思索の日記

美しいもの・よいものへの憧れを抱き続けるタケセンの思索の日記です。

「一神教」的な思考を破り、恋知(哲学)の生を始めたい。

2012-02-13 | 恋知(哲学)
以下は、昨年、ある人にあてたメールの一部です。


哲学書読みの専門家や哲学マニアではない人にとって求められる哲学とはどのようなものか?
自分の生に深い価値を生み、悦びを広げ、生活世界を豊かにする哲学とはどのようなものか?
わたしは、それをつくりだしたいと思っています。

哲学とは何か?の「イメージ」をうまく提示できれば、強烈な広がりをもちますー「イメージ」とは、人の意識に直截に与えられるものですから。
ソクラテスの偉大さは、多くの人間にとって最も切実な「恋」の作用や力動として「考えることの意味と価値」を説明(問動的対話)したところにあります。それによってつくられた「イメージ」は、一般的かつ普遍的な広がりがありますので、その後に現れた一神教の世界(キリスト教)においてさえ大きな力を発揮したわけです。ただし、それゆえに、プラトンがつくった学園『アカデメイア』は、キリスト教を国教としたローマ帝国によって禁止=廃校にされたのですが。「以後、何人も哲学を教えてはならぬ」と。

話しを戻します。
恋の比喩による「イメージ」の創造・提示、そこに東洋思想がギリシャ出自の恋知に敵わないゆえんがあるのです。そして、この恋のもつ【至上性への憧れ心】は、一神教のもつ絶対性・唯一性への要求とも符合します。ただし、恋はそれが恋だと自覚されている至上性への憧れですが、一神教の神概念はその至上性を観念を超えた現実であるとする点で、根本的に異なります。
歴史的にも現実的にも、絶対的な神への信仰は、恐ろしい結果を招いてきました。哲学における「普遍的」なよきものへの憧れと、「絶対性・超越性」を求める宗教とは、根本的に違うのです。

信仰ではなく、よきもの、美しいものへの憧れ心をもつ恋知(哲学)の生を歩みたいと思います。


武田康弘
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主体者であるとは? 自分の体験と人の体験の区別。

2012-02-11 | 恋知(哲学)

わたしの体験から、わたしが感じ、想い、考えたこと、
と、
○○さんの体験から、○○さんが感じ、想い、考えたこと、
は、ちがいます。

わたしが、わたしの生活の中から見い出し、考えたこと、
と、
○○さんが、○○さんの生活の中から見い出し、考えたこと、
は、ちがいます。

これは、当たり前のことのようですが、
それをきちんと区別している人は案外少ないようです。

「・・・・・・なのだ。」と自分自身の経験を踏まえての確信のような話しぶりをする人の話しをよく聴くと、実は、
「情報知」や
「人伝えの話」や
「誰かの体験からつくられた考え方」であることが多いのです。

とくに、書物などに書かれていない「ある人の経験から得られた確信」の話は、出所が分からない為に、自分自身の力で獲得したように話しても、バレません。
だから、平気でウソ(言説内容がウソでなくとも、そのような話し方=生き方は基本がウソです)をつく人が多いのには呆れてしまいます。

「情報知」または人から教えてもらったことと、自ら獲得した「体験知」の区別さえできない、また、あえてしないことで「自分の株をあげる」ことをするような人間は、【民主的倫理】のない人と言えますが、それでは、その人の「考え方・生き方」が深まることは決してないでしょう。存在そのものが「軽い」としか言えませんが、そんな「優秀人」や「有名人」が大勢います。


武田康弘
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民治主義ー民治国家 Democracy

2012-02-09 | 社会思想


リーフ(♪)

タケセンさんの言われる【民治国家】
(【主権在官】(「東大病」者による支配)の官治国家から、【主権在民】による民治国家(自分で考える人々による統治)に変えていく)は、
民主主義を明確化している。
民治国家は、私には、民主主義と同じ意味に
さらに、
民が治めると言う視点を強調している点で、
民治主義と感じた次第です。

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タケセン

リーフさん、どうもありがとう。

Democracy(デモクラシー)
とは、もともと、「DEMO=民衆」と「cracy=・・による統治」の合成語ですので、そのまま正確に訳せば、「民主」ではなく、「民治」なのですが、こういう翻訳語に時代的な限界を感じますね。

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リーフ(♪)

【軍人】でない、
と言うだけの【文民】政治では、
官僚も文民であり、
主権在民は、主権在文民にとなり、
すなわち、主権在官となり、
民が主役の主権在民からは
程遠い国家となることが、
証明されました。

民衆のベクトルは、今、
民治国家を希求しています。

官僚主義と言うのは、
誤りを犯しても、国民の批判で誤りを改めない主義。

民主主義を検証する委員会のようなシステムは、
民治国家となるためには、
是非とも必要な制度だと思います。

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タケセン

まったくその通りですね。
第三者機関(オンブズマン)が必要ですね。

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リーフ(♪)

タケセンさん
コメントありがとうございます。
民治国家。民治主義。ここに、日本の未来があると思います。この用語を日本に敷衍すべきと。


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土肥先生と一緒にみんなで進もう。先生 負けるな!私たちがついている。

2012-02-07 | 社会批評

官僚主義(エリート主義)的な論調が目立つ『朝日新聞』でさえも、不当な、否、あまりにも不当な東京地裁の判決を「社説」で厳しく批判していますが、土肥元校長の裁判の判決内容は、石原都知事と都教育委員会の役人の独裁的権力行使をそのまま認めるという驚くべきもので、常識をもつ人なら誰であれ呆れ果てたことでしょう。

驚天動地というべき判決で、民主主義の否定・民主主義の自殺行為としか言えません。近代民主主義国家を肯定する人で、この判決を「正当だ」と思う人は誰もいないと思いますが、もし、このブログの読者で、そう思う方がおられるなら、ぜひその理由をコメント欄にお示しください。

この裁判官は、丸暗記の司法試験に合格し、上司の顔を見ることを学んだ官吏に過ぎず、「民主主義国家とは何か」という本質については何も知らない愚かな人間という他ありませんが、こういうところに受験主義(=東大病・東大教)の恐ろしさが現れます。意味を問わない事実学の累積は、社会を元か腐らせ、破滅へと導いてしまいます。不毛なイデオロギーの闘い(ウヨクとサヨク)ではなく、民知という健全な知(ソクラテス的な問答による知)に基づく言動、生き方が求められるゆえんです。

リンク先は、土肥元校長から送られてきた「支援する会」の案内ですが、読者のみなさん、ぜひ、拡散をお願いします。直接民主的な言動がなければ、民主主義は絵に描いた餅・お題目に過ぎなくなります。この下の『東京新聞』にもありますように、【主権在官】(「東大病」者による支配)の官治国家から【主権在民】による民治国家(自分で考える人々による統治)に変えていくのは、わたしたち一人ひとりの小さな能動性によるはずです。ぜひ共に!

※なお、土肥校長は、東京大学農学部卒業ですが、東大病・東大教とは、無縁な人です(笑)。(「東大病」についての対話をご参照下さい。)

武田康弘
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東京新聞、一面5段抜き「主権在官」打ち破れ (官僚によるメディアコントロールの恐ろしさ)

2012-02-05 | 社会批評

今朝の東京新聞トップ記事は、5段抜きで【「主権在官」打ち破れ】です。

正鵠を射る見出しと内容で、マスメディアの責任を果たしています。原発事故以来『東京新聞』の記事はますます冴え、その内容の的確さと深さで『朝日』、『読売』を大きく引き離し、独走です。販売部数も大幅に増えているとのことですが、当然でしょう。われわれ市民は、ほんとうの情報と確かな見識が欲しいのであり、官僚によってコントロールされた「ウソ」を読むためにお金を払っているのではありません。

この記事は、憲法の国民主権を骨抜きにする「主権在官」構造と闘う日隅一雄(ひずみ・かずお)さんへのインタビューです。ひずみさんは、弁護士で元産経新聞記者、末期の胆のうがんと闘う49歳。

以下は、要旨です。

「原発事故での会見で、情報を隠そうとする姿勢には、国民主権の理念などまったく感じられなかった。細野豪志さんなど政治家は割ときちんと答えようとしていたが、問題は官です。官僚は匿名、だから責任を取らない。彼らに有利な情報しか出さず、メデイァをコントロールしようとする。日本の民主主義は上っ面だけ。「主権在民」ではなく「主権在官」なのです。三年前の政権交代を経ても、その構造は生き延びている。

鳩山さんも菅さんも官僚の抵抗でつぶされてしまい、野田政権になり、結局は自民党時代と同じ官僚主導の政策決定となってしまった。官僚は強いのです。民主主義を実のあるものにするためには、国会内に【民主主義を検討する委員会】をつくるべきです。

いま、国民が官を疑い、主権者として考える兆しがある。インターネットという道具を使い、官僚お任せシステムを打ち破れる可能性は出てきた。情報をきちんと伝えれば、国民は関心を持ちます。マスメディアも変わらざるを得なくなる。わたしは、病気になっていま、伝える活動に専念していることに因縁を感じる。これがわたしの果たすべき役割なんだな、と自分を納得させている。」


また、「審議会」という名の詐術(官僚が政策決定を握る為のシステム)を変えるためには「透明性の確保」が必要ですが、それを阻むのが【事務局】であることが指摘されています。この「事務局」の問題は、昨日の東京新聞・こちら特報部でも詳しく説明されていました。

事務局の数名(実際は特定の一人か二人)が人事を握るシステムは、官僚の集合意識(自分たちの利益を守る)により支えられています。この不透明さ、というより【完全な闇】の人事が、官という組織を動かしています。主権在民を意識している官僚などまず誰もいません。国民の税金で雇われているという意識も皆無です。

わたしは、2年前に、2期(1年間)にわたり参議院の行政監視委員会調査室で客員調査員として働きましたが(仕事は『日本国憲法』の哲学的土台についての問答式授業を行うこと)、上記のことは、わたしの体験によっても真実です。

官僚人事が不透明=まったくの闇、これがまかり通っている日本という国家は、どう考えても主権者不在という他ありません。官僚の集合意識(無意識を含む)がわが国を漂流させているのです。

われわれ市民が、主体性をもち、惰性態を変えていきたいと思います。『東京新聞』が一面トップの大見出しで、民主化のために【「主権在官」を打ち破れ】という記事を載せたのは、まさに民主的メディアの真骨頂です。みなでエールを送りましょう〜〜。

追記
昨年、5月の8日に、参議院「行政監視委員」の24名(30名中の24名で、過去最多の参加者数)が【最高検察庁】に視察に入りましたが(日本の歴史上はじめてのことです)、マスコミは何も報道しませんでした。国会からの行政監視という民主主義を担保するための大仕事、冤罪が続く検察の不祥事の元を正すための国会議員たちの勇気ある行動(ほんらいは当然ですが)を伝えないマスコミ。なんというテイタラクでしょうか。


武田康弘


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コメント(mixi)


2012-02-06 12:59:43
リーフ(♪)2012年02月05日 22:03

リンク先(武田康弘さん・金泰昌さんらの参議院におけるパネルディスカッション)の
自由対話を拝見し
橋下市長の競技ディベートと
随分違うものだと思いました。
こうした
自由対話なき政治と言うのは
主権在民封じ込めの大きな重石になってますね。
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タケセン2012年02月05日 23:11

権力をもって議論するのでは、議論=自由対話にはならず、卑怯対話(対話ではなく押し付け)にしなりませんよね。
民主的倫理に基づく「対等な立場での自由対話と議論」に依拠するのが民主制社会を動かす原理なのですが、それが分からず、民主主義とは多数決のことと考えている人ばかり(愚)。最後の手段の多数決を本質と考えるのでは、民主主義は、ひどく歪んでしまいます。
人権まで多数決で縛れると思う人まで出てきます(呆・憤)。
「自由対話なき政治と言うのは主権在民封じ込めの大きな重石になってますね。」
は、まことにその通りと思います。
――――――――――――――――――――
リーフ(♪)2012年02月06日 11:20

タケセンさん、

日本人は、
多数決=民主主義と思わされてますね。

形式的な対話、
権力を背景にした対話で、
一気に多数決に行く。

自由な対話により、
少数意見が忌憚なく言論で多数意見を
追及し、攻撃し、
少数意見が多数決に成長する可能性を保障する制度が、
民主主義。

ことに行政の審議会なり
行政委員会なりでは、
政党色を離れて
権力色を離れて

自由対話が必須だと思います。

審議会、行政委員会に限らず、
司法、行政、立法、
学校、その他、
民主主義を前提とする
多くの場で、

日隅さんが提案されてる
【民主主義を検証する委員会】なり、
そうした、
民主主義をチェックするシステムが
制度として存在することが必須ではないか、
と、私は思えます。

政党色、権力を振りかざし、
競技ディベートでやりあっても、
意味がない。
セレモニーとしての質疑応答では、
意味がない。

自由対話を保障した環境下で
社会科学的なシステムを提案し、
検証することは、
必要ですね。

それを、
権力を背景に、
当選は民意によると、権力を振りかざし、
公選されたと言う公選権力を振りかざし、
基本的人権まで多数決で制限したり、
縛り上げる規範を作るのは、
もはや、
民主主義じゃない。

民主主義の土台をぶち壊す多数決は、
もはや、
民主主義ではない。

(追記)

橋下市長、大阪維新の会の
人事監察委員会などと言う、
職員の5段階相対評価の実施がしっかり行われているかを見張り、
密告で監察する委員会などは、

日隅さんの提案する
【民主主義を検証する委員会】とは真逆。
【ファシズムが行われていることを検証し、強制する委員会】に
ほかならない。
―――――――――――――――――――
タケセン2012年02月06日 12:32

リーフ(♪)さんの上記のコメントは、完全に正しいと思います。

「民主主義は開かれた自由対話に依拠する」というのは、特定の意見ではなく、原理中の原理ですから、家庭と学校教育の中で実践されなくてはなりませんね、その実践なくしては、絵に描いた餅にしかなりません。 対話による考える頭の育成が必要ですーその意味でも受験主義の勉学は最悪です。

核心は、われわれ一人ひとりが、日々、「民主的倫理」に基づいて考え・生きることの実践です。それが人として生きる(=愛情と内面の豊かさをもって生きる)上での幸せ・充実をつくるのですから。

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『仏教、本当の教え』(植木雅俊)ー釈迦の【自帰依とダルマ(法=普遍性)帰依】

2012-02-02 | 恋知(哲学)

植木雅俊(まさとし)著『仏教、本当の教え』(中公新書・840円)


インド→中国→日本
本書は、「伝言ゲーム」により釈迦の思想が大きく変わった様が分明に説明されていて、読んで得する書です。サンスクリット語の原典に戻っての緻密な分析に基づく叙述は説得力に富み、優れた比較文化論となっています。

釈迦の思想は、神という絶対者を置かず、現実の人間対人間の中に生きる論理です。ドグマ・占い・迷信・呪術の徹底した否定の下に、絶対平等思想により権威主義的な発想を排除しました。人の貴賤は「生まれ」によるとする見方を批判し、その人の「振る舞い・生き方・行為」によるとしたのです(仏教には女性差別は全くなかったのですが、中国において「儒教」の影響で女性蔑視となり、それが日本にも伝わりました).

絶対神を認めない仏教は、キリスト教やイスラム教という「一神教」とは根本的に異なり、「哲学」であることが分かりますが、その哲学は、天皇家を尊重し特別な敬語で遇するというわが国の「生まれ」「血筋」の重視という考え方とは、全く相いれません。人類史上に輝く根源的な民主主義思想だと言えます。

釈迦の思想は、他者に帰依(きえ=すがる・服従)することを戒め、【自帰依とダルマ(法=普遍性)帰依】を生き方の根本としました。世俗の価値に従い「他者の視線」を通して自らをとらえる生き方を批判し、自らのダルマ(法=普遍性)に目覚め、それを拠り所とする生き方を説いたのです。
「この世において自己という島に住せよ。自己という帰依処(きえしょ)は真の帰依処である。ダルマ(法=普遍性)という島に住せよ、ダルマという帰依処は真の帰依処である」(『ディーガ・ニカーヤ』第二巻、100頁)ーーーこの【自帰依・ダルマ帰依】は、入滅間近の釈迦による遺言のごときもの。

まさに、「内」からの生き方、内発的生き方そのものです。[一神教]とは根本的に異なり、「上」や「外」(絶対者≒神)からの見方の根源的否定ですので、これからの新しい世界が必要とする哲学と合致しています。

新書版で読みやすいですので、ぜひ。


武田康弘
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義憤(公共的憤り)にあふれた東京新聞・筆洗ーー狂い咲きする「東京都教育委員会」の教師への弾圧。

2012-01-31 | 恋知(哲学)
東京都教育委員会のお役人さんと石原慎太郎さんのまえには「人権思想」は紙くず同然。彼らは、人権と民主的倫理にとっては「悪人」の象徴としか言えませんが、今朝の東京新聞・筆洗(一面の最下段で社説と同等)は、極めて的確なものですので、以下にコピーします。

千人近い生徒全員の名前と顔を覚え、校門で気さくに声を掛ける高校の校長はまずいないだろう。退職する時、卒業生全員から寄せ書きを贈られた熱血教師は、あることがきっかけで教育現場から排除されてしまう。

東京都立三鷹高校の校長だった土肥信雄さんは二〇〇六年、職員会議で教師が挙手して採決することを禁じる都教育委員会の方針に異を唱えた。二度と戦争をしないために最も重要なことだ、と生徒に語っていた「言論の自由」が奪われることへの危機感からだった。

定年を迎えた〇九年、ほぼ全員が採用される非常勤教員の試験で不合格になった。すべての項目で最低のC評価。都教委に歯向かったことへの報復であることは明らかだった。

不採用は不当」と土肥さんが都教委を訴えた訴訟の判決がきのう、東京地裁で下された。結果は敗訴。結論が先にあり、理由を後からくっつけたような説得力のない判決だった。
東京や大阪では鋳型にはめ込むように「お上」に従順で物言わぬ教師をつくることに躍起になっている。そんな流れに歯止めをかけるどころか、助長する判決を連発する司法の責任は重い。


三年前の離任式で生徒から渡された「卒業証書」にはこう書いてある。「教育委員会の弾圧にも負けず本校所定の課程を修了したことを証する」。この“宝物”を胸に土肥さんは再び闘いを始める。



以前、わたしは、土肥さんの著作への批評をアマゾンに書きましたが、それは、以下です。

最も参考になったカスタマーレビュー

18 人中、17人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
5つ星のうち 5.0 東京都教育委員会の「狂気」の実態に唖然, 2011/2/21

By 武田康弘 "タケセン" (千葉県我孫子市) - レビュー対象商品: それは、密告からはじまった―校長vs東京都教育委員会 (単行本)

澤宮 優さんの書かれた『生徒がくれた“卒業証書” ~ 元都立三鷹高校校長 土肥信雄のたたかい』に続き、今度は、土肥校長自身が書かれた『それは、密告からはじまった』を読みました。

こよなく生徒を愛し、優れて民主的な学校運営を続けた土肥信雄さん。ほとんどすべての生徒と保護者から愛され、支持されてきた稀に見る校長先生を、東京都教育委員会と石原知事が任命した将棋棋士の米長教育委員は目の敵にし、権力をもって弾圧・陰湿なイジメを行ってきましたが、その実態が本書では、事実をもって淡々と語られています。ただし、土肥さんの心は熱く、叙述はユーモアに富んで楽しいですが。

これを読むと、東京都教育委員会の「狂気」という他にない言動の意味が分かります。戦前と同じく、特定のイデオロギーにつく行政=政治がもつオゾマシサ・危険性が戦慄と共に明白になります。現場・当事者の意思を無視し、上位者のもつ特定の思想を強権によって実現しようとする事がどれほどの「悪」であることか。彼らの所業は、近代市民社会の常識を大きく逸脱し、根源悪と呼ぶほかありません。

本書を読み、一連の出来事の「事実」を知ってなお、東京都教育委員会に理があると思う人は、おそらく唯の一人もいないでしょう。議論すること自体を認めない!!という教育とは、酷い管理でしかありませんが、管理と教育が二律背反であることさえ知らない人が教育行政に関わるとは、ただ絶句あるのみです。管理とは機材や設備、あるいは品質について言われることであり、人間を管理するというのでは、悪未来のSF小説でしかありませんし、歴史的には、ヒトラーのナチズムや戦前の天皇制下の軍国主義における人間抑圧そのものです。

いま、土肥さんは、東京都教育委員会を相手に裁判をしていますが、この裁判で万一土肥さんが「敗訴」するなら、わが日本の民主主義は完全にオシマイでしょう。繰り返しますが、本書を読まれてなお、土肥さんに非があると思う方は、一人もおられないと思います。ぜひ、ご一読を。

「教育現場で私は生徒に「自分の思ったことははっきり言いなさい」と指導してきました。ほとんどの学校の教育目標に「自主性、主体性」という言葉が出てきます。私は、それを生徒に教えた責任からも、自分の思ったことは言わずに、不当な権力にへつらうことは出来ません。・・・今回提訴した一番の理由は「生徒のために」です。私の教えた生徒たちが自分の思ったことを自由に発言できる社会にしたいからこそ提訴したのです」(土肥信雄・本書106〜7ページ)

みなさん、この問題に限らずですが、私が、自分が、できることをしてみませんか。評論家のような生き方はよい人生ではありません。小さな勇気ある行動・よき行為によってのみ、人間の生は、意味をもち、価値づく、わたしは、そう思っています。

武田康弘

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いまの社会は、正義は消え、既得権益者が他者を差別・抑圧することが当然という状況が続きます。批判者は排除する、体制に従う者以外の権利は認めない、というがごとき状況です。わたしは、昨日マイミクになったリーフさんへのコメントに以下のように記しました。

タケセン2012年01月31日 12:03

これから、外的世界は、ますます混乱し、混沌が続き、世界には諸問題が横溢するでしょう。これは、避けられないことだと思います。
こういう状況だからこそ、何より求められるのは、内発的に、内からの充実した生を「私」が貫くことです。
戦前の天皇現人神の時代においても、少しもひるむことなく、堂々と論を張り、公共社会を拓く努力を続け、「私」という座標軸を不動のものとして生き続けたのが戦後第55代総理となった石橋湛山でしたが、彼は、どのような状況にも正面から立ち向かい、人権と民主主義の原理を徹底して貫きました。
民主制とは社会思想である前に「民主的倫理」であることを明晰に自覚した人は、困難な外的環境にもひるむことがありません。「内から」という生の基本を踏まえているので、豊かさと落ち着きをもつのですね。
共に不退転で楽しく生きていきましょう。



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青空、雲、星空・・・日々、遠くを見る習慣は、何より大切な生の基本。

2012-01-29 | 恋知(哲学)

わたしは、幼いころより今日まで、毎日空を見てきました。
青空と雲はとくに好きです。

小学高学年から天文少年だったこともあり、夜、晴れた日の星空を見ない日はありません。もうじき半世紀になります(笑)。

歩いてもいつも空を見ています。

これは、意識することなく数十年間続けてきたことですが、
最近、この習慣は、人間が生きる上で何より大切な営みではないのか、と思うようになりました。


さまざまな物事・事象を見る時、わたしは、これまでの常識や権威者の言に囚われることが少ないのですが、それは、いつも空(遠く・無定形)を見る習慣がもたらしているのではないか、と思うのです。

いま・現実・眼の前、のことから距離が取れず、ベッタリくっついていると、現実は「図」として浮かび上がらず、現実の中に埋没するだけです。そうなると、目先しか見えない現実主義者=即物主義者に陥ります。現代の受験主義の勉学は、そのような近視眼的な人ばかりを生んでいます。豊かな教養や人間味のない「競争主義」の貧しい人をつくりだすのです。

「いまを知るためには、歴史を知ればよい」のはありません。歴史オタクと言われる人たちや書物に頼る博識の人を見ると、「過去」に縛られ、イマジネーションに乏しいのです。空=遠く・無定形なものを見る習慣をもたないと、過去も書物も知識も「図」として浮かび上がらず、ベタっとした平板な意識しか生まないようです。遠くを見る習慣がないと、せっかく努力して知識を得ても、それが現実をよく見るために役立つことがなく、逆に、現実に縛られる心身を生むだけではないか、わたしはさまざまな経験から、そう確信するようになりました。

さらに言えば、この空(遠く・無定形)を見る習慣は、宇宙の時間という想い・感覚と一つになって、一神教(キリスト教、イスラム教、明治政府作成の天皇教、国家主義のイデオロギー)や超越項を置く哲学(宗教化した哲学)を不用にするもの、とわたしは思うのですが、その話しはまた改めて。


武田康弘
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優れたメッセージ性をもつ『カーネーション』(NHK)

2012-01-28 | 社会批評

わたしは、NHKの連続テレビ小説『カーネーション』を楽しみに見ています。

主人公の糸子は、
ものの見方が明確でブレることなく自分の思いと考えを貫きますが、
同時に、
実際問題から逃げず、現実をしっかり引き受ける粘り強さを持ちます。

情に厚く、豊かな人間味をもち、筋を通すので、見ていてとても気持ちがよいのです。自分にまっすぐで率直な糸子の言動は、感動的です。

こういう優れたメッセージ性をもつドラマが多く必要だと思います。優れた生き方の見本がないと、よい社会にはなりません。


武田康弘
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為替取引に1%の課税で、財政問題は根本的に解決する。「トービン税」

2012-01-24 | 社会思想

現在の為替取引は、ほとんどすべて(99パーセント)がマネーゲーム=賭博なのですから、売買に税金をかけるのは当然のはずですが、なぜか無税です。
実行すれば、わずかな税率でも莫大な税収となり、消費税の必要はありません。

以下は、経済学博士で企業経営者のビル・トッテンさんの著作『アングロサクソン資本主義の正体』からです。

「私は、トービン税のように(1981年にノーベル経済学賞を受賞したジェームズ・トービンの提案)、日本円の売買に1%課税することを提案する。つまり円の売り手に0.5%、買い手に0.5パ−セント税金を課すのである。・・・これにより日本を危うくするほどの円の売買は防げるものと考える。
 もし、それでも円の通過売買が極端に減らないとしても、日本政府は、年間132兆円税収を得られることになる。これだけで現在の地方税と国税をあわせた税収100兆円を大きく上回る税収となる。」(第5章・P.152)

わずか1%(売買に0.5パーセントづつ)の課税で円への投機を防ぐ可能性をもち、それが防げなかったとしても、国家予算を大きく上回る税収が得られる。
「トービン税」を導入すべきです。

武田康弘
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