思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

わがままな人は、自分ばかりを見つめている? いいえ、反対です。

2017-04-30 | 教育

わがままで、自己中心な人。

そういう人は、自分を見つめてばかりいる?

いいえ、まったく反対です。

わがままな人は、他人(親や教師や友人)の目、言葉を気にして、彼らの言うことに囚われています。

こどもを見ていると、やるべき対象に真っ直ぐに向かえず、落ち着きのない子は、いつも教師や友人や親の目や言うことを気にしてビクビクしています。そういう子は自己という中心が弱くはっきりしません。だから、自制し、自分の課題に落ち着いて取り組むことができません。自分で自分を変えることができないので、意固地になり、わがままです。

親や教師や友人の言葉に左右されるのはなく、
自分に従う人、自分の内奥を見つめ、自分の真実に忠実な人でないと、
わがまま=固い自我から抜け出せません。

親や教師や友人ではなく、自分自身に正直な人にならなければ、人間精神は進歩しません。わがままを超えて広々とした豊かな精神は、自己の内奥を見つめることでしか生まれないのです。


武田康弘

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アメリカ軍によるイラクへの先制攻撃と全面戦争を思い出しましょう。なぜ?結果は?

2017-04-29 | 社会批評

 イラクへの国際法違反の先制攻撃からはじまった全面戦争、というより、アメリカ軍による一方的な爆撃、ミサイルの雨あられ。学校も病院もイスラム寺院もみな破壊されました。幼子ももろともでした。あげくは、「殺人ゲームを楽しむ米兵たち」(NHKBSで詳細に報道)。

 どうして、国際法上も認められない戦争をアメリカのブッシュ大統領はしたのでしょうか? 独裁者のフセインが生物兵器と核兵器を所持しているからとの説明でした。

 国連で、パウエル氏は、核兵器開発と所持の確かな証拠があるとして、写真を示しました。わたしは、それをテレビで見ていて驚きました。衛星写真にはボヤケた四角の建造物とトラックらしきものが写っているだけでした。これが証拠!?あまりに稚拙なアメリカの説明に唖然として、「とんでもない嘘だよ。」と即座に妻に話したのを昨日のように覚えています。長年にわたり国連が査察を繰り返して「核兵器はない」としていたのに、それを覆して「ある」というには、それ相当の証拠を上げなくてはなりませんが、それが、ボヤケた建造物の写真では、呆れるほかありませんでした。

 その「証拠」をもとにして、対イラクの全面戦争を始め、結果は、核兵器はゼロ、生物兵器さえ見つからず、アメリカの言っていたことはすべて嘘であることが分かりました。この全面戦争で、イラクの国内の主要都市が破壊され、それによる経済の疲弊と米軍により家族や友人を殺された人々の「恨み」の感情ー憎悪が、イスラム国を名のる(IS)超過激な集団を生む温床となりました。

 アメリカは産軍複合体で、たえず戦争をしないとならない政治体制にあると言われていますが、そのアメリカ軍と一体化したのでは、日本もミニアメリカになるほかないでしょう。平等と平和主義の仏教の国という伝統を捨てて、プロテスタントの新興国と一体化してもよい国はつくれないと思います。

 白人一人の死はアラブ人100人の死に値する、という暗黙の意識を日本人も共有するのがよいのでしょうか。わが日本人は、アメリカに「忠」(上位者への恭順という日本の道徳))を示すことで「名誉白人の黄色人種」という地位を獲得しましたが、わたしは、一人の人間としての良心を失わずに生きていきたいものと思います。

 世界で一番早く「アメリカのイラク戦争支持」を表明した小泉元首相、それに追随した現安倍首相らは、反省はないのでしょうか? 何時でも冷静に事態を見ることが、首相の基本条件であることを忘れてはいけません。感情論は、国を未曽有の厄災に陥れます。




 武田康弘

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アメリカ軍への批判はなし、なぜなのでしょうか?日本が敗戦国だから?

2017-04-28 | 社会批評
北朝鮮は最低の独裁国ですが、ミサイルや核兵器は使ったことはありません。ところが世界最大の国であるアメリカは、過去に日本への原爆投下で無差別殺人をしましたが、最近も中東では劣化ウラン弾を多く使用してたくさんの被爆者を出していますし、イラクへの先制攻撃による全面戦争やシリアへの先制攻撃(共に国際法違反)をしています。雨あられのようにミサイルを撃ち込み、学校や病院やイスラム寺院なども破壊されました。赤ちゃんや幼子も多く殺されました。
なぜ、アメリカによる残虐行為への批判はないのでしょうか?ほんとうに疑問です。大国ならばミサイルや核兵器の使用は認められる?白人ならしてもいい?どういうことなのか、テレビの解説者は公正に説明してほしいものです。自民党が下野していた時代には、NHKでアメリカ軍の残酷な実態を報道していましたが、今はゼロです。
北朝鮮による非人道性は許しがたいものですが、桁違いの暴力=アメリカの圧倒的軍事力による他国への攻撃は許されるものなのでしょうか。夜郎自大への批判はしない?

武田康弘
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これは哲学を転回する急所であり、恋知としてのほんらいのフィロソフィーの象徴です。「人権思想の淵源」

2017-04-26 | 恋知(哲学)

昨日、極めて簡明な「人権思想の淵源」の英訳を出しましたが、これは、いわゆる哲学と呼ばれる領域を根本的に転回するもので、わたしの提案する恋知としてのほんらいのフィロソフィーを象徴する小論です。

小論であることで、大論を超えて、皆のものになるといいな、と思います。唯一神というような仰々しい宗教や、言葉の岩のような近代哲学体系(ギリシャ哲学をキリスト教化した理論体系)とは無縁の、誰でもが生活世界の現場からふつうにしっかりと考えることで得られる普遍性のある考え方・見方と思います。

ぜひ、日本国内のみならず世界への発信を希望します。国連でも議論し、新しい人権思想の淵源として世界共通のものになれば嬉しいです。

『人権思想の淵源は宗教ではない』(武田康弘)の英訳ーーThe origin of the notion of human rights・・・(三枝恭子)

武田康弘

 

 

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『人権思想の淵源は宗教ではない』(武田康弘)の英訳ーーThe origin of the notion of human rights・・・(三枝恭子)

2017-04-25 | 恋知(哲学)

The origin of the notion of human rights does not lie in religion or philosophy; it lies in the existence of small children. 
When I say "philosophy," I mean philosophy as an academic discipline
.

 Yesterday in our college level class we studied the overlapping and differences between the notion of Rousseau’s ‘natural man’ and 安藤昌益 (Ando Shoeki)’s 真人
 (shin-jin, ‘true person’).  Rousseau and Ando were contemporaries. (Source: Yasunaga, Juen, 『中江兆民と安藤昌益』(Nakae Chomin & Ando Shoeki), 1978. レグルス文庫.)

 The discussion continued on to examination of “the origin of the notion of human rights.”

 The concept of “human rights” that bases itself on Christianity, a strong form of monotheism, is said to be a universally human concept.  However, hidden in it is the religious belief of a transcendent god.

 My understanding of the origin of the notion of human rights comes from a totally different place from Christian thoughts of Europe and America. Yesterday I first talked about it in the class.

 It is something anyone from any country would easily understand.

 The origin of the notion of human rights lies in the existence of babies and infants.  

 The moment a baby is born s/he possesses individuality; each baby has her or his own way of crying, for instance. The life of each baby is irreplaceable; it cannot be replaced by anyone else’s.  Whether the baby is born into a rich family or poor family, or a famous family or not, does not make the baby any more or less superior or inferior to others. Each baby is just as valuable as any other.  Every baby is born into the world with the same importance and preciousness.

 This has nothing to do with particular thought or religion.  Every parent naturally has this sense and feeling.  Our determination to protect and help the baby grow is more profound and stronger than anything else.  To put it more formally, one can say that this determination contains “the ultimate universality.”  It should be obvious to even someone who has no biological child of her or his own that the origin of the notion of human rights comes from this urge in us.  Unless the person is pathologically warped, s/he inevitably feels love for young children. This love is shared by all of us.

 The origin of the notion of “human rights” lies right there, not in any specific religion or philosophy. This is why the principle of human rights is a universal principle that cannot be violated no matter what.  Freedom, equality, and egalitarianism are all borne out of not from isms and specific religion but from natural human thoughts and feelings.  The notion of human rights has its origin in the love for young children and it comes from one’s whole body and mind.  This is a thought that arises naturally from this source.

 My understanding is that the origin of the notion of the authentic human rights comes from this universal human thought that arises from natural human feeling, and not from monotheism, communism, or Prime Minister Abe and his cohorts’ pre-war ideology that equates the Japanese Emperor as the embodiment of the national entity (国体思想).

 What constitute the foundation of human existence are the respect for an individual, the irreplaceable human being, and 唯我独尊(there is only one of me, and I am precious as is), the awareness of the origin of our beginning.

 

 Author: Yasuhiro Takeda
  
Translator: Kyoko Saegusa

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人権思想の淵源は、宗教(一神教)や哲学(理論体系としての哲学及び人生哲学)ではなく、幼子の存在です。

 2017-03-12 | 恋知(哲学)

 昨日の大学クラスでは、同時代人であるルソーの「自然人」と安藤昌益の「真人」との重なりと違いをやりました。
(『中江兆民と安藤昌益』安永寿延著1978年レグルス文庫から)) 

 そこから、話は広がって、
《人権思想の淵源》の考察となりました。

強い一神教であるキリスト教を下敷きとして持つ「人権」の概念は、人類普遍の、とは言いますが、そこには超越神の存在を置く宗教的信念が隠されています。
わたしの、人権思想の淵源についての見方は、欧米のキリスト教思想とはまるで異なりますので、そのお話をしました。

それは誰にも、どこの国の人にも納得できるとおもわれる話です。

人権という思想の淵源は、赤ちゃん・幼児の存在です。
幼子は、生まれた瞬間から「個性」をもち、泣き方もみな違います。その一人ひとりの命は、かけがえのないもので、他の誰とも取り換えることのできない命です。金持ちや有名人の家に生まれた子も、貧乏な家に生まれた子も、そこには上下はなく、価値に少しの差もありません。赤ちゃんは、みなが大事で尊い存在として生まれてきたのです。これは、特定の思想や宗教とは何の関わりもなく、子を持つ親が誰でも自然に感じ、思うことです。子を守り育てようとする心は何よりも深く大きいです。固い言葉で言えば、この心にこそ「究極の普遍性」があると言えます。わが子のない人も、そこが淵源であることは十分に了解できるはずです。病的に歪んだ人でない限り、幼い命に対する思い=愛情は、みなに共通しています。

 ここに「人権思想」の淵源があり、特定の宗教や哲学に淵源があるのではありません。だからこそ、人権とは、決して侵すことのできない人類普遍の原理なのです。自由も平等も博愛もみな、〇〇主義や〇〇宗教ではなく、自然な人間の想いや感情から生まれますので、人権とは、幼子への心身全体による愛情を淵源とすると言えます。そこから自ずと立ちあがってくる思想です。

 一神教的でも、共産主義でも、安倍首相らの戦前思想=国体思想でもなく、自然な人間の感情から生じる世界共通の人の想い、それがほんらいの人権思想の淵源だというのがわたしの考えです。

一人ひとりのかけがえのない人間=「個人」の尊厳、みな「唯我独尊」として生まれてきたことの自覚、それが人間が人間として生きる上での土台となる考えです。


武田康弘


 小2のかなちゃんの黒板絵

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今日の手賀沼遠望と小さな花たち。

2017-04-23 | 趣味

  

手賀沼遠望の一枚。
続きの写真は、Facebookに載せました。

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「白樺教育館」の教育と文化活動を支えてきた「お金」のはなし。

2017-04-20 | 学芸

 わたしは、3月31日に亡くなった松橋桂子さん(大著「柳兼子伝」の著者・武満徹さんらと共に孤高の作曲家=清瀬保二さんの弟子で最期まで支えた・今年で83歳)の遺品(最初段ボールで2箱半、後で送られてきた3箱)の整理を始めました。教育館の三階への階段と踊り場が使えるので可能な作業です。
 それをしていて、ふと、わたしの白樺活動の「お金」の話をしっかりと記し、公表するのはとても大切で、意義深いことだと感じました。公的機関がすることとは異なる、個人からはじまる公共性(身銭を切ることが現実的条件)こそは、白樺派そのものだと改めて思ったからです。

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   「白樺教育館」の教育と文化活動を支えてきた「お金」のはなし。    武田康弘

 

 わたしが1976年以来40年以上にわたり取り組んできた教育・学問・文化・社会活動には、言うまでもなく、お金がかかっていますが、そのお金は、みな個人財産です。では、それはどこから?

 もちろん、基本となっているのは、わたし自身の心と頭と身体をフルに使っての「仕事」によるお金ですが、一人ひとりをみる教育は、お金の儲かる仕事ではありませんから、生徒からの月謝だけでは、土地や家や塾舎などを購入・建築するのは不可能です。

 わたしは財産に恵まれてはいませんが、なかったわけでもありません。
亡き父は退職金で、亡き母は遺産で得たお金で、わたしの教育・学問・文化・社会活動を支えてくれました。
 父は、学生時代(旧制中学~大学途中)は、祖父が修行していた文京区の真浄寺(浄土真宗東本願寺派)で、後にクレージキャッツの一員となった植木等さんと檀家回りなどをしていましたが、敗戦で学徒動員から帰った後は、労働省勤務一筋でした。その退職金を、わたしの「教育・学問・文化・社会活動」のために拠出してくれました。
 
神田生まれの神田育ちの母は、子ども~女学校の時代に戦争でした。天皇崇拝の教育を受けて軍需産業への奉仕活動や竹槍訓練をし、アメリカ軍による空襲で恐怖の体験をしました。神道学者が校長であった「天皇教」の女学校(安倍首相の思想と同じ)は、GHQにより解散を命じられ今はありませんが、その教育と体験はトラウマとなり、生涯消えませんでした。亡くなった時には、いくらかの現金が残っただけでしたが、それは必要な時々に出してくれていたからです。

 また、農家の本家の長男であった妻の亡き父(亡くなる数年前に「わたしら兵隊はみな天皇は自害すると思っていたが、のうのうと生き延びた!」と親戚一同の前で強い語調で話しました)も協力してくれて、『白樺教育館』の新館の建築費用を負担してくれました。書籍や諸設備の費用などを合わせて大変な金額になりましたが、日本オラクル初代社長の佐野力さん(わたしの哲学研究会と教育研究会の一番熱心な参加者でした)からの報酬と支援金もあり、完成させ、継続・発展させて今日に至っています。

 「白樺教育館」の建つ土地を半額ほどで以前に提供してくれたのは、わたしが我孫子に移り住んで以来、長年親しく交流した故・飯泉決(ひろし)さんで、志賀直哉や柳宗悦・兼子さんに幼いころ遊んでもらった我孫子の主のような数学中心の教育者です。

 このように教育や文化の市民的=公共的活動は、みなの力がなければ、公的機関によるものだけになってしまい、自由度の少ない活動しかできません。けれども、日本では、現実に「お金」を出す人は極めて稀ですので、先陣を切る人がほとんど全てを負担することになります。しかしながら、個人からはじまる市民的自由に基づく優れた教育・文化(それが「白樺派」の伝統)は、「身銭を切る」人が増えないと出来ませんし、続きません。白樺教育館の存在と活動は奇跡的とさえ言えます。

 よき理念実現のためにお金をかけるのですから、身銭を切るのは、狭く自分のためだけに使うより、桁違いに大きな徳と得があるのですが、それを実行する思想と決断力のある人が少ないので、日本では、自由で豊かな公共世界がなかなか拓けないのです。

 建物の維持管理、設備の修理や交換、新しい資料の購入、ふだんの維持費=諸経費、さまざまな活動、それらをすべて個人負担では「金持ち」しかできないですが、わたしは、お金がないにも関わらず、創意工夫の知恵と労力でそれを貫く先駆者になるべく日々奮闘してきました。
 これは確かにバカですが、バカでないと新しい世界はつくれません。それはバカを超えたバカと言えますが、その営みを支えるのは、新しい哲学=『恋知』(「私」を内から輝かす生)で、これはあらゆる宗教にまさる自己内確信を生む条件をもちます。
 また、自分でなんでもやること(やれること)は、とても大切です。

 というわけで、わたしは、バカの協力者と自身がバカになる人が増えることを願っています。それがなければ市民的公共にもとづく善美はつくれません。現代に生きる人々の生き方=価値観=思想の回心が求められると思います。
 いまなお、明治維新政府のイデオロギーである天皇現人神という国体思想=靖国思想が生きていて、自由と責任をもつ「個人」を育てる教育を現実に行おうとすると、ひどい逆流に苦しめられます。民主的な倫理による人間性の豊かさの実現には、まだまだ時間がかかるでしょう。

 なお、誤解なきように付け加えますが、
このお金という現実次元の話が成立するのは、「現実」に先行する豊かな「理念」、多くの人が心の底から納得する思想と実践が必要で、それがあってはじめてお金を出す意味が生じるわけです。人間の行うよきことは、すべて必ず豊かな「理念」が先行するので、その逆はあり得ません。「恋知の生」を共に!


屋上-21㎝反射望遠鏡       白樺教育館外観-40周年の日に              第40回式根島キャンプ&ダイビング63才                                             


  参議院で討論ー55才                                     新館落成10周年・2014年2月1日

 

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北朝鮮はいまだミサイル攻撃ゼロですが、アメリカは頻繁に。戦争になるか否かはアメリカ次第です。

2017-04-19 | 社会批評

 

北朝鮮は、とんでもない独裁国ですが、ミサイルや原爆は一度も使ったことはなく、アメリカは、自由と人権をうたいますが、もう忘れるくらいミサイル打ち放題です。つい最近も、主権国家のシリアに宣戦布告なしに(真珠湾攻撃と同じ)、多くのミサイルを撃ち込みました。すでに劣化ウラン弾という核兵器を幾度も使っています。

北朝鮮が、自分の方から戦争を仕掛けることは考えられないことです。それは自殺行為に等しいですから。もし、戦争が起きるなら、アメリカ軍の先制攻撃以外には考えられません。アメリカ軍が仕掛ければ、わが日本のとんでもない国益損で、大変なことになります。



武田康弘

 
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首相の安倍晋三がもたらした日本の逆転。危険な国への転回を許さないために。

2017-04-17 | 社会批評

 わたしたちは、明治維新の志士(皇族を神とする天皇教による全国民の統一=伝統の破壊)の末裔である長州藩出身の国家権力者の前に頭を下げ、その強権の発動に従うのでは、戦後の民主政治(自治政治)に生きる主権者として、あまりに哀しいです。

 なぜ、安倍晋三という首相に好き放題にやらせる主権者なのでしょうか?

 隣の大国、中国と敵対的関係をつくることが大損なのは誰でも知るところでしょう。ところが、安倍首相は、自身のもつ「天皇中心の日本は強い国」という想念=ポツダム宣言受諾で中国に敗戦したことを認めたくない歪んだ意識がつくる敵対感情を日本中にバラマキ、いま発展途上の中国の欠点をあげて批判嘲笑するネットウヨクのつくるムードに乗り、「戦前思想」を肯定する政治をすすめてきたわけです。

 彼は、小沢一郎がつくった中国友好の太いパイプを断ち切りましたが、それは、石原慎太郎などと同じで、戦争責任の心理的負担を軽減ないしは無くしたいために、本心では関係悪化を望んでいるからです。悪化させれば、自衛隊の予算を膨らませ、新たな武器開発が可能となり、日米軍事同盟のより一層の強化が可能になります。

 また、ISに捕まっている日本人がいる真っ最中に、イスラエルを訪問し、戦争主義者で有名なネタニヤフ首相と握手し、ユダヤ教の象徴の帽子を被り、にこやかにツーショットの写真を撮りましたが、それにより日本は欧米諸国と同じ「テロの対象国」に格上げ!?されたわけです。いま、日本はイスラエルと武器共同開発をしています。

 アラブ側(過激派ではないアラブの人々)との有効な関係を長年にわたり築いてきた日本の政治は、大転換しました。テロの危険に怯える必要のある国として欧米と肩を並べるようになりましたので、それを口実にテロという言葉を頭につけた共謀罪を成立させ、政府批判の市民運動を抑え込む(心理操作を含む)戦略で事を進めています。

 
現憲法を毛嫌いして全面改定を目がけ、すでに禁じ手=憲法を内閣の解釈で変えるという暴挙で国是を変えてしまった政権は、どこから見てもまともではありません。
憲法裁判所が日本にもあれば、間違いなく有罪です。

 いまの日本の政治は、主権者がつくる市民的公共→『公共国家』ではなく、戦前思想がつくる『国体国家』になっています。この危険で恐ろしい事態を変えるには、自由党の小沢一郎のいう大団結(オリーブの木構想)しかないのです。「反安倍」で自民党を減らす以外には、戦前への回帰をストップさせることはできません。

 主権者は、あなたであり、わたしである、という民主政・民主制・民主性を前に進める良心と勇気を持ちたいと思います。戦前思想の国に戻るのではあまりに酷すぎます。

 現天皇夫妻も皇太子夫妻も、戦前思想への回帰を嫌い、国民主権の国を守り、その「象徴」という務め(主役は国民一人ひとりであり天皇は象徴行為のみを行う)に徹すると、繰り返しその言動で示しています。


武田康弘

 

(追記) わたしは、小沢一郎を支持し、ダメな政党=民進党のサポーターであり(党首は辻元清美に!)、共産党にエールを贈る者でもあり、社民党の又市征治のファンです。それに自民党内の隠れ民主派や公明党内良識派(創価教育学会の初心を忘れぬ者)も含めて、国体思想の現自民党を倒すためには、みんなの力が必要です。それぞれの個性を存分に活かして異常にストップ!!

 

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「考える」ことの基本の態度について 武田康弘  山脇直司、荒井達夫、青木里佳、

2017-04-16 | 恋知(哲学)

以下は、8年前のBlog&コメントです。核心です。

「考える」ことの基本の態度について 

 
わたしは、ある批評の中で次ように書きました。

「これでは、自分の具体的経験を踏まえて、自分の頭で考え・生み出すという主体的な態度が弱く、書物への接し方が学生レベル(=思想まで本から答えを得ようとする)でしかありません。哲学や思想の本は、ほんらい考える「手段」でしかないのです。賛同したり、批判したり、いろいろ吟味する一手段としてみなければ、何の価値も生じないのです。肝心なのは、自分がどう考え・どういう態度をとり、どう生きるかです。」

この文章に対して、
なにもかもが受動的で、与えられたものをこなすだけの生活を知らずに強いられている現代人の多くにあてはまる指摘で、「なるほど」と思った、
という感想がよせられました。

主体性と言う言葉が死語になり、私性・主観性を掘り進め、豊かな個性を拓くのではなく、「一般化」の海に沈み、「一般人」になることがまるで優れていること・よいことでもあるかのような不幸な錯覚の中で、思想や哲学までも「ハウツー」となり、受験参考書のごとく問題と解法と「正解」がある!?そういう哲学本が出回り、評判をとる(笑)。「考え」を生みだし、多面的で豊なものとし、自分性を発揮しなければ、考えることには面白さがなく、ほんらいの哲学は生じないのですが、
では、哲学(者)と何か?に対して、わたしの考えを青木里佳さんが、彼女なりの言い方で以下のように記しました。大変分かりよい表現だと思いますのでご紹介します。東京大学で哲学を教えている山脇直司さんに対する意見としてです。

「タケセンさんが言いたいのは、
大学で哲学を知識として(歴代の哲学者のことや それぞれの理論等)学ぶ・教えることは可能ですが、「哲学する」というのは知識を並べることではなく、日常生活の経験から生み出す・創造することだ、と思います。
絵を描くことを例にとってみます。
学校では有名な画家や作品・手法を学べます。
もし自分が教師になったら、上記のようなことを生徒に教えることはできます。
ですが、自分の作品のテーマや自分のやり方というのは普段生活している中で自分で探して確立しないといけません。
それには学校で教えられた知識がヒントになるかもしれませんが、それはあくまで参考程度で、自分流の表現法は経験から編み出していくしかないですよね。
時には壁にぶち当たって何も描けないこともある、時には全然違う分野に挑戦してみて新しい発見があるかもしれません。
要するに、悩みながら考え抜きながら自分の作品・表現法を生み出す=創造する作業が哲学するということなのではないでしょうか。」(青木里佳

武田康弘
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以下は、コメントです。

哲学すること (山脇直司)
2009-07-27 01:35:13

青木さんの「哲学すること」は、自分の生活の中で、自分の経験や思考を通して、世界を表現し、作品化していくという営みのことだと思います。このような営みをさらに進めて、個人と社会の関係を深く考え、より良い社会を実現するにはどうしたらよいかを「共に考えていく」ならば、タケセンさんの言う公共哲学の実践になるのではないでしょうか。
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哲学と公共について (荒井達夫)
2009-07-27 22:05:06

「哲学するというのは知識を並べることではなく、日常生活の経験から生み出す・創造すること、悩みながら考え抜きながら自分の作品・表現法を生み出す=創造する作業である」という青木さんの説明は、すばらしいですね。自分の頭で考えて普通の言葉でちゃんと説明すれば、論理的で本質的なすごい話になるという証明です。これ自体が、まさに「哲学する」ことになっていると思います。

また、「哲学する」は、大学教授、官僚、経営者・・・・・という職業や社会的地位と本来無関係であり、むしろそこから意識的に離れる努力をしなければあり得ません。このことの深い自覚が必要だと改めて思いました。

なお、「公共性」について「哲学」として語る場合も、「自分自身の具体的経験を踏まえ、自分自身の頭で考え、自分自身のことばで語り合う」ことが不可欠なわけで、この図書館職員の方のブログもその可能性を感じさせるものです。↓
http://lomax.cocolog-nifty.com/apprentice/2008/04/post_5a99.html

公務に携わる者が自分の仕事の公共性について考えることは、職務遂行の立脚点を明確にするという意味で非常に重要ですから、書物に回答を求めるのではなく、「自分自身の具体的経験を踏まえ、自分自身の頭で考え、自分自身のことばで語り合う」ことができれば、すばらしいと思います。

結局、何事も「私」から始まらなければ「公共」は起こりえませんし、「私」と切り離せば「公共」は展開しません。公共哲学の核心はここにあると言えるのではないでしょうか。
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発想の転換が不可欠 (武田康弘)
2009-07-28 00:01:13

山脇さん
コメントありがとう。
書物を読解すること≒哲学すること、という従来の考え方・見方を根本的に転換しないと、みなが自分の頭で考える(=自分の具体的経験を踏まえて事象の意味を捉える)という作業が始まらないのではないでしょうか。もしも、人生の大半を書物の読解に費やすことが哲学することだとしたら、哲学とは一部の特殊な人の趣味(または仕事)以上にはなれないでしょう。新しい哲学(=ほんらいの恋知)とは、各々が人生を創造する上で、有用性に富み、面白く愉しいものでなければと思いますが、そのためには「ふつう」言葉で考え・語りあう作業が不可欠でしょう。
いまの大学制度の中で哲学を講義すること(哲学学)と、ひろく哲学する営み(生の創造)は次元を異にしますので、われわれが対話するとき、その次元をしっかり分けた上で語り合わないと、対話は生産的にならないはずです。
また、社会と私の関わりについて考えるときもその基本はまったく同じで、ふつうのことばで自分の生の現場を見据えて考え・語り合うほかありません。
お時間あれば、ぜひ、また直接対話しましょう。
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私の現場 (山脇直司)
2009-07-28 11:52:19

丁寧なコメントありがとうございます。基本的にご意見に賛成ですが、あえて次のような問題があることをお伝えしておきましょう。私の現場の授業では、多国籍な雰囲気のゼミが多いので、常に日本を相対化しながら考えることが不可欠で、「日常体験に還元できない異文化・多文化についての知識」なしに、授業は成立しません。また、日本語が通用しない海外での哲学対話も、「日常体験に還元できない学習によって得られた知識」なしには成立しません。その点でタケセンさんの日常的な現場と状況が違うかもしれませんが、この点については、またいつか話し合いましょう。
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外国人相手も同じでは? (荒井達夫)
2009-07-28 18:05:01

直接の体験から得ることのできない知識は、読書や講義から得るしかない。これは当然のですが、重要なことは、そのような知識も、本来の「哲学」においては、あくまでも参考資料に過ぎないということだと思います。

ですから、そのような知識をいくら積み重ねても、「哲学すること」にはなりませんし、それを他人とやり取りしても、単なる情報の交換にしかなりません。これは、外国人が相手でも同じでしょう。

また、外国人相手であれば、尚更「自分自身の具体的経験を踏まえ、自分自身の頭で考え、自分自身のことばで語り合う」ことが求められるのではないでしょうか。

「参考資料はもう十分。問題に対するあなた自身の考えを教えてくれ。それが肝心だ」と。
日本人以上にそれはシビアではないか、と思います。
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具体的経験の哲学 (タケセン=武田康弘)
2009-07-30 10:47:34
山脇さん

ご事情は察します。
ただ、わたしの「具体的経験の哲学」は、どのような抽象度の高い問題や、世界的な問題も、その真偽を確かめ、妥当性を検証するには、生の現場に戻して吟味するほかないという認識論の原理に支えられているのです。
基礎経験を異にする人々との対話を可能にするのも、己の具体的経験をよく見つめ、それを明晰化することによるほかはなく、他者と通じ合うのは、その互いの体験をイマジネーションにより疑似経験することによる、そう私は思いますが、いかがですか。

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幼児、子ども、女性、国民、を対象物として見ることの恐ろしさーー日本に多いネクロフィリア

2017-04-15 | 社会批評

幼児であれ、子どもであれ、相手を対象として見るという立場に立つ人は、「よい、楽しい、嬉しい」人間関係をつくるのではなく、一方通行です。

固定した自分の見方・考え方により、他者を対象としてみるのは、「死体」(動かないもの・厳しい規律や道徳律など)を愛するネクロフィリアですが、これは、官僚や政治権力者、医師や教師など、自分を上に置く職業の人に多い危険な精神疾患です。エーリッヒ・フロムは、ヒトラーをその代表的人物として挙げています。

集団で女性を暴行した早稲田、東大、慶応、千葉大、慈恵医大の学生や医師などもその典型で、彼らはみな、相手から見返されるのを恐れ、相手が自分の予想通りにならないと不安に陥ります。だから、人間関係をつくれず、相手を物化します。

安倍首相も国家権力を用いて自分の思いを実現させ、批判されると苛立ちます。

幼い子に対しての、さまざまな種類の暴力行為もネクロフィリアの典型です。

わたしたちは、そういう傾向にある人を見分ける力をもてるようにしないと大変に危険です。個人レベルでも社会レベルでも。



武田康弘

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自分だけにお金を使う人では、安倍国体主義に負けます。「ケチ」は、公共的なよいを生みません。

2017-04-15 | 私の信条

「自分(&家族)のことだけにしか頭と労力とお金を使わない人では、安倍イズム(国体思想)に全部やられます。ケチでセコイ人では、公共善はつくれないのです。」との一行を昨日、fbに書きましたが、

国家主義的な考えを批判する側の人は、言葉はカッコよく「正しい」ことを言いますが、自分のお金を出したがらない人が多いように思えます。ケチで、もらうことばかり~~~(笑)。

身銭を切るということなく、言葉だけが民主主義ではおかしいですよね。「皆」と、民主を言いながら、お金は自分だけに抱え込むのでは、ひどい矛盾です。

自分が想い・考えるよいこと、公共的な広がりをつくること、優れた考えや生き方を広めるために「自分のお金を使う」という開かれた心がなければ、公共はつくれません。

もちろん、お金がない人や生活保護を受けている人は出せませんが、かなりの年収があるのに出さない、身銭が切れないのは、その精神に問題があります。

そういう生き方をしていると、「上からの道徳律の押しつけ」を批判しても説得力をもちません。お金の使い道、というその人の本音が赤裸々になる領域で、社会や公共に開かれた自己をもたず、自分と自分の家族だけに閉じている人の言葉は宙に浮き、白々しいだけです。そういう人が改革運動をしても、誰も未来に明るい希望を感じません。したがって必ず負けます。

社会人=公共人としての自由と責任を感じている人は、お金がないときでも出します。出し過ぎて困るほど、は行き過ぎですが(反省)

それは、自己犠牲では全くなく、自己を公共に広げる喜びです。私の得でもあるのです。


武田康弘

 

 



 

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スローガンを叫ぶことは道徳とは無縁。『教育勅語』が反道徳の見本であることを知らぬのでは、哀しく愚か。

2017-04-13 | 恋知(哲学)

親孝行をせよ、とか、夫婦和合せよ、などのスロ―ガンを叫ぶことは、道徳や倫理とはまったく縁のないことですが、日本ではそれが分からない人が多く、困ります。

安倍政権に集う人や文部科学省に勤める役人の無知蒙昧には呆れ返ります。
なぜ、こんなにも言葉や物事の意味が分からないのでしょうか。

自分の経験をもとに、なにがよい生き方かを考えてみる、それを友人らとの対話で広げ深める、それを繰り返して、だんだんと自分の心の世界(「精神世界」)豊かにする。それが道徳を獲得するイロハですので、スローガンを掲げたり、上位者の言うことを暗記し従うのとは、まるで反対です。

自分の内なる声(本心)をよく聞き、自問自答することでつくられる生きる規範ですので、あくまでも自己の内なる良心のことで、外や上からの要請や命令ではないのです。自分が自由に思考し判断するする力を鍛え、それに責任をもつのが道徳のある人なので、盲目的に上位者に従う人は、道徳とは一番遠いのです。

だから、戦前(1940年代)につくられたアメリカ映画『日本を知れ』では、「日本には道徳は存在しない、ただ目上の人に従うだけである。」とナレーションされました。

「わが国は先進国で、西側諸国と価値観を同じくする」と安倍首相は幾度も述べてきましたが、同じどころではありません。似ても似つかない正反対の道徳観で、ひどく後進的です。

 戦後70年が経っても、こういう人間精神の事柄の基本すら分からないのが哀しい日本の現実です。もう少し、きちんと本質を学習し、「思想音痴」から脱出しないと、恥ずかしい限りです。

 

武田康弘(フィロソファー・元参議院行政監視委員会調査室・客員調査員「日本国憲法の哲学的土台」を講義)

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ふつうの人まで「日の丸」に敬礼をはじめたーいよいよ戦前回帰。わが日本人の哀れ(東京新聞)

2017-04-13 | 社会批評

安倍首相ら、明治維新の末裔たちによる戦後の民主主義の否定は、あまりにも愚かです。皆がこれでもウヨク政権を支持し続ければ、日本という国は、民主政=自治政治の終焉を迎えるでしょう。THE ENÐ


以下は、今日の東京新聞夕刊ですが、正鵠を射る指摘です。

  

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わたしは、ポール・ルイスの奏でるベートーヴェンをこよなく愛しています。今年の来日公演、ドキドキ。

2017-04-11 | 芸術

わたしは、ベートーヴェンの音楽が大好きですが、

ピアノソナタと協奏曲は、ポール・ルイスのピアノが好き、というのを超えて「こよなく」愛しています。

優しさ、お洒落、溌剌、楽しさ、

矜持、揺るぎない強さ、

スムース、気持ちよさ、自由自在、

色気、うっとり、

躍動感、リズムのよさ、推進力、

健全、強靱、市民精神。

わたしにとって、ルイスの弾く「ピアノソナタ全曲」と「協奏曲全曲」の二組の全集は、ダントツのベストで、心にも身体にも頭にも、完全にフィットします。ウットリで超ブラボー!!

二組とも日本盤がないのは、日本の音楽関係者が音痴だからかな?(笑笑失礼)

もし、清瀬保二(ベートーヴェンとの出会いで作曲家になった孤高・独創の人で武満徹の唯一人の師)が聴いたなら、間違いなく絶賛したことでしょう。

今年11月の来日、ドキドキ(曲目は未定)二年前のベートーヴェン後期3曲の演奏会(ベートーヴェン245才の誕生日)には、銀座の王子ホールにミューズとエロースとアポロンとディオニソスの神々が同時に降りたった!のでした。


(クリックで拡大)


以下のインタビュー記事は、とてもよくルイスの演奏を現わしています。

凄いんだってば!!

王子ホールマガジン Vol.31 より

図書館で8歳の男の子が手当たり次第にクラシックのアルバムを借り出していたら、さすがに多くの利用者が好奇の目を向けるだろう。しかしリヴァプール在住のポール・ルイス少年は周囲の目など気にせずに、ブラームスやシューマン、ときにはグラズノフなどの交響曲のLPを次々と自宅へ持ち帰り、自分以外はほとんど使わないレコードプレイヤーにかけて聴き入っていた。なかでもベートーヴェンの交響曲第4番との出会いは、30年経った今でもはっきりと憶えている。
 第1楽章、穏やかにぽつりぽつりと呟き出した楽器たちが、やがて手を取り合って踊り出し、快活なアレグロへと流れ込む――ポール少年にとってそれはどこまでも力強く、胸踊る体験であった。彼はいてもたってもいられず母親をプレイヤーの前に引っ張ってきて、針を持ち上げ、第1楽章を最初から再生した。
 「聴いてよ!」
 ……穏やかな導入部から、快活なアレグロへ……
 「ね、すごいでしょ!」
 すると母は、
 「まあ……そうね、いいんじゃない?」
 「そうじゃなくて! すごいんだってば!」

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