との関係は様々な関心を呼んできた。我々は自然との関係なくしては生きられない。縄文人アマゾン先住民アーミッシュの暮らしに戻らなくても、日本の地方は自然に恵まれているので、農業や畜産を独立した経営として考えるこれまでの常識ではなく、地域の豊かな生活を協力して創る「システム共創」の資源と考えたら如何であろうか。

 前回のテーマ『システムに支配されるのではなく、システムを共創する』の考え方は、すでに下記のように「組織に固くつなぐのではなく、創発的につながる(組織成長から人間成長へ)」の副題をつけて図示して提案していた。


 乳牛と肉牛を単独に考えるよりも両者を交配して良いものを活用する牛のハイブリッドの研究をしてきたが、それは酪農と肉牛産業の混合のように業界のハイブリッド化を提案するものでもあり、牛を放牧することで牛と自然がつながりハイブリッド化の役割はさらに大きくなる。
 このように牛のハイブリッド研究は牛と組織や社会や自然との関係、自然と人の行為のあり方(デザイン)、「自然とデザイン」を考えるところまで拡大する。

 多様な要素をつなぐとシステムが出来るが、そのつなぎ方をデザインとして提案する(システムからデザインへ)。それは理論的にはハーバート・サイモン「システムの科学」から学ぶことが出来るが、最初は人と自然の関係で、今のシステムより良いシステムを次の世代に引き継ぐというホリスティック管理(HM)の現場から学んだものであった。

 私が乳牛と肉牛の交雑の研究を始めたころは、外国からハイブリッド鶏が輸入され個体選抜で改良してきた国産鶏は壊滅状態であった。牛も個体選抜なのでハイブリッドとは呼ばず、交雑牛と呼ばれてきた。メンデルは植物の雑種の研究で雑種をハイブリッドと表現していたが、ハイブリッドという名称は個体選抜のような育種用語ではなく、生産物(コマーシャル)としてBastardより印象が良いhybridを使用したのであろう。今ではハイブリッドは生物だけでなく自動車にも使われ、ガソリンエンジンとモーターの組み合わせとして知られるようになったが、インターネットの分野でもウエブページの文書構造(HTML)とスタイル指定(CSS)を分離して混合する「ハイブリッドデザイン」が提案されている。ここでは牛のハイブリッドを中心にして、生物だけではなく要素と要素の組み合わせでより良いシステムを設計することをハイブリッドデザインとして提案することにする。

 これはまた、物事を総合化ではなく細分化して考えるデカルトの要素還元主義(2)(3)が科学を発達させてきた一方で、その専門細分化が人と自然との関係を遠ざけただけでなく、人と人の関係までも疎遠にしてきたことへの反省でもある。

 専門細分化は人々の知識を深める一方で、もともと曖昧で多様で繊細でもある感性が自然との関係で知性を育てるのではなく、今ではホーキング博士も指摘しているように、人工的な環境で生活している多くの人々の価値観が「富」に偏り、自己中心的知性が感性を誘導してはいないか。
 人々には育った環境や教育により様々な感性と考え方が育つ。多様な考え方の人間がお互いを尊重して生きていくのが基本的人権を守ることであり民主主義ではなかったか? しかし、民主主義の「多数決により意思決定する」というルールを自己中心的な政治家が悪用することにより、強者による弱者の支配へと政治が変質している。自己中心的になった「すべての政府はウソをつく」ので、本来は我々の日常には関係ない国と国の動きが、軍備で紛争を煽るように報道されると、それぞれの国で生活している人々のことを考えることもなく、我々はその国を危ない国だと対立感を煽られる。軍事力が平和を壊すのに、平和のために軍事力を強化することを求める人が愛国者だと思わされる。同様に経済の活力は国際競争力で保たれていると言われると、人々が自然の中で生かされていることの評価は無視される。そして根拠のないことで国民同士が対立する罠が政治には隠されている。したがってここでは国の政治のことではなく、国の政策では無視されてきたが我々で共創することが可能だと思われる「牛と自然と地方の豊かな暮らし」についてのハイブリッドデザインを提案したい。

 ハイブリッドデザインはフィールドを対象とするので、大学の研究教育も大きく変える。実験室の分析材料はフィールドにあり、学者は学生とともに現場に出向き、フィールドのビッグデータは研究室で専門の技術職員によりコンピュータや分析装置で処理される。研究室が基礎研究をして現場はそれを応用するのではなく、現場の研究が基礎研究を刺激する。

 牛は農耕用に家族の一員として大切に飼われた役牛であったが、選択的規模拡大政策により鶏とともに農家にはいなくなった。霜降り肉として政府は大切にしているが、繁殖牛を飼育する小規模経営も少なくなり、里山が荒れる一方で子牛市場の存続が困難になってきている。
 農耕用の和牛が必要なくなったのだから、高級肉として改良して維持する方法が採られているが、和牛は種雄牛の改良と供給のための育種集団として利用し、繁殖牛は放牧して里山管理に利用すべきであろう。直接生産物を利用するコマーシャル生産には牛乳を国内で自給するために乳牛を放牧利用する。ジャージーやブラウンスイスを搾乳に利用する方法もあるが、乳牛と和牛のハイブリッドを利用し、搾乳を目的としない乳牛からF1を生産し、そのF1メス牛を放牧繁殖に利用する。ホルスタインで搾乳する場合でも、高泌乳を求めるよりは放牧で資源を利用してコストゼロを求める方法やホルスタインとジャージーとのF1で放牧に適用する方法もある。オス子牛は肉用に販売されるので、和牛と交雑する場合はF1メス牛を放牧と搾乳に利用する方法も検討する価値があろう。

 これらのF1生産用の種雄牛の能力検定から精液提供、F1子牛やF1メス牛、F1メス牛の子牛(F1クロス)の肥育、処理加工、販売までのシステムをつなぎ、牛を循環させるシステムを動かすことが必要である。
 里山管理には2頭/1haが必要なので、一つの経営体で日本の国土を管理するには規模が大きすぎるので、全国にシステムを作る組織が必要だ。しかも利益が目的ではないので、「地方再生」の国策事業として取り上げて、大学や国・県の協力のもとにNPO法人が実施するのが適当であろう。行政と研究のパラダイムの転換が必要である。

初稿 2017.3.8 更新 2018.1.23