思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

リピート安倍首相は、日本をもとからダメにする。戦前思想の肯定者の底なしの愚行・悪行。

2018-02-22 | 社会批評

頑固に、
断固とした言い方で、くり返し何度でも同じことを言うこと。
ウソも百回言えば本当になるとした「ヒトラーに倣え」とは、正直な麻生副総理の言だが、
安倍首相の「夜郎自大」と「厚顔無恥」には、批判者もウンザリしてしまい、正しいことを言う方がバカバカしいと思わせるほど(笑・呆)。

昔のふつうの自民党を代表していた福田元首相や先ごろ亡くなった野中元幹事長やなど多くが安倍首相を厳しく批判してきたが、まったく聞く耳を持たず、明治政府がつくった「戦前思想」を是として、西側マスコミからは極右政権という烙印を押されている安倍政権を支持するという国民では、情けないを通り超して、言葉もない。

カミソリの後藤田と呼ばれた元官房長官が、「安倍君だけは総理にしてはいけない」と言った通り、ウソで固めた独裁政権は、NHKをはじめ主要マスコミも抑え、ヒドイ情報の偏りは、ニューヨークタイムス元東京支局長が「これほど異常な民主主義国は見たことがない」というありさま。

日本は、主権在民の民主政治より官僚政府が上に立ち仕切る官府政治がよく似合うのか?
こんな政治のありさまを批判しない人は、「非国民」」ではないのかな(笑)

 

武田康弘

 

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日本人が金メダル!?羽生結弦の存在の魅力の普遍性はナショナリズムとは無縁。

2018-02-17 | その他

 
 2015年12月12日バルセロナで。
   撮影は、高須 力さん


 見事な個人です。国とか国家ではなく、羽生結弦の存在の魅力です。

その精神、スピリットとマインドの善美を演技に視て感動しましたが、
それは、ニッポンちゃちゃちゃというような低次元の世界とは全く無縁の普遍的な感動でした。
【個人を称える】とした≪古代ギリシャのオリンピック精神≫そのものを感得しました。

 昨日と、今日の羽生の演技が終わった直後に出したfbです


 武田康弘

羽生結弦君と宇野昌磨君、「個人」としての優しさと強さの魅力ーー新しい世代の自由な飛翔に乾杯!----昨年のblog

 

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2月14日は、「恋知の会」 明治政府が作った「国家エゴイズム」という思想を穿つ講義です。

2018-02-12 | その他
明後日の水曜日=2月14日は、≪恋知の会≫です。
1時開場、1時30分開始~4時30分まで。
テキストは「恋知」第3章(武田康弘著)です。
私とエゴと公共の本質を穿つ講義をします。
明治政府がつくった「国家エゴイズム」という思想についても詳しくお話します。
その後は自由対話をたっぷりと。
会員でなくても参加できますので、ご遠慮なくどうぞ。参加費は2000円。
我孫子市白樺教育館にて。



武田康弘
 
 
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明治維新がつくった精神は、エゴイズムです。今年で150年。

2018-02-11 | 恋知(哲学)

「私」と「エゴ」の違いーーの続きです。


対米戦争を決定した二人
=岸信介(安倍晋三の祖父)と東条英機
「戦前思想」(天皇現人神という国家エゴイズム)の政治家の代表者。



何がよいのか、ほんとうなのか、と問うことなしに、
自己の利害損得、
家族の利害損得、
所属する組織や団体(学校・会社・役所・組合・サークルなど)の利害損得、
自国の利害損得、
に固執して、「閉じた」世界に生きれば、それはエゴイズムです。
個人エゴイズム、家族エゴイズム、組織エゴイズム、国家エゴイズム。

明治政府の富国強兵政策は、一人ひとりの私の欲望を愛国主義のもとに国家への欲望として統一し、滅私奉公を合言葉にしましたが、これは、広く世界に開かれた関心・興味・欲望ではなく、日本に閉じた関心・興味・欲望でした。
日本国家という概念は、あくまで言葉=概念ですから、それを目に見えるものとする必要が、天皇とその家族=皇室でした。日本を象徴する特別な人間・家族を置くことで、国体という概念を子どもにも分からせようとする政策で、小学1年生から天皇像を毎日拝ませ、日本国への忠義の心=愛国心を養ったわけです。

「閉じている」というのがエゴですが、個人のエゴを開かせるのではなく、閉じたまま国家レベルに拡大するのが「国家エゴイズム」です。明治以降、よく「日本に哲学なし」といわれるのは、私を開いて、普遍性のある「よい」を探求する営みがなく、私を国へと拡大して利害損得を求める日本のありようが必然的に生みだす精神です。

だから、公(おおやけ)と呼ばれる国家(天皇や皇族はそれを象徴する役割を担わされている)と、閉じた私(エゴ)はセットですし、
開かれた私(普遍性を目がけるわたし)と公共性(市民みなのという意識がつくる社会性)はセットです。

私を活かさないと(開かれた私でないと)公共性はつくれませんし、逆に、公共性を生むためには、開かれた私である必要があります。

後者を現実のもとのするには、幼いころより自分で考え・意見をもてるようにする子育てが必要です。自分が何かをした、どこかに行ったという「事実」ではなく、自分はどう思い、いかに考えるか、それをどのように語るか、という「意味」充実の世界がつくれないと、「はじめの一歩」が歩みだせないのです。

戦前の国家エゴイズムは、戦後は個人エゴイズムになりましたが、このエゴイズムの不毛性からの脱却は、これからの最重要な課題と思います。
明治維新の深く大きな負の遺産を清算しないと、日本の未来が開けませんし、一人ひとりの幸福はつくれないでしょう。

武田康弘

 

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ムストネン ピアノリサイタル(2018.2.10))独創的だが、頭脳プレーで肉体性に乏しいために感動がない。

2018-02-11 | 芸術

オリ・ムストネン ピアノリサイタル(2018.2.10)すみだトリフォニーホール



フィンランドを代表するピアニストで作曲家、指揮者でもあるムストネンのリサイタルには深く考えさせられました。

はじめのシューマン「子供の情景」から、独創的な演奏で、スタッカートを多用し、表情付けは創意工夫の塊でしたが、まったくというほどに音楽に入れないのです。情緒と情感に乏しく、自然さがないのです。
すべて頭で考えられ、つくられた音楽からは、少しもよろこびがやってきません。1年3カ月前に王子ホールで聴いたイエルク・デームスの情感と色香の「子ども情景」、89歳のピアニストが醸す魅惑の音楽とは正反対です。デームスには、肉体の奥から発する豊かな身体性がありましたが、ムストネンは頭だけです。

優しくていかにも人のよい笑顔、誠実で一生懸命なムストネンは、誰とでも仲良くできそうな人ですが(よい会社員にもなれるでしょう)、その音楽は肉体の力ー身体性に乏しく、底から湧き上がるエネルギーがありません。だから、理屈抜きの楽しさや悦びがないのです。その不足感を頭で補おうとするので、独創的になるのですが、それはプラスの価値をもたず、ただ他と違うだけです。

結果は、感動がなく、聴衆もごく一部のファン以外は、通り一遍の拍手でした。NHKが入っていたので、テレビ放映されるでしょう。

メインのベートーヴェンの熱情ソナタも一生懸命に頭で考えた演奏なので、音も音楽も統一感がなく、いくら強奏しても軽くて、面白み・感動がありません。幼いころから英才教育を受けたまじめな努力家の彼がとても気の毒に思えました。

音楽に限らずですが、生々しい肉体=身体性を土台にもたないと、やることなすことすべて宙に浮き、豊かな世界・魅力ある世界・意味充実の世界・野性味のある強靭な精神世界がつくれず、空回りになり、生命感あふれる生きたものにならないことが改めて分かった演奏会でした。


武田康弘

 

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篠田桃紅さん(美術家105才)の真実から学びたい。

2018-02-03 | 学芸

以下は、今日、2月3日の「東京新聞」夕刊です。ぜひ、お読みください。
わたしは、『103歳になって分かったこと』(篠田桃紅著)を以前読んで、深く感動しましたが、今日のインタビュー記事はそのエッセンスです。

 

こどものころ、習字の練習で、手本をまねることに強い違和感をもった。

「だって、ニセモノをつくるってことでしょう。それがうまいとお点がよくなるって、変じゃない」

 

女学校では、制服に抵抗した。スカートのひだを細くし、先生から注意を受けた。

「あたくしは、あたくしに似合うものをと思っただけ」「自分を表現するところからアートが生まれる」

 

私は、みなが『珍獣』であればいいと思う。人のことなんか気にしないで、自分なりのやり方を通せばいい。周りと同じほうが楽って人も、多いでしょうけど。

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エゴイズムから脱出する条件は、自分の意見を述べること。エゴイズムと集団同調主義はセットです。

2018-02-01 | 恋知(哲学)

 エゴイスティックな人、
分のプライべートな世界が全ての人。
日本では、それは家族主義、家族エゴイズムとして現れることも多いです。

 自分が考え行為することの中には、「プライべート」と「仕事」のほかに、「公共的・社会的」な行為もありますが、後者には関心がなく、心も頭も時間もお金も狭い自己にしか使わない人がいます。そういう人がエゴイストです。

 閉じた世界で生きていて自他を幸福にしない行為ですが、それがどれほど愚かでいやらしいことかの自覚がないので、いつまでも自我は開放・解放されず、エゴの中でうごめきます。狭い損得の観念に呪縛されているので、悦びや明るさのない自分の人生が、自分自身のエゴの精神によって作り出されてることが分かりません。そういう人は、必ずというほど、他者批判・社会批判をしますが、それは、いつもピント外れです。自覚されないエゴイズムは、「他者を悪者にし批判することで自分のアイデンティティを確立する」という精神構造をもつために、救いがないのです。悪者がいないと自分を保てないわけです。なんとも不幸ですが、自分で気づかない限り一生そのままです。

 公共性のあること、公共性を豊かにすること、公共性を生み出すこと(公共性とは役所関連のことではなく、市民の自発的な行為や普遍性のある理念を実現しようとする営み)を考え、行為し、お金や労力を用いているか否か、それが社会人・公共人としての基本条件です。

 残念なことに、高学歴者で、いまの政治や文化を批判する人の中には、公共人としての行為をしていない人が多くいます。損得勘定が先立つ「せこい」人で、かえって、保守派で「ふつう」の人(「エリート」ではない人)に、公共性をもつ人が多いように思えます。いわゆる「賢い人」は、自分の労力もお金も出さず、本を読んで理屈ばかりという傾向があります。ヘーゲルの「他者承認」の哲学などを援用し、自らの社会的地位の正当性の根拠にして公共的な責務から逃れ、自分の仕事や趣味にしか取り組まないというのでは、エゴイストというほかありません。

 こうしたエゴイズムからの脱出は、他者承認を得ることー社会的な地位を上げることでは果たせません。周囲の価値意識に同調し、他者承認を求める生き方では、エゴイズムから離れるどころか、逆にエゴイズムの固定化=強弁にしかなりません。醜さ、濁り、汚れのエゴイスイズムから解き放たれて自由で豊かな公共的人間として生きるには、自己の考えを主張する営為が必要です。自分の意見をきちんと言わないと、いつまでもそのままです。

 自分が感じ思うことをよく見つめ、自覚して、自己を偽らないことから始め、その自己が感じ、想い、考えることを言葉にする努力が必要です。黙っている人は、いつまでも閉じたエゴの世界から抜け出すことができません。言葉=態度の表明があるとはじめてエゴは、それを批判検討できる可能性をもつからです。何も言わないおとなしい人はエゴイズムとは無縁なのではなく、閉じた人です。それでは、一生涯、エゴイズム(プライベートと「仕事」だけ)にとどまり、開かれた公共世界とは無縁に生きることになります。多くの日本人に見られる主張しない人生は、閉じた生であり、自己の想念を固定化してしまい、エゴイズムの陥穽に堕ちています。エゴイズムからの脱出は、「私」からはじまる人生を生きること、自己を主張するところから開始されるのです。

 繰り返しますが、私が感じ、想い、考えることにつき、それを表現すること・主張することがないと、いつまでもエゴイズムの世界から抜けられず、自分も周囲の人も社会も幸福にしません。開かれた「私」がつくる悦びの多い人生が始まりません。自由闊達な精神が育たず、形式や儀式ばかりのツマラナイ生しかつくれないのです。内容ではなく形式が先立つために、勝ち負けにこだわり、上とか下とか=外的価値を基準に生きるほかなくなるのです。競争主義者で、楽しく豊かな人間性をもちません。何より大切なのは、内なる心、内的価値、内的意味充実であるのに、それが分からないのです。

 エゴイズムの反対は、集団同調主義や空気を読むことではではありません。それらは、エゴイズムを固定化するアイテムに過ぎません。表面は反対に見えるエゴイズムと集団同調主義は、実はセットであり、同じことの表裏です。

 「私」からはじまる人生を歩み、私という個人の意見を育て、私が責任をもつこと。周りの思惑で動かず、がエゴイズムからの脱出の条件です。「私」からはじまる人生を歩むことがエゴイズムの対極にあるのです。個人の自由と責任の意識が弱いとエゴイストに陥ります。しばしば組織人・団体人が見せる悪は、彼らが個人として生きないために、組織エゴイズムに堕ちている証左であり、さらに愛国という名の国家主義は、国家エゴイズムとなるために、言語に絶する悪=人間抑圧や殺害を平気で行うのです。個人のエゴイズム組織のエゴイズム国家のエゴイズムもみな人間を不幸にする思想です。「市民みなのために」という公共性をもたないのです。

 エゴイズムは、他者を否定し、戦争に至る愚かで想念で、とても危険です。

 

 結語として、以前書いた「『私』の意味本質」(「恋知」第2章)を載せます。

 いま、わたしは「自分自身から発し」と書きましたが、この「自分」=「私」から発するという言い方は、多くの哲学・思想関係の研究者が誤解・混同しているように、エゴイズムにつながるものではまったくありません。こういう混乱が生じる原因は、「私」という言葉を、存在と所有の二面を区別なく使う習慣にあります。存在とは≪豊かさ、優しさ、愛らしさ、強さ、大きさ・・・≫のことですが、所有とは≪知識、履歴、財産の量≫のことですので、次元を異にする概念です。

  「私」から発する・「私」を中心に考える・「私」の関心と欲望から始まるという思想を、【所有】という意味で見れば、確かにエゴイズムに陥るほかありません。俺は専門知識の所有者だからふつうの人間より優れているとか、金品・財産を多く持っているから人の上に立つ人間だとか、高い学歴・職歴を所有しているから、あるいは政治権力を持つ人間だから偉いというような想念は、おぞましいエゴイズムそのものです。

  しかし、「私」の健康な心身をつくる実践・「私」の主観性の知を鍛える営み・「私」が憧れ想う世界への探求・・・・「私」の【存在】を優れた魅力あるものとする努力という意味で「私」につく・「私」から始まる・「私」の関心と欲望と言えば、それは、人間の生の基盤=原理であることが了解されるでしょう。善美を憧れ求める心は、「私」からしか始まりようがなく、「私」に位置づくほかにありません。この簡明な原理中の原理を明晰に自覚することで「自他の存在」は始めて意味づき・価値づきます。美辞麗句や衒学哲学や上下倫理という人心支配のインチキ思想ではなく、自他の存在を深く肯定できるほんものの思想は、「私」からしか始まりようがないのです。

  最後に重要な事実を。

 存在のよさを目がけるという意味での「私」につくことは、その子(人)の【存在】が肯定されていれば、誰でもが始める自然な行為です。その子(人)の関心と欲望が否定されたり、操作誘導されたり、閉じ込められたりせず、自由意志が尊重され、心身全体で愛されれば、人は、誰でも「私」の存在を優れた魅力あるものにしようとする営みを始めます。怠惰で醜い存在にはなりませんし、知識、履歴、財産の【所有】の量によって威張る愚か者にもなりません。

 

武田康弘

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わが日本とは実に恐ろしい国=合法的に女性の同意なしに16500人に強制避妊手術を行った。衝撃です。

2018-01-25 | 社会批評

以下は、凄まじい話ですが、わたしは不覚にも知りませんでした。ナチスでも北朝鮮でもなく、戦後の日本、1996年までのことです。

わが国の官僚政府の底知れぬ恐ろしさを改めて知り、衝撃を受けました。

人権とは、今も昔の建前にすぎないのが日本国なのでしょう。安倍内閣の中心ブレーンである八木秀次麗澤大学教授が、ちくま新書に「反人権宣言」を書き、戦後日本をダメにした最大の原因を「女性と子供の人権だ」と力説しますが、それが彼らの本音なのでしょう。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

1/25(木) 16:24配信 河北新報

旧優生保護法下で強制不妊手術を受けた宮城県の60代女性が30日、国に補償を求める全国初の訴訟を起こす。本人の同意のない手術により全国で約1万6500人、宮城県で約1400人が子を持つ人生を一方的に奪われた。母体保護法への改定後、障害を理由に手術を強いられた人もいる。偏見への恐怖で、これまで声を上げられなかった東北の被害者の実態から、今なお残る優生思想の陰を探る。(報道部・畠山嵩)

【強制不妊・避妊手術】宮城県内859人 旧優生保護法 最年少は9歳

◎命ある限り 被害訴える

 愛宕橋(仙台市太白区)を越え、路地に入った先に駐車場が広がる。ここには1962年6月から約10年間、宮城県が運営する強制不妊手術専門の診療所があった。

 「何も知らされず子どもを産めない体にされた。人生が全て無駄になった」

 飯塚淳子さん=70代、仮名=は16歳の時、卵管を縛る手術を受けた。軽度の知的障害を示す「魯鈍(ろどん)」が理由。「遺伝性の障害はなかったのに」。今でも怒りで声が震える。

 7人きょうだいの長女として県沿岸部で生まれた。父親が病弱で家庭は貧しかった。民生委員から「生活保護を受けているなら、優生手術を受けないと」とでたらめな説明をされ、中学3年の時に仙台市内の特別支援学校に移された。

 卒業後は知的障害者の職業訓練をする「職親」の下、住み込みで働いた。「他人の子だから憎たらしい」。背中に馬乗りになった職親の奥さんに言われた。ある晩、つらさのあまり逃げ出したが、すぐに連れ戻された。

 63年1月、県の精神薄弱更生相談所(当時)で知能検査を受けさせられた。判定書は「身体的異状認めず」「態度良好」とする一方、「魯鈍」「優生手術の必要を認められる」とも記載。間もなく、行き先や目的を告げられないまま奥さんと愛宕橋を渡った。

 診療所には、なぜか父親もいた。言葉も交わさず病室に入ると、注射を打たれた。気が付くと病室のベッドで寝ていた。その間の記憶はない。後日、実家で偶然、両親の会話を聞き、子どもを産めない体になったと知った。

生理のたびに耐え難い激痛に襲われた。仕事もままならず、介護職の夢も断念した。卵管の糸をほどくため東京都の病院を回ったが、縛るよりはるかに難しく、無理だった。子どもは諦めきれず、23歳の時に養子をもらった。

 「国に補償と謝罪を求める」と決意し、20年ほど前に名乗り出た。日弁連に人権救済を申し立てるなどしたが、国は「当時は合法」の一点張り。他に訴え出る仲間も現れず、独りで声を上げ続けた。

 昨年7月、宮城県在住の佐藤由美さん=60代、仮名=が被害を公表した。「新しい人に出てきてほしかった。頑張り続けたかいがあった」。涙が止まらなかった。由美さんは30日、国に補償を求める全国初の訴訟を起こす。

自分は訴訟に参加できない。手術理由などを記した「優生保護申請書綴(つづり)」を県が焼却処分し、証拠がないためだ。左胸には乳がんを抱えるが、訴訟に懸ける思いは誰よりも強い。

 「人生を奪った国はきちんと責任を取るべきだ。自分が死んでも被害者が国を追及できるよう、命ある限り被害を訴える」

[強制不妊手術]「不良な子孫の出生防止」を目的に1948年施行の優生保護法の下、母体保護法に改定される96年まで実施された。優生保護法4条は遺伝性疾患を持つ患者に、都道府県設置の審査会が認めれば本人の同意なく不妊手術をできると規定。12条は遺伝性疾患以外でも、保護者の同意と審査会の決定があれば手術ができるとした。53年の国の通達は、手術のために身体拘束や麻酔の使用、被害者をだます行為も認めていた。

 

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クルレンツィスの演奏で、わたしは「フィガロの結婚」に開眼。なんという愉悦感

2018-01-25 | 芸術

 

 クルレンツィスの演奏で、わたしは「フィガロ」に開眼しました。

 なんいう面白さ、まるで音楽のイデアが目に見えるよう。ああ、これがモーツァルトなんだな、と感じました。様式も時代も超え、ムーサ(ミューズ)が現れ出るのを視るー聴くのは心躍る体験です。

 今までの「フィガロ」の演奏は、モーツァルトの楽曲のイデーと実際に演奏される音楽との間に介在物が存在していたのだな、それが「楽しめない」原因だったのか。古典的なオペラとはこういうものーそういうわたしの認識の間違いに気付きました。

 クルレンツィス+ムジカエテルナ(彼がつくった古楽器と現代楽器を使い分ける凄腕オーケストラ)を体験してしまうと、かつての名演カール・ベームの演奏も、21世紀初頭の古楽器による名盤=ルネ・ヤーコプスも邪魔な膜=介在物があることが感じられます。クルレンツィスのフィガロは、愉悦感に溢れ、躍動し、器楽も歌唱もとても自然です。

 音楽好き、モーツァルト好き、オペラ好きの方で、まだ体験されていない方は、ぜひ。心が自由で快活になり、身体が自然と動きだし、豊かな世界が広がります。どこもかしこも面白く、病みつきに~~~。輸入盤ならば、3枚組全曲が2500円程度で買えます。


武田康弘

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人間は、精神こそすべて、でしょう。

2018-01-23 | 私の信条


人間は、精神こそすべて、でしょう。

しかし、その精神とは、戦前の日本でいわれた「ニッポン精神」でもなければ「大和魂」でもありません。
お国ために、とか、天皇陛下万歳という「国家宗教」の精神とは無縁の精神です。

「私の精神」であり、「一人の人間としての良心」です。国家主義とか日本主義というイデオロギーではありません。

伸び伸びと自由で、しなやかで、強い心身を生む精神です。
柔らかく、囚われがなく、飛翔する精神です。
私から始まる民主的で開かれた精神です。
奴隷根性とは無縁の自立する精神です。
安易さのない不退転の精神です。
他者承認に怯えない精神です。
豊かな悦びを生む精神です。

そういう心身を生むのが、ほんものの精神ではないでしょうか。
そういう意味で、人間は、精神こそすべてなのです。


武田康弘



 

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豊かな愛情がなければ、人間のあらゆる知と行為は、無意味、否、有害です。

2018-01-22 | 恋知(哲学)



(第41回 式根島キャンプ&ダイビングで、レストラン・サンバレーの梅田さんと)


一枚の写真の善し悪しは、そこに愛があるか否かで決まります。愛のない精密なだけの写真は、心身を害します。そういう写真を見るのは不愉快です。

音楽も同じ、愛に乏しい音楽は、どれほど技量があろうと無価値、否、技量が高い分だけ有害です。人を不幸にします。

学習や学問も同じ。愛のない知は、他者支配の道具にしかならず、高等だましの言説にしかなりません。他者の上に立とうとする知の営みは、すべて本質的に悪行です。愛情がなければ、知や理性には、存在する理由がありません。

スポーツも、それ自体への愛のない勝利至上主義は、自他の心身を害し、まったく健康を生みません。

政治に人間愛がなければ、国家主義に陥り、人々を抑圧する恐ろしい道具となります。権力を私物化する政治家とは、政治家としてのみならす、人間として最低の存在です。

愛、豊かな愛情を交わし育まない子育てと教育は、人間と社会を終わらせてしまう根源悪で、不幸を生む最大の原因です。

豊かな愛情のない人間の知や行為の恐ろしさを深く自覚しないと、生きる意味は元から消えてしまいます。人間のいない国? 表現不能の恐怖です。


武田康弘

(※ネクロフィリアについて

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「春の祭典」 テオドール・クルレンツィスとムジカエテルナ (ソニーレコード)

2018-01-20 | 芸術

昨日、CDが届き、教室(白樺教育館)で中学生の授業前に聞いたが、はじめ、面食らった。予想とは異なり、意外とおとなしい演奏。
あれっ?
聞き終えて、もう一度再生。まだ真意がつかめない。

今日、家のキッチンの小型のオーディオで聞く。あーーーっ、これはモダンと自然(土着)が一つだ。美しい。弱音部分の美と意味深さに惹きつけられ、うっとりした。強奏部分はとてもシャープだが、荒れない。自然な美しさを保っている。バーバリズムとは無縁だ。

いま、わたしの音楽ルーム兼書斎の大型装置で聴いている。ますます弱音の美しさが際立ち、隅々まで繊細で、実に丁寧。20世紀の事件となった不協和音と荒々しいリズムを特徴とする音楽ではなく、モダンと土着が合一した最高の名曲としての「春の祭典」が繰り広げられる。

それにしても、激しく燃えるような情熱が、頭脳明晰・クールなまでになまでにコントロールされたクルレンツィス指揮のムジカ エテルナがつくる音楽を聞いていると、ちょうど100年前(1917年)に出されたアインシュタインの「一般相対性理論」を思い起こす。最初、それを読んで意味が分かった人はほとんどいなかったが、瞬く間にその衝撃は世界を席巻した。時間と空間の概念が革命されたのだった。

いま、5回目。
実演のような大音量で聴いているが、録音も素晴らしく、眼前に楽器が見える。
う~ん、これは、電子テクノロジーの著しく発達した21世紀のモダンと、土着的な人間の自然性が一体化した恐るべき次元の演奏だー不動の確信がやってきた。徹底的に考え抜かれ、コントロールが行き届いていて、且つ自然でふつう。なんということ。 もう一度、うつくしい! そして実に強い! 


武田康弘

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週2日は休養を=中学部活で指針骨子―スポーツ庁ーー気の遠くなるほどの年月の末、ようやく依存症から一歩前進。

2018-01-17 | 教育

週2日は休養を=中学部活で指針骨子―スポーツ庁

1/16(火) 16:41配信

 スポーツ庁は16日、中学校の運動部活動に関する有識者会議を開き、学期中は週2日以上の休養日を設け、平日の練習時間は長くても1日2時間程度にすべきだとするガイドラインの骨子を示した。

 生徒のけが防止や指導教員の負担軽減が目的で、年度内に正式決定する。

 骨子では(1)学期中の平日と土日に各1日以上、合わせて週2日以上の休養日を設ける(2)1日の練習時間は平日は2時間程度、休日は3時間程度にとどめる―ことを提言。教育委員会や校長は、ガイドラインを参考に休養日と練習時間を盛り込んだ活動方針を策定するとした。高校の部活にもガイドラインの準用を求める。

 ---------

 言葉を失うような超時間労働ならぬ長時間部活=運動部と器楽部の問題は、---何十年も前から続く異様な事態でしたが、ようやく。ほんとうに気の遠くなるような時間の末に、改善にむけて前進です。

 生徒も先生も部活中毒(部活依存症)で、これは世界中どこにもないことですが、なぜ、現場で改善できないのか、ここに日本人の生き方の異常性が象徴的にあらわれています。

 何十年間も非常識な拘束=毎日暗くなってからの帰宅という異様な学校生活が続いても、それを改善できない当事者たち、親と子と教師の思考力・判断力・実践力のなさには今更ながら、呆れます。

 こどもたちの部活や生活仕方まで、役所に決めてもらわないとどうにもならない? もうそろそろ日本人も「一人の自由と責任をもつ人間」として生きることをはじめませんか? いつまでこうなのでしょうか。なんとも情けないわが国民。

 わたしは、1986年に「我孫子児童教育研究会」をつくり、丸刈り強制の撤廃と体罰禁止を実現させました(その考え方とプロセスは、岩波書店からの依頼原稿「我孫子丸刈り狂騒曲」に詳しく記しました)が、同時に過激な部活動のあり方を批判し続けてなんと30年以上が経ちます。中学生に疲労骨折者が幾人も出る異常な事態でも学校や教育委員会は、何もしてきませんでした。

 

武田康弘

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わたしが設計したワンルームの清掃に精を出した一週間。 誰が住むのかな?

2018-01-15 | その他

わたしは、この1週間、授業の前に貸し部屋(ワンルームマンション)の掃除と修繕に精を出しましたが、綺麗にすることは、それ自体がよろこびだな、と改めて感じます。

もともとこのワンルームは、自分が独身であれば、こんな部屋に住んでみたい、と思う部屋としてつくったのですが(細部まですべて私の設計です)、掃除をするのも、同じこと。

床、扉、トイレ、水場、すっかり綺麗になりました。
トイレや水場は、プロが一応はやりましが、全然納得いかないので(笑)、気合を入れて、ピカピカイに~~。気分いい~~

さて、どんな人が住むのかな?楽しみです。

コンクリート造 (大成建設)。

ドア・窓は、すべてペアガラス。

ワンルームで対面式(テーブル付き)のキッチンは、まずないでしょう。

洗面所とバスとトイレが独立する水場は、別空間。

ベランダ付きで、屋上も利用できます。

共益費、上下水道代、ネット代を含んで家賃4万5千円は、格安と思います。

 

 

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個人が「個人として輝いたままでは生きてはいけない」国があるようです。

2018-01-08 | 恋知(哲学)

「私」としての、一人の人間としての、個人としての、想いや考えを述べない人々であふれる国。

 そうだからこそ、個々人の固有の存在=命の価値を自覚しない管理者に支配される国。

 個人が自由に個人の意見を主張しないので、息苦しいムードが漂う国。

みな同じ価値観で、まるで昆虫のような属性をもつ集団同調の国。

巨大組織が偉いとされ、それに従う人がやたらと多い国。

今なお、誕生と同時に敬語で遇される家族がいる国。

そういう国はどこにあるでしょうか。

幸福をつくらない国のようです。

 

武田康弘

fbコメントです。

桑村和夫
ごく個人的な経験ですが、私の小学校5~6年生の時のクラス担任の先生が、ここに述べられたような考えを語り、何人かの生徒に具体的に指摘されたことがありました。
それは、個々の生徒が自分たちの親たちの考えに全面的に支配ないしどっぷりと染まった影響下にあり、昆虫の脱皮のような体験を経なくてはならないことを教えるものでした。
生徒一人ひとり受け止め方は違ったと思いますが、私も私なりに強烈な思考を巡らせる体験をすることになりました。
端的に、親たちからの精神的な巣立ち、自立、自律のイニシャル・ステージに立つ契機となりました。
現政権の首脳たちを見ていると、彼らが二代目、三代目のボンボンであり、恐らく私の先生のような指導を受けたこと、或いは自覚した経験など一度もないのだろうと思われてなりません。
脱皮の体験、強烈でした。中学校に進んでなお三年間考えさせられました。
 
武田 康弘 桑原さん、すばらしいコメント、ありがとうございます。
ほんとうの教育=自分の頭を悩ませて考えることで精神の世界をつくる、がない昆虫大国では、あまりに情けないく、哀しく、不幸ですよね。
ただ従わせる教育は、最大の罪です。恐ろしい馴致教育を平然と冷静に行うのは、狂気の国。
健康・健全、人間愛に満ちた教育により新しい日本をつくり出していきましょう。
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