思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

美しいもの・よいものへの憧れを抱き続ける思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

戦前思想=「神道政治連盟」「神社本庁」「日本会議」の安倍政権を支持するのは、自分で自分の首を絞めること。

2017-01-18 | 社会思想

聖徳太子が神道を排し、仏教による国づくりをしたのが、日本律令政治の始まりですが、
それとはアベコベに仏教を排して神道、しかも従来の神道(町にある神社)ではなく、天皇を現人神にして全国民を支配するという思想が、明治政府(伊藤博文ら)の政府神道=国家神道です(現天皇夫妻や皇太子夫妻も忌み嫌う思想)。その総本山が「靖国神社」(明治政府が東京招魂社としてつくり10年後の明治12年に靖国神社と改名)です。

それは現代の言葉では「カルト宗教」ですが、その「明治政府作成の国家神道」をそのまま受け継ぐのが、安倍首相のもつ思想で、深い関係をもつ「神道政治連盟」「神社本庁」「日本会議」の恐ろしいほどの封建主義です。徹底した上下倫理、個人主義を毛嫌いする家族主義天皇制=皇室絶対の明治主義です。

個々人を主権者とし、個人を活かすことを大元に据えた民主政=民主制=民主性とは、二律背反です。一人ひとりの心、想い→考えにつき、そこから立ち上げるのではなく、マスコミに政府批判を禁じ、政府支持のムードを醸すための戦略を練り、手強い批判者をテレビから消すことで、国家主義を当然とします。

北朝鮮のソフト版(記号学を駆使したはるかに上手な国民洗脳)のような政権。民主政=民主制=民主性を深部で消す政府(安倍首相の親友で思想的バックボーンの八木秀和麗澤大学教授の「反人権宣言」(ちくま新書)「明治憲法の思想」(PHP新書)を見れば、ストレートに戦前回帰を目指していることがわかります)支持する人は、自分で自分の首を絞めているわけです。戦前思想への回帰がなぜよいのでしょうか?エニグマ。


武田康弘

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民主的であることは、人間のよき生の原理です。 安倍政権の思想とはアベコベです。

2017-01-17 | 恋知(哲学)
道徳は民主的(個人の自由と責任にもとづく)でないといけません。
教育は民主的(一人ひとりの考える頭を育てる)でないといけません。
政治は民主的(主権在民による自治政治)でないといけません。
 
民主的な社会とは、自由対話とみなの個性を何よりも大切にすることでつくられる公共世界です。
ほんとうの気持ちに付き、建前の交換ではなく、真心(まごころ)の交換をするのが〈民主的〉です。
偉い人をつくり、偉い人に従うのではなく、みなが自分身に従います。
外面=ごまかしやカッコづけではなく、内心を豊かにする生き方です。
 
いまの日本と安倍政権の思想とはアベコベです。不幸を幸福と居直る文化には救いがありません。
「恋知の生」=善美に憧れ真実を求める「エロース」(ソクラテスによるフィロソファーの定義=『パイドロス』)の生を!

「恋知」ウィキペディア
 

武田康弘
 
 
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お年寄りに、若者にも。歩き方の工夫が大切です。  面白く、楽しく、いろいろね~~

2017-01-15 | 私の信条

転ばないようにしよう、という歩き方は、ダメですね~~

転びますよ(笑)

少しでよいからリズミカルに。

楽しくなるような工夫をして歩くのです。

歩くことが、即 運動になるような歩き方、

たとえば、つま先に重心をかけて歩いてみる、

次は、大股で早く歩いてみる、

次は、小走りにしてみる、

などなどなど。

同じペースで淡々と、ではなく、歩き片を変えて歩くのです。

歩き方のバリエーションを増やすとよい運動になります。

わたしは、階段はいつも2段上がり、時に3段上がり~~、時に一段づつで小走り、時に超スピードで~~ いろいろ。

たまには、わざと転ぶ(ただし、雑草が生えた土の上)。

歩くことを快感に、かつ、運動能力の向上に~~~~というわけです。

それに、頭を使うので、フィロソフィーにも大いにプラス(笑・ホントウ)

 

武田康弘






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宮司の三輪隆裕さんが、神社本庁と日本会議を批判ーー明治政府作成の「国体思想」を神社の思想とする誤り

2017-01-13 | 学芸

以下は、アエラの記事ですが、わかりよく核心が語られていますので、シェアします。拡散すべきと思います。

現役宮司が日本会議を批判 全体主義のこわさに警戒を。

 

三輪隆裕(みわ・たかひろ)/1948年生まれ。神職三輪家56代目。名古屋大学文学部卒業。至学館大学客員研究員(撮影/編集部・作田裕史)

2016年の新語・流行語大賞は「神ってる」。“聖地巡礼”“パワースポット”がにぎわいを見せ、神様が身近にあふれる。3・11から6年、一人ひとりがそれぞれの形で宗教と向き合う時代。日本の宗教にいま、何が起きているのか。AERA 1月16日号では「宗教と日本人」を大特集。清洲山王宮日吉神社宮司の三輪隆裕氏に、伝統ある神社界が生む全体主義の怖さについて語っていただいた。

*  *  *

 まず申し上げたいのは、神社本庁の包括下にある神社で、政治活動に積極的にかかわっている神職は、全体の1%ほどしかいないということです。

 ほかは、神社本庁が改憲署名用紙を置いてほしいと言うから署名簿を置く。選挙で誰かを応援してほしいと言うから応援する。何となくやっているだけです。

 それはなぜか。神職になるには神道学科のある皇学館大学や国学院大学、または地方の神職専門学校で学び、神宮や有力神社で研修をするのが一般的です。このとき、上の方針に絶対逆らうなと徹底して教育されます。上の方針を批判したり、変更したりすることは一切してはならない。神社本庁が考える「伝統」のみが理想であるということ。機関紙の「神社新報」をはじめ、さまざまなルートでそうした「伝統」を刷り込まれるのです。いまの神社界にいる限り、そうした全体主義から抜けることはできないでしょう。

 神社本庁は、明治政府がつくった「国体」を日本の「伝統」と思い込み、天皇を頂点とした家族主義的国家の実現を目指しています。

 本来、多神教である神道には、一つの価値観や規律で国民を縛るという発想はありません。神道の伝統をはき違えています。

 これも理由があります。戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の「神道指令」で国家神道が解体されて、神社界は生き残るために宗教法人・神社本庁になりました。当時のリーダーたちは、明治時代に神職に就いた人々だったので、「国家神道」こそが神道の伝統だと勘違いしてしまったのです。

 その時代から、2代、3代と代替わりをして、ゴリゴリの皇国史観を持つ神職はほとんどいなくなった。考え方がリベラルな宮司もいますが、神社本庁の主導する「伝統」にはあらがえない。その「伝統」を外側からプッシュして先鋭化させているのが、民主主義を敵とする、日本会議の思想の核をつくっている人たちです。日本会議は神社本庁の「伝統」と1%の「真性右派」をうまく利用することで、動員力と資金源を手にしました。全国に8万もの拠点を持つ神社本庁を取り込むことで、小さな組織を大きくみせることに成功したのです。

 神社本庁の政治組織である「神道政治連盟」の政策委員の顔ぶれも、神職主体から、日本会議周辺の思想家中心に変わりました。その影響力が強くなっている証左でしょう。

 いつの時代も人々が従順であれば、一部の人間の意思でいつの間にか極端な社会になるのが、全体主義の怖さです。気をつけねばなりません。

(構成/編集部・作田裕史)

AERA 2017年1月16日号      (※太字と色は、武田による)

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中学校部活動(我孫子市など)の異常性、せめて週休2日は確保すべき! こどもたちの悲鳴。

2017-01-13 | 教育

世界からはとても遅れたとはいえ、会社は、週休二日制になっています。
ところが、中学校の場合、多くの運動部や器楽部では、週に一度しか休みがなく、大会や発表会が日曜にあると、週に一度も休みがない場合もあります。
我孫子市の場合は、連休さえ部活動です。

あまりの異常さに言葉がありません。まるで新興宗教のようで、部員は、やがてその異常性を異常だとは思わないようになります。生徒同士が、先輩後輩が、互いに励まし合い、その長時間性を乗り越えるのです。
なにか戦前の「滅私奉公」、あるいは戦後の「猛烈社員」のような精神状態で、その長時間の拘束→朝早くからの練習と放課後の練習に耐えるのが「美徳」となります。

なぜ、いつまでも日本という島国では、「世界一の長時間労働、世界一の学校拘束」が続くのか?という考察は、いまは置きますが、
とにかく、子どもに精神的&肉体的な余裕を与えよ、
大人が、時間をすべて管理する→こどもの自由を奪うのをやめよ、
家庭で、親子で過ごす時間を与えよ、

こどもは、とりわけ中学生は、部活のために、頭も心も身体も縛られ、自由に身動きが取れません。だんだんと縛られていることが「快感」あるいは、集団の意思に従うのを「当然」と感じるようになり、自分を失います。個性の幅はとても狭くなり、いわゆる型ハマリの日本人になりますが、それは、人間として不幸です。

 大人は、このようにこどもを家畜化している罪を自覚しないといけません。ひどい罰当たりの行為であることを自覚しないといけません。家畜が家畜を管理する!?
こどもたちが、個人性=自己を失い、伸びやか、生き生き、精神の自由な発露が失われていると、社会は窒息します。個人が光輝かなければ、全体も躍動しません。

やすみを与えよ!最低でも週休二日、たとえば、水と日とか、休みがつぶれる場合は、その前日か翌日を休みにせよ! これは、こどもたちの心の底からの叫び声なのです。
教師たちよ、抑圧をやめよ!




武田康弘

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ミヒャエル・ザンデルリンク指揮 ドレスデンフィルー6月25日所沢ミューズでの演奏会にぜひ!関東では唯一

2017-01-13 | 芸術

http://www.muse-tokorozawa.or.jp/event/detail/20170625/

 

 

ミヒャエル・ザンデルリンク[指揮]
ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団

日 時 2017年6月25日(日) 14:15 開場/15:00 開演
会 場 アークホール座席表ホール案内
出 演 ミヒャエル・ザンデルリンク[指揮]公式サイト
ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団公式サイト
曲 目 ブラームス:交響曲第4番
ブラームス:交響曲第1番
チケット
料金

S席:8,000円 A席:7,000円 B席:6,500円 P席:6,000円

メンバーズ倶楽部会員 メンバーズ倶楽部とは?

S席:7,200円 A席:6,300円 B席:5,850円 P席:5,400円

チケット発売

12月18日(日)メンバーズ優先販売開始
12月25日(日)一般発売開始

チケットのお求め

ミューズチケットカウンター

ミューズチケットカウンター:電話番号04-2998-7777

チケット購入方法

窓口販売:10:00 ~ 19:00 電話予約:10:00 ~ 18:00
(休館日は営業しておりませんので予めご了承ください。)

 

  わたしは、2013年にミヒャエル・ザンデルリンク指揮・ドレスデンフィルの初来日(サントリー・ホール)を聴いて、とても感動しました。曲目は、ベートーヴェン7番とブラームス1番でした。
伝統あるオーケストラが、まるで学生オケのように全力で熱い演奏をするのに、驚き、感心し、ザンデルリンクのキビキビとした指揮、ピュアで斬新な解釈にすっかり惚れてしまいましたので、
2015年の再来日にも足を運びましたが(東京文化会館)、これもまた見事なベートーヴェン(5番、6番)で、新しい表現に溢れていました。

  今年2017年は6月25日に所沢ミューズです。関東地方ではこの1回だけの演奏のようです。わたしはとても楽しみで、当日はリハーサルから参加して、そのまま本番を聴きます。曲目は、ブラームスの4番と1番です。
みなさまもぜひ、お出かけ下さい。海外オケですが、日本のオケと同一料金で聴くことができます。


武田康弘

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「精神的鎖国」に陥っている日本=安倍のウイルスの愛国主義は危険で大損を招きます。

2017-01-10 | 社会批評

 テレビを見ると、日本の技術礼賛、日本の歴史礼賛、日本人礼賛、日本、日本、日本のオンパレードで、外国から学ぶというのは、極小。日本人の生き方=考え方への捉え返しはなく、日本の反省は、もうゼロに近く、恐ろしいほどの精神的鎖国に陥っています。

 外国人が出れば、それは日本を礼賛するためであり、この自惚れの上塗りは恥ずかしいもいいところ。

 近隣著国の話題は、すべて否定的であり、いかに日本より劣っているかの解説です。

 翻って、アメリカの話題はいつも超がつくほどで、さすが対米戦争の敗戦国。いつまでもアメリカさまさまで、卑屈この上ないですが、卑屈が嬉しい、米軍が正しい、彼らの意向に従うのが悦びという政府要人のふやけた顔は「精神の公害」そのものです。その無節操に吐き気をもよおします。

 対中国の敗戦国でもあるわが国ですが、それはなかったことにして、悪いのは中国、正義は日本!と合唱する。無条件降伏=ポツダム宣言とは三カ国によるものですが、その三カ国はどこだか知っているのでしょうか。答えは、イギリス、中華民国、アメリカです。もしも、中国の政治が変わったから中国には敗戦していない、と言ったら、国連を抜けるのと同じことなのです。

 敗戦国である日本は、安倍政権(神道政治連盟・神社本庁の国家神道)のように「戦前思想」を掲げることはできません。「ポツダム宣言」はなかったことにはできないのです。国民主権の徹底による民主主義を進める以外にはありません。ふつうの国民は、戦前思想に戻りたくないのです。戦後の民主政を守り、民主政をさらに前に進めることが、ふつうの国民の利益であることはあまりに当然です。明治維新の「皇室を利用しての強権政治家による国民支配」は望んでいません。それは、何よりいまの天皇である明仁さんや皇后の美智子さん、皇太子夫妻の強い意思でもあります。

 ニッポンチャチャチャの愛国音頭は、精神的鎖国の象徴であり、精神の硬直化の証拠であり、これ以上の公共悪はありません。安倍のウイルスに侵されたテレビ局では情けない。占脳=染脳テレビではいけません。

武田康弘

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初詣や神前結婚式や見合い結婚や天皇現人神は、日本の伝統!?みな真っ赤なウソです。(2017)

2017-01-08 | 社会批評

初詣は伝統?
神前結婚式は伝統?
見合い結婚は伝統?
天皇現人神は伝統?

いいえ、み~~~んな明治以降のお話です。

いまのような初詣が始まったのは、ようやく明治も中期からですし、
神前結婚も明治30年代以降のことですし、
見合い結婚は、明治政府が、恋愛を邪なものとして明治中期から「見合い結婚」を強力に推進したもの。それまでの長~~~い日本の伝統は、ずっと恋愛結婚(男女の結び付きの自由)でした。
もちろん、天皇現人神などという思想は、江戸の後期国学や水戸学の思想で、一部の特殊な人のものでしかなく、ぜんぜん伝統などではありません。
靖国神社は、政府がつくった施設で、神社ですらありません(明治2年に明治政府がつくった「東京招魂社」を10年後に神社と改名)。古来
の神社ではなく、明治政府のつくった新興宗教=政府神道の施設なのです。

みな、明治維新を成し遂げた志士たちが、自らの権力を正当化する必要から拵えた代物でしかないのです。
神道を排して仏教による国づくりをした聖徳太子とは正反対の廃仏毀釈が、明治維新政府のイデオロギーでした。



こういう類の話は、歴史家に聞けば山のようにあり、大論文になってしまいますが、
肝心なことは、安倍首相の一派や日本会議にあつまる人々の言う日本の伝統なる話は、元からデタラメで、みな明治維新政府の作成でしかないという歴然たる事実を明晰に自覚することです。

ついでに言えば、大安とか仏滅などとカレンダーに書いてあるのは、カレンダーの制作者=販売者が、どうしたら売れるかを考えてつくり出した代物で(これは明治ではなく戦後のことですが)、無根拠です。満点大笑いの話(=バカげた迷信)でしかないのですが、お菓子会社の「バレンタインデー」創造と同じです。

考えることなく従う、というのは、これまた明治維新以後の日本人の特徴ですが、
われわれ日本人も、そろそろ自分で考える=根拠を知るという脳作業を始めたいもの、と思います。


 
「戦前思想」の代表者
=岸信介と東条英機
(昭和天皇が後ろ盾)


武田康弘

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以上は、昨年の今日=1月8日に出し、1万4千件の「いいね!」を頂き、その後、有名サイトで紹介されて、89万件という途方もない数の「いいね!」を頂きましたが、なぜかそのサイトから消去されたものです。

上の記事に限らず、日本の常識と言われ、思われているものは、明治維新以降に意図的につくられ、国民の信じこまされたものが大変に多いですので、要注意です。日本では、明治以降は、政府関係の権威者(御用学者)がつくり出した言説を調べずに「覚える」ことが学習の基本になっています。自分の頭で考えることを基盤に据えないと、明治維新史観に立つ上位者に都合のよい見方をいつの間に刷り込まれてしまいます。わが日本においても《善美憧れ、真実を求める人間性の豊さ》をつくり出したいものです。

 

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自己存在についての「悟り」とはどういうことか。対象化できないのが主体としての人間。

2017-01-04 | 教育

 以下は、土曜日の今年最初の「大学クラス」(いま『ブッダと親鸞』を使って授業をしている)のために書きました。


  自己存在についての「悟り」とはどういうことか。対象化できないのが主体としての人間。


 人間は、誰であれ、自分の意識の内で生きています。当然ですが、意識の外に出ることはできません。まず、ここを明晰に自覚しないと、人間がいかに生きるかのがよいかを考えるための「はじめの一歩が」はじまりません。 

 それを確認して、いきなり核心です。

 わたし(人間)が物事を知るのは、意識の対象物としての分析によります。それがどのような物事なのかは、わたしの関心(好奇心)や必要に結びつけて知ります。それがどのような意味を持つかは、最後は必ずわたしの関心欲望と言っても同じ)に結び付けられます。

 だから、わたしが、わたし自身の生の意味や価値を知ろうとするのは、わたしを対象として分析して知ろうという構えになります。それが物事を知る方法だからです。しかし、ここにとんでもない落とし穴があるのです。

 物事を知るのは、わたしという主体の営みですが、わたしを知るのに、わたしを対象にしてしまうと、それは何の為であるか、何を目がけるのか、は、位置付かなくなります。もしも、人間をつくったのが神という超越者であるならば、神の関心(好奇心)や必要のためだと言えますが、そうなれば、その神の認識(この場合は人間存在)は、何の為であり、何を目がけるのか、という問いが立てられてしまい、無限連鎖になります。言葉の遊びレベルの話で、やってられない(笑)。

 話を戻します。

 わたし自身の生の価値や意味は、客観的に規定することは不可能で、わたし自身の主観による規定と決定以外にはありえません。もちろん、その主観の認識価値を肯定できる条件は、広い意味で「他者による承認」が大きなウエイトを占めますが、その他者承認とは、今いる他者とは限らずに、過去やそれ以上に未来の他者でもあります(しかも人間だけとは限らない)。もちろん、その他者からの承認が得られているという想いもわたしの主観によるのであり、決して客観と言われる認識ではありません。わたしは、自分の意識の内で生きているのですから、わたしの主観を価値あるものと見るのは、わたし以外の何者でもなく、このわたしです。

 わたしの存在のありよう、その意味や価値について、対象として分析して知るという営みは意味がない、というより、原理上成り立たないのです。それを最初に見切った(悟った)のは、知られる限り、ブッタであり、ソクラテスでした。わたしの存在のありよう、その意味と価値については対象分析が不可能であるのですが、その不可能事を可能だと思う錯誤により、人間の生にまつわる悲喜劇が引き起こされます。

 わたし自身を知りたいという欲求は、誰でもが強く持ち、切実な問題として意識されますが、その知るという意味と方法が、物事を知ることと、主体者であるわたし自身を知ることでは、まるで異なることを知らないと、「出口なし」の地獄になります。精神分析学の不毛性はこの原理的次元での逆立ちにあることを自覚しないと、「はじめの一歩」が歩みだせないのです。

 わたしの存在は、追いかければ、つかまらず逃げてしまいます。存在は、遠くを見る視点により「想う」ことができるだけなのです。掬い取るようにゆっくりと静かに持ちあげるのです。理論は一切通用しません。日々の営みから得られる直観の作用により、何気なく知られるもので、他者や世間などを考慮することなく、存在の声を聞く柔らかで自由な心がないと、得られないのです。心身全体から力が抜け、固い言語的思考から解放されたとき、意識に現れ出るのがわたしの存在です。幼子は誰でもできていることですが、言葉を操ることができるようになると、自覚的に嘘をつく遊びを超えて、自己欺瞞(他者から承認されようとして自分に自分で嘘をつく)が常態化してしまいます。しかし、本人はそれに気づかず、大人になったと思います。言葉で自己の存在を説明できると思い込みます。それはあり得ないことなのですが、ほとんどの大人はそれを知りません。言語化できないイメージの世界に現れ出るのがわたしの存在の姿ですので、きちんと規定することは不可能です。

対象物を見るようには決して知れないのがわたしの存在であり、それはイメージとして現れ出るだけなのです。

 したがって、人間としてのわたしの生き方の問題は、
わたしの意識が向かう先が何であり、わたしの関心や欲望の質が量がどうであるのか、という点にのみあり、それはわたしの主観のみが良否の判断を下すことのできる領域です。誰もみな「唯我独尊」として生まれてきたというブッダの中心思想は、このことの見切りによっています。自己を知るために、他者と比べる=第三者的な目で判定するということをほぼすべての人がしていますが(これを読んでいるあなたも)、それは、根本的に誤まりなのです。一人ひとりが絶対であり、比較が成立しないのが人間存在であることを知らないと、人間の生は永遠に不幸です。

 ブッダの次の言葉は鍵です。

839「マーガンティヤよ、『教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、わたしは説かない。『教義がなくとも、学問がなくとも、知識がなくとも、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』とも説かない。それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならなぬ。

842『等しい』とか『すぐれている』とか、あるいは『劣っている』とか考える人、-かれはその思いによって論争するであろう。しかしその三種に関して動揺しない人、-かれには『等しい』とか『すぐれている』とか、という思いは存在しない。


武田康弘(2017年1月4日)

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ジョナサン・ノット指揮 マーラー交響曲9番は、多色多面的で、21世紀の名演奏。

2017-01-01 | 芸術

 
 マーラーのモチーフの一つひとつがクリアーに立ち現れる。その色模様の美しさに息を飲む。変幻万化する多色の世界は唖然とするほど見事、けれど、その色や音の当たりは、どこか柔らかい。そこが超絶的なクレンペラー指揮による原色的多彩とは違い、近しく温もりのあるのがノットのマーラーだ。

 小沢・サイトウキネンでは、切々と朗々と歌われ見事な合奏として音化されるのは生(なま)の感情で、終曲の「死」は、親しい者の死の悲しみを共に悲しむかごとき。感情移入の世界だ。しかし、それでは日常の言葉や態度では届かない「精神世界」を顕現させることはできず、マーラー第九の音楽の真髄には届かない。それを痛いほど分からせてくれるのはクレンペラーの演奏だが、ノットの温かみのある演奏でも、はやり人間の感情は生ではなく、音楽次元のもので、明確にニ次化(高次化)されている。

 ノットによる第四楽章=「死」との面接に伴う観念や悲しみは、完全に透明で、人間的な優しさは感じるが、それは生(なま)の感情ではなく、高次化された音楽世界のもの。小沢は、感情が昇華されずにそのまま残るので、音もマスになり濁る。朗々したすばらしい合奏は、しかし形而下の世界だ。斎藤秀雄という稀にみる天才指導者による長い感動的なドラマの末に、信じられぬほどの力を身に付けた小沢・サイトウキネンをもってしても届かない、高度な音楽がもつイデア=精神の世界に。

 もちろん、欧米でもカラヤンのように内的湧出としてのイデアの表現ではなく、分かりやすく聴衆を楽しませる帝王もいるが、わたしは、それでは物足りない、否、嫌だ。いま、カラヤンのブルックナー9番をかけたが、あまりに外面的でつくりもの、軽々しく、かつ、騒々しく、なぜ彼がクラシック音楽のビッグネームなのか、わたしには全く意味不明で頭がおかしくなりそう(笑)。

 話をノットのマーラーの9番に戻す。
この演奏の面白さ=素晴らしさは、めくるめくような場面の変転と多彩さで、これは、凄演のバーンスタインにも、魂の深みのバルビローリにもない全く独自の世界だ。マーラーの神経症的な「死」への恐怖感に基づく交響曲としてではなく、もっと余裕感のあるエロースの音楽として演奏していて、実に面白い。

 求心力をもって聴く者を引きずり込むのではなく、まるでオペラか歌舞伎のように場面が変わる。演者が見えを切るような場面もある。その色の変化が見事で楽しいのだ。多色多彩の万華鏡のよう。だから繰り返し何度でも聴きたくなる。「死」の世界に投入されるのではなく、死の観念もまた静かに眺め、想うことのできる音楽だ。これは、やはり21世紀ならではの演奏で、20世紀の名演奏とは意味が異なる。ノットの形而上世界の趣は、微妙な色模様の綾なす艶やかなもの。ラストの死を想う切ない場面、ヴァイオリンの音色が濃やかに変化し続けるのにはウットリと聴き惚れてしまう。すべてに余裕感があり、迫力はあるが激することはなく、世界が豊かで大きい。

 独創的なのにオーソドックス。知的で多色多面的かつ情緒豊かな新しいマーラーの9番の登場に大きなよろこびを持つ。ブラボー!ノット。

録音は2009年で、国内発売はされていないもよう。SACDとCDのハイブリット盤で2枚組・1900円(輸入盤なので変動あり)。オケは、ノットの手兵 バンベルク交響楽団。

 


 (それにしても、東京交響楽団は凄い指揮者に惚れられたものー前途洋々。日本最高ではなく、世界有数のオケになるかもと期待)

 


武田康弘

 

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2017年あけましておめでとうございます。いつもご愛読、とても感謝です。

2017-01-01 | 学芸

いま慌てて年賀状をつくりました。

みなさま、いつも「思索の日記」をご愛読いただき、とても感謝です。

今年もぜひよろしくお願いします。

 

 

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靖国神社とは「神社」ではなく、明治政府がつくった「思想喧伝の施設」です。この事実をご存知ですか?

2016-12-31 | 学芸

過去のBlogを少しまとめて、神社ではない「靖国神社」の実態を明らかにします。

靖国神社とは、元々、民主政の否定を掲げる思想宣伝の政府機関であり(伊藤博文ら明治政府がつくった「天皇現人神の新宗教」の総本山です)、本来の神社ではありません。

生きている人間を神とし、その一族を神の家系とする宗教で、いまの言葉では「カルト宗教」ですが、それを国家権力を用いて全国民に強制したのでした(政府=国家神道は宗教ではなく習俗だという理屈で)。

近代社会になり、このような古代の王制(王は神であり、時間も空間も王が支配する、ゆえに、王が死ねば時代名=時間も変わる)を敷いた国は、わが日本をおいて他にありません。

したがって、敗戦の時、昭和天皇の裕仁(ヒロヒト)は、世界に例のない「人間宣言」(わたしは神ではない)をする事態となったのです。

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信教の自由を元から否定する『靖国神社』は、恐ろしい存在(憲法違反)で、国内問題です。

2013-12-30 | 社会思想

 靖国神社をめぐるいくつもの裁判で明らかになったように、靖国神社は、その教義で、個人の意思を認めません。

 兵隊となり、また、嫌でも政府の命令で兵隊にさせられて戦死すると、靖国神社の思想に反対していた人も、みな日本国の軍神とさせられてしまいます。

 この軍神は【集合神】だというのが靖国の思想なので、「分祀」は不可能なのです。

 靖国を否定し拒否するクリスチャンも、真宗や浄土真宗の仏教徒も、哲学者も、個人の意思は完全に無視され、強制的に日本国家の軍神とさせられるのです。

 個人の思想及び良心・信教の自由を否定し、政府=国家の命令を絶対とするのが靖国思想ですが、このような思想は、近代市民社会ではとうてい認めらるものではありません。

 靖国神社の思想は、明白な憲法違反です。したがって、靖国問題の核心は、外国からの批判云々ではなく、人権=個人の自由の否定にあるのです。

 こういう教義をもち、極めて政治的な思想(「日本の戦争は、すべて天皇陛下による聖戦である」)を宣伝している施設に、戦後民主主義下の政治家が参拝するのが許されないのは、当然です。 

 

 以上のわたしの説明=見解に批判のある方は、コメント蘭にお書き込みをお願いします。罵詈雑言の類のほかはすべて公開しますので、お名前を記された上で(ペンネームでも可)、ぜひ。

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ご存知ですか?「靖国神社」の恐ろしい思想を。ここでは兵士は眠れません。ーーぜひ拡散を!

2016-08-14 | 社会思想

  靖国神社は、明治政府が明治2年につくった「東京招魂社」という【政府神道】の施設で、従来の神道思想(各地にある神社)を否定し、1853年のペリー来航以来の〈維新革命側の兵士のみを祀る施設〉です。10年後に名称を神社と変えましたが、その思想は、実に恐ろしいものです。兵士たちは、このような天皇現人神という国体思想の施設に祀られていたのでは、永遠に浮かばれません。もちろん彼らの御霊は、それぞれの家族の元にあり、天皇現人神というカルト宗教の場にはありません。こういう異様な戦前思想の反省がないならば、日本の政治的社会的営みは、すべて砂上の楼閣です。あまりに当然の話です。

 

 以下は、靖国神社の理論的重鎮である小堀圭一郎 東京大学名誉教授の談で、靖国神社の売店で平積みで売られている宣伝用パンフレットからの抜粋です。

 靖国神社の本殿はあくまで、当時の官軍、つまり政府側(天皇)のために命を落とした人たちをおまつりするお社である、という考えで出発したのでして、それは非常に意味のあることだと思うのです。 そこには「忠義」という徳が国家経営の大本として捉えられているという日本特有の事情があるのです。 「私」というものを「公」のために捧げて、ついには命までも捧げて「公」を守るという精神、これが「忠」の意味です。

この「忠」という精神こそが、・・日本を立派に近代国家たらしめた精神的エネルギー、その原動力に当たるものだろうと思います。ですから・・命までも捧げて「公」を守る、この精神を大切にするということは少しも見当違いではない。その意味で、靖国神社の御祭神は、国家的な立場から考えますと、やはり皇のために忠義を尽くして斃(たお)れた人々の霊であるということでよいと思います。

靖国神社の場合は、・・王政復古、「神武創業の昔に還る」という明治維新の精神に基づいて、お社を建立しようと考えた点に特徴があるといってよいかと思います。

あの社は天皇陛下も御親拝になるきわめて尊いお社である。微々たる庶民的な存在にすぎない自分が命を捨てて国の為に戦ったということだけで天皇陛下までお参りに来て下さる。つまり、非常な励みになったわけです。
国の為に一命を捧げるということが道徳的意味をもつのは万国共通です。言ってみれば、人間にとっての普遍的な道徳の一項目なのです。

実は総理大臣が何に遠慮して、参拝に二の足を踏んでいるのか不思議でならないんです。
中共が総理大臣の参拝に文句を言ってくるのは、何も彼の国民感情が傷つけられたなどという話ではまったくない。あの国の民衆の大部分は靖国神社の存在すら知りません。・・外に問題を設けて反対勢力の目をそちらに向けさせようという国内政治の力学が働いている程度のことであって、まともに相手にすべきことではないんですね。

だから私はこの問題でも総理が断固として参拝されるのがよいと思うんです。そうすると直ちに北京から文句を言ってくるでしょうが、適当にあしらうなり、知らぬ顔を決め込むなり、いくらでも対処の仕方がある。
総理が北京からの苦情を無視して何度でも繰り返し参拝すれば、そのうち向こうも諦めて黙るに決まっている。
総理の参拝が実現し、やがて天皇陛下の行幸もできたということになると、私は国民のモラルに非常によい影響を与えることができると思うのです。
(1999年8月 小堀圭一郎・東京大学名誉教授)

 また、靖国神社の遊就館では、明治以降の日本の戦争はすべて聖戦である、との映画をエンドレスで流しています。


(※もちろん、現天皇の明仁さんや皇后の美智子さん、皇太子夫妻は、このような思想を認めていません。)



武田康弘(元参議院「行政監視委員会調査室」客員ー日本国憲法の哲学的土台を講義)

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靖国神社の徳川宮司の発言が波紋--パンドラの箱を開けた!

 2016-06-26 | 学芸

 以下の週間ポストの記事は、極めて重要です。

こどもたちの教科書にある明治維新の項目は、ひどく偏っています(例えば、NHKの歴史番組・ヒストリアでも伝えている伊藤博文の犯罪=国学者の暗殺、建造中の英国公使館焼き討ち=全焼、長州藩金からの多額の公金横領にはまったく触れず、聖人のごとく扱う)ので、公平・公正な目で日本史を見直し、単純な天皇史観から脱しないと、いつまでもわが国は、精神の後進国に留まります。


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※週刊ポスト2016年7月1日号
靖国神社の徳川宮司の発言が波紋】




 靖国神社が揺らいでいる。

   来る2019年に迎える創立150周年に向けて徳川康久宮司が語ったインタビュー記事の発言が、波紋を呼んでいるのだ。

  記事は共同通信社から配信され、加盟する一部の地方紙(静岡新聞6月9日付、中国新聞6月10日付)に掲載されたのみだった。ところが、地方でしか読まれないはずの記事が各界の識者の注目を集め、にわかに論争へと発展している。

  徳川宮司は靖国神社が抱える課題や、神社の将来像について語った後、「明治維新を巡る歴史認識について発言していますね」という質問を受けて、自らの「明治維新史観」を開陳した。以下が宮司の発言だ。

 〈文明開化という言葉があるが、明治維新前は文明がない遅れた国だったという認識は間違いだということを言っている。江戸時代はハイテクで、エコでもあった〉

 〈私は賊軍、官軍ではなく、東軍、西軍と言っている。幕府軍や会津軍も日本のことを考えていた。ただ、価値観が違って戦争になってしまった。向こう(明治政府軍)が錦の御旗を掲げたことで、こちら(幕府軍)が賊軍になった〉

  一連の発言が波紋を呼んだのは、靖国神社創建の「原点」に関わるからだ。靖国神社のルーツは明治2年(1869年)に建てられた東京招魂社に遡る。

  明治維新に際して、薩摩藩・長州藩中心の後の「明治政府軍」と徳川家や会津藩が中心の「幕府軍」が争う「戊辰戦争」が勃発。勝利を収めた明治政府軍が“官軍”、敗北した幕府軍は“賊軍”とされた。

  この時、明治維新を偉業として後世に伝え、近代国家建設のために命を捧げた官軍側犠牲者を慰霊顕彰するため、明治天皇が創建したのが東京招魂社だ。明治12年に社号が「靖国神社」と改められて現在に至る。

  それゆえに、「賊軍vs官軍ではなく、東軍vs西軍」とする発言は、靖国神社の歴史観を揺るがしかねないと受け止められたのだ。

  靖国神社にある遊就館に展示されている「錦の御旗」には、「戊辰戦争で官軍の象徴として使用された」との解説があるように、靖国神社の見解はあくまで、「明治政府軍=官軍」だ。

  発言の背景には、徳川宮司の出自が関係している。徳川宮司は徳川家の末裔であり、“賊軍”の長であった15代将軍・徳川慶喜を曾祖父に持つ。徳川家康を祀った芝東照宮に奉職した後、靖国神社の宮司になった。「賊軍の末裔」が「官軍を祀る神社のトップ」に立ったわけである。


◆「大村益次郎像を撤去せよ」

 「明治維新史観」の見直しは最近のムーブメントだった。昨年1月に発売された原田伊織氏の『明治維新という過ち 日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト』(毎日ワンズ刊)がベストセラーになったことを皮切りに、半藤一利氏と保阪正康氏の共著『賊軍の昭和史』(東洋経済新報社刊)など、明治維新の勝者の立場に立った歴史観を見直す論考が相次いで発表されている。

  その流れで徳川宮司の発言が飛び出したことで、騒動が拡大しているのだ。著書で「薩長史観」を鋭く否定した原田氏は徳川宮司に同調するかと思いきや、意外にも「発言は中途半端」と手厳しい。

 「明治維新当時、東軍・西軍という言葉はほぼ使われていません。徳川家や会津藩に賊軍というレッテルを張ったのは明らかに薩長ですが、その責任や是非を問わず、当時ありもしなかった言葉に置き換えて流布するのはおかしい。また、靖国の持つ歴史観を見直さないのは欺瞞です。“官も賊もない”と言うならば、まず靖国神社の境内にある大村益次郎(官軍側の司令官)の銅像を撤去すべきです」

  そんな意見が飛び出すほど、今回の発言は衝撃だった。波紋が広がる徳川宮司の発言について靖国神社は、「創建の由緒から鑑みて『幕府側に対する表現や認識を修正すること』を神社として行なう考えはなく、今後も同様の考えが変わることはないとの発言と理解しております」と回答した。

  宮司は150年間封印されていたパンドラの箱を開けてしまったのか。



※週刊ポスト2016年7月1日号

 

 

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完璧!なと言いたくなるほどの「第九」。秋山和慶指揮 東京交響楽団(今日28日のサントリーホール)

2016-12-28 | 芸術

オーソドックスで正攻法の秋山さんの指揮は、品位が高く美しく、磐石の安定感がありますが、それが白熱の輝きを放つので、これは、「完璧な第九だ!」と言いたくなります。もちろん、完璧などないのですが。

オケの各奏者の自信に満ちた音は、もう、「日本のオケとしては云々」という言い方が意味を持たないことを証明していました。東響の品のよさはそのままに見事なまでの迫力で、感動です。

ただただ満足、深い充実。東響と秋山さんに感謝です。豊かな人間性=ヒューマニズムという言葉がピッタリです。

今年は、東響が日本のオケに革命を起こした年と言えるのではないでしょうか。4月から今日まで、ノットさんの指揮で6回、スダーンさんの指揮で1回、秋山さんの指揮で1回、計8回聴きましたが、すべて聴きごたえのある名演でビックリです。70周年と欧州ツァーは、素晴らしい果実をもたらしました。

感動の連続の1年、しめくくりに相応しい完璧な、と言いたくなる第九。明日行かれる方、楽しみにどうぞ。マイクが入っていたので、CD化されるものと思います。

アンコールは、「蛍の光」で、よい演出がされ、観客を含めてみなで歌いました。

 

武田康弘

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王室とか天皇家に生まれると特別な人間で、特別扱い。いつまで続く人類の歪み。

2016-12-27 | 恋知(哲学)

  小2のかなちゃんの黒板画(2016.12)いつの間にか描いていたものー本人はいたずら書きのつもりで。白樺教育館・ソクラテス教室



2500年も前に、人間存在の平等を明らかにし、誰もが「天上天下唯我独尊」であるのがほんらいの人間の生であると看破したのがブッダ(ゴータマ・シッダールタ)です。

同じころに同じ印欧語族のアテネで、史上はじめてペリクレスは本格的な民主政を敷きましたが、その中に現れたソクラテスは、「個人の思考する能力」を鍛えることで、善美に憧れ、真実を求める精神に人間の生きる意味を見い出しました→エロースの生。

けれども、いまもなお、王室とか天皇家(天の皇帝というなんとも凄まじい名称)に生まれた人には特別の敬称ををつけ、特別扱いをしています。こどもでも「おかしい」「間違っている」のは分かります。わたしたちは、いつまでこのような歪んだ思想を持ち続けるのでしょうか。同じ人間に上下をつけ、特定の家に生まれた人を敬うというのでは、正当性をもつ倫理(道徳)や論理は成立しようがありません。

差別的制度を維持することを前提にした倫理や論理は色付きであり、透明性を持ちませんので、真善美とは無縁となり進歩もありません。古い制度を補完する理屈の積み上げだけで、健康・健全な人間性の発展がない不幸に沈みます。

こういう簡明な真理を弁えぬ国では、ほんとうの精神の自由や囚われのない心は現実のものとならず、「差別はいけない」と説いても、国の制度が差別の構造を抱えていたのでは、空語となり、欺瞞にしかならないのは誰にでも分かることです。

わが国の皇室も少しづつでよいので、そのような方向に歩み出し、次第に北欧の旧王室のように、市民社会に溶け込ませていくのがよいのです。各個人を等しく尊重するためには、それ以外の選択肢はないことをよく自覚することが必要です。これは、民主的な公共社会をつくる原理です。その発言や行為から、現天皇の明仁さんもこれに近い考えをもっているのが分かります。

 

武田康弘

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あなたは、安倍首相、麻生副総理、稲田防衛大臣らが、カルト教の主要メンバーであることをご存知ですか?

2016-12-25 | 社会批評

 明治維新政府(少数派だった長州藩らの下級武士たちによる暴力革命の成功者たち)は、自分たちによる日本の支配を正当化し永続化させるアイテムとして、神武以来続く皇室の伝統という神話を用いて、【皇室は神の家系であり、天皇は現人神である】という新宗教(国体主義=靖国思想=政府神道)をつくり、その現人神の前に全国民を拝跪させたのですが、その思想の反省が極めて弱いために、未だに異様な言説が飛び交います。

 これは、【国家カルト】(その総本山として明治2年に政府は「東京招魂社」をつくり、その10年後に靖国神社と改名し、「神社」にしてしまいました)と呼ぶほかない明治政府がつくった新宗教です。前後が逆ですが、政府が麻原のオウム教のような「生きている人間を神とし一族を神の系譜とする」カルト教をつくったのですから、言葉を失います。

 天皇教を作成した中心者は伊藤博文ですが、先輩の岩倉具視やエゲツナイ山県有朋らの集合意思により創られたこの新宗教は、それ以前の日本の歴史をすべて天皇史観に変えてしまい、壬申の乱以降、天武の時にはじめてつくられた「天皇」という言葉を、それ以前の大王と呼ばれた人びとにもあてはめ、126才の長寿をまっとうしたという神武(縄文後期~弥生初期)から受け継がれる「皇統の伝統」という神話を現実の歴史だとする小学生からの徹底したイデオロギー教育が断行されたのでした。明治の半ばにいったんは「個性教育」を打ち出していた文部省の方針は、山県らの意思で、「天皇主義教育」へと逆転し、それ以降無条件降伏による敗戦まで55年間、「日本の歴史は天皇が中心である」という神話による教育が続きました。そのため「個人」という概念は忌み嫌われ、天皇国家の中の日本人は「忠」(忠犬ハチ公はその象徴)の精神をもつべきで、公=天皇に仕える「滅私奉公」こそが最高の道徳とされたのでした。

 これは、一人ひとりの個人から生まれる内的世界の豊穣とは逆に、外なる価値に合わせて生きる国家主義の人間をつくることになり、個人の存在価値があらゆる価値の基盤である〈フィロソフィー〉とは無縁の大日本帝国のために日本臣民は存在するという強固な〈国家主義〉を生み、個人の内的宇宙は邪なものとされました。いまだに、「私の人生は私がつくる」という人間の人間的な生を歩めない日本人が多いのは、その深い後遺症と言えます。

 壬申の乱後の律令政治のはじめと天皇家が南朝と北朝に分かれて戦争した時以外は、天皇は儀式を執り行う者であり、その意味でほんらい象徴的な存在であったのに、明治政府によりオドロオドロしい役割を担わされてしまったことを嫌悪する現天皇の明仁さんは、個人としての発言の自由がない現憲法下で精一杯の抵抗をしていますが、安倍首相らウヨク政治家は、天皇個人の意思などおかまいなく、天皇=皇室というシステムを利用してニッポン主義で国民を統一することに情熱を燃やしています。

 前置きが長くなりましたが、上記の事実と真実をよく踏まえないと、いまの安倍政権やそれと類似する多くの政治家の過ちと危険性を了解することができないので、最低限の説明を書きました。

 英仏ではだいぶ前から安倍晋三とその閣僚たちが所属するカルト教=「日本会議」という極右団体を危ぶみ、批判していますが、アメリカでも、元大統領補佐官・国務長官のキッシンジャーが次期大統領のトランプと会談し、安部首相、麻生副総理らが特別顧問を務める「日本会議」を極右のカルトとし、危険視していると伝えられます。この「日本会議」の思想がどのようなものか、以下に少しご紹介します。

  中心メンバーの論客である藤原正彦 お茶の女子大学教授(数学者・ベストセラー『国家の品格』の著者)は、日本会議の宣伝誌(『皇位継承の伝統を守ろう!』=Amazonで買えます)16ページに以下のように書いています。

 「万世一系とは、神武天皇以来、男系男子のみを擁立してきたということである。男系とは、父親→父親→父親とたどると必ず神武天皇にたどりつくということである。・・・・これを変える権利は、首相の諮問機関にすぎぬ有識者会議にはもちろん、国会にも首相にもない。天皇ご自身にさえない。国民にもないことをここではっきりさせておく。飛鳥奈良の時代から明治大正昭和に至る全国民の想いを、現在の国民が蹂躙(じゅりん)することは許されないからである。」

 解説はいらないでしょう。ニッポン主義者は、このような気色悪い天皇カルト宗教を背後にもつことで、異常なまでの政治的情熱を持ち続けることが可能なのですが、これは、民主政とは二律背反で、とうてい西側諸国との思想的共通性をもつことはできません。こういう事実を国民みなが知らなければ、極めて危険です。この思想を現天皇の明仁さんが必死に食い止めようとしているわけが分かります。


武田康弘(元参議院行政監視委員会調査室・客員、国会職員に「日本国憲法の哲学的土台」を講義

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