自然とデザイン

自然と人との関係なくして生命なく、人と人との関係なくして幸福もない。この自然と人為の関係をデザインとして考えたい。

腐らないお金と腐る経済~権力の集中と分散

2016-05-25 20:14:32 | 自然と人為

 1999年(平成11年)5月4日放送の「エンデの遺言~根源からお金を問う」(動画あり)は、資料室(反ロスチャイルド同盟)にテキスト起こし(現在は映像は削除)されているので、少し引用させていただく。なお、この資料室にはお金に関する興味深い話が多く紹介されているが、講演録は「武器商人として明治維新の裏で暗躍」したグラバーについても触れている。このグラバーと坂本龍馬の関係については、もう少し勉強したいと思っている。
以下に「エンデの遺言」を引用します。--------------------------
 NHKスペシャルの案内役を務めたエンデは、科学だけが唯一絶対真実ではなく、人間の精神や魂もまた真実だと主張しました。
 『ドイツでは古くから「金を出すものが命じる」という諺があります。現代の技術や科学は、軍事のためには国家から、政財的な利益のためには企業から金を受け取ります。そこで研究は知らず知らずに特定の方向に推し進められてしまうのです。ここ数十年は特に恐ろしいスピードで科学と技術を変えています。』
 死の前年エンデは、NHKに新しい提案をしました。それは、現代の貨幣システムをテーマとするものでした。『環境、貧困、戦争、精神の荒廃など現代の様々な根源にお金の問題が潜んでいる』というものでした。私が考えるのは、もう一度貨幣を、『実際になされた仕事や物の実体に対応する価値』として位置付けるべきだということです。この打ち合わせで2時間に及ぶテープが残されたのです。
-----------------------------------------  引用終わり
 それが「エンデの遺言」としてこの番組に残されました。

 ちょっと道草をさせていただくが、私の大好きな韓国のイ・ビョンフン監督 「 トンイ 第33回 疾病の正体」(1)(特にお気に入りは2分13秒~5分18秒)は、美しい女優も楽しみだが、差別と闘う物語も好い。
王妃「・・・女官の地位など不相応と言いながら、結局のところ私と同じ野心があったのだ。違うか?」
トンイ「王妃様が何を野心と言われているのか分かりません。もし正しいことを貫くのが野心だと仰っているなら、はい、そうです。私には野心があると言えます。誰であれ無実の罪に問われるのをほおっておくことはできません。これまでは力のあるものが何食わぬ顔で、弱いものを虐げてきましたが、私は今の立場で出来る限りのことをして、無実の弱いものを守りたいと思います。それが私に過分な座を与えられた理由だと、信じていますから。」
王妃「そうか、ではやってみるがいい。そなたは未だ愚かで無謀な夢を語るのだな。力のあるものが、何食わぬ顔で、弱いものを虐げる理由は何だと思う? それが力というもので、権力というものだからだ。そなたにも直わかるであろう。そなたの立場で、そなたの力では何もできぬということをな。」

 力あるものが何食わぬ顔で弱いものを虐げてきたのは、日本の政治、経済も同じです。「腐らないお金」が腐る経済をつくる。その腐る経済を腐らせて「腐る経済」にする。日本語はどこに力点を置くかによって、同じ言葉でも使い方や解釈の仕方があって難しい。
 戦前の憲法戦後の憲法の大きな違いは、戦前は天皇主権(立憲君主制)であったが戦後は国民主権になったことである。
 しかし、憲法は文章であり解釈と運用は時の政権により異なってくる。戦前の憲法の第一条の「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」の統治の意味は、当初は「公平に治める」であったそうだが、意味は文字として残さないと残らない。また「統治構造は、国務大臣や帝国議会、裁判所、枢密院、陸海軍などの国家機関が各々独立して天皇に輔弼ないし協賛の責任を持つという形をとっており、必然的にどの国家機関も他に優越することはできなかった(分立主義)が、実際には天皇が能動的に統治行為を行わない以上(機務六条)、権力の分立を避けるために憲法外に実質的な統合者(元老など)を必要としていた。」

 この天皇主権の下での「統帥権の独立」が戦争の原因となったという番組に対して、この番組を批判する【百地章】「JAPANデビュー・天皇と憲法」の問題点(動画)では、「憲法そのものが構造的に持っていた問題ではなくて、解釈及び運用の面で時代の変遷とともに問題を孕むようになってきた。運用の誤りであったと思いますね。(15分17秒~15分31秒)」と憲法の統帥権には問題はなく、解釈、運用の問題だと戦前の天皇と憲法(動画:6分24秒)の関係を擁護している。しかし、憲法解釈、運用の問題こそ政治の責任であり、国民主権の戦後の憲法でさえも統帥権と同様に天皇の国事行為(憲法7条)を利用して衆議院を解散しているように、日本人は権力闘争に明け暮れて、天皇の権威を利用して政治(国民)に責任を持たない点では変わっていない。
 参考:NHKスペシャル「JAPANデビュー第2回 天皇と憲法」全1時間14分

 「現時点での衆議院解散は憲法上重大な問題」(郷原信郎が斬る 投稿日: 2014年11月17日で指摘されているように、衆議院解散は『内閣総理大臣(首相)の専権事項と言われているが、憲法第69条は「内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、十日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない」と定めている。戦後の日本国憲法下で行われた衆院解散のうち、「69条解散」は、第1回「馴れ合い解散」(1948年吉田内閣)、第3回「バカヤロー解散」(53年吉田内閣)、第12回「ハプニング解散」(80年大平内閣)、第16回「政治改革解散」(93年宮沢内閣)の4回しかない。「69条解散」以外の解散は、天皇の国事行為による「7条解散」とされ、すでに1952年8月28日には、吉田内閣は69条によらず天皇の国事行為を定めた7条を利用した抜き打ち解散をしている。』このとき衆議院議員であった苫米地氏は7条解散を憲法違反と訴えたが、最高裁判所は衆議院解散に高度の政治性を認め、違法の審査は裁判所の権限の外にあると司法判断をしなかった。前年の砂川事件における最高裁判決に続いて憲法違反に関する判断を最高裁がしなかったことにより、司法、立法、行政の3権分立は早くも形骸化していた。

 憲法はGHQに押し付けられたと改正の必要性の根拠にする人たちがいる。しかし、最初の「馴れ合い解散」は、『当時の日本はGHQ施政下にあったが、GHQは衆議院解散は69条所定の場合に限定する解釈を取った。そのため妥協案として与野党が内閣不信任決議に賛成して可決させた上で、衆議院を解散するという方法を取った。この時の解散詔書には、「衆議院において内閣不信任の決議案を可決した。よって内閣の助言と承認により、日本国憲法第六十九条及び第七条により、衆議院を解散する。」と記載された。』GHQによる憲法解釈の方が国民主権に忠実であり、日本の政治は戦後の憲法においても天皇の国事行為を解散権に利用している。しかも、3権分立の司法も行政も独立していなくて首相に権力が集中し、中央集権国家のピラミッド構造を形成している。
 「私は立法府の長であります」(動画)の安倍首相の発言は憲法の構造上の問題ではなく、議員内閣制におけるこのピラミッド構造が憲法の解釈、運用の問題として(彼の政治認識からすれば)自然にできたものであることを公然と認めているように思える。これを憲法解釈、運用ではなく憲法改正でつじつまを合わせたいというのが本音だろう。戦前は軍部が統帥権の解釈と運用によって暴走したように、今は内閣が暴走を始めている。

 東京の一極集中は権力の集中で生まれているが、地方分散させなければ地震に弱いように、権力も3権分立させ、さらに地方分権させなければ国民生活は疲弊する。政治の中央集権化は個人が人間らしく生活する基本的人権の対極にある。個人を尊重することは他者を尊重することで守られる。そのような個人の認識を持たない政治の暴走を、個人や論理の尊重に疎い国民が許している。
 ドイツの諺「金を出すものが命じる」に対して、『環境、貧困、戦争、精神の荒廃など現代の様々な根源にお金の問題が潜んでいる』、もう一度貨幣を『実際になされた仕事や物の実体に対応する価値』として位置付けるべきだというエンデの遺言を、日本こそ魂に根付かせなければならない。国民と共に政治の道を歩んだホセ・ムヒカ前ウルグアイ大統領のような人材が日本の首相として生まれる可能性は皆無なのであろうか。

初稿 2016.5.25 更新 2016.5.27

自衛のための軍事研究は否定されない?

2016-05-22 17:52:24 | 自然と人為

 日本学術会議会長の「自衛のための研究は否定されない」(毎日新聞)(コピー)にはビックリ仰天だ。
 日本学術会議大西隆会長は「戦争を目的とした科学研究を行うべきでないとの考え方は堅持すべきだが、自衛のための研究までは否定されないと思う。周辺環境が変わっており、長年議論もないことはおかしい。科学者は何をやってよくて何をやってはいけないのか、議論を深める時期に来ている」と話す。

 「自衛のための研究」は「戦争を目的とした科学研究」ではないということなのか。これは憲法9条2項で戦争放棄を謳いながら、自衛のための軍隊を持たない独立国はないとし、さらに集団的自衛権までを肯定する論調と良く似ている。学術会議会長が危ない政治家に見えてきた。時代がおかしくなると学術研究までおかしくなるということか。

 『日本学術会議憲章』には、「科学は人類が共有する学術的な知識と技術の体系」としている。また、第1項には、「日本学術会議は、日本の科学者コミュニティを代表する機関として、科学に関する重要事項を審議して実現を図る」とある。人類の科学の発展と日本の科学の発展は同じ方向にあるはずだが、「自衛のための研究」は人類を対立させ、戦争を放棄しないことになる。日本学術会議には大学関係者が多く組織されている。若い学生を研究費獲得のために「自衛のための研究」に向かわせて良心が痛まないのか。

 米ソ冷戦時代は宇宙開発も軍事研究であった。しかし、平和目的と称して行われる軍事研究には限界があり、国際宇宙ステーション(ISS)へと進歩している。冷戦時代に宇宙ステーションが軍事目的に利用されていたことを、ロシアは正直に明らかにしている。コズミックフロント☆NEXT「隠された真実に迫る 人類初の宇宙ステーション」(動画)は、そのことを教えてくれる。研究は未来を目指すものであるはずだ!
参考:コズミックフロント☆NEXT(2016年5月19日,5月25日再放送の予定あり!)
「隠された真実に迫る 人類初の宇宙ステーション」(動画)

 この会長は熊本地震のことを英文で外国に知らせてるが、日本人へのメッセージはないのか? わざわざ会長談話を出すのだから、学術会議が何を目指すのかを含めて報道されている情報より学術的価値が高いはずだ。科学者でありながら、日本と世界へのメッセージをなぜ区別する必要があるのか?
The 2016 Kumamoto Earthquake on April 16 and Our Actions

 日本学術会議の市民向けシンポジウムは参加したいものが多い。参加できない人のために、インターネットで公開してもらえないものか。「自衛のための研究」の議論についても公開してもらいたいものだ。

日本学術会議シンポジウム
人類1000 万年史~類人猿から日本人まで~(2016 年6 月25 日)
「権利」を解剖すする(2016 年 7月 9日)
自己を知る脳・他者を理解する脳(2016年9月10日)

初稿 2016.5.22

あなたは自然を無視して、利己的に生きて幸福ですか?

2016-05-18 10:29:49 | 自然と人為

 あなたは一人だけで生きていけない。人生は短く、誰にも必ず死が待っている。死後の世界は、あなたのためにあるのではなく、次世代が生きるためにある。先立たれた人のことを人々が言葉や映像で忍ぶことがあるにしても、宗教も死後の世界を語るのではなく、今をいかに生きるべきかを問うためにある、と私は思っている。これらを否定する人はどの程度いて、どのような生き方をしているのであろうか。
 世の中は便利になり、自然と生きること、他者と生きることが煩わしいと思っている人が多いかもしれない。しかし我々は自然の一員であり、他者を尊重して生きなければ、人間としては生きられない。

 他者を従えて生きる利己的な動物になることを自分の力だと信じ、それを力のある人だと従う人は多いかもしれないが、それは、その人も他者をも不幸にする、と私は思う。
 国の指導者として他者を愛する生き方を実践した、ホセ・ムヒカ前大統領(インタビュー:動画)がいる。彼のように我々と共に生きようとする人を「共産主義者」とレッテルを貼り、蔑視する人を見つけてはアパルトヘイトのように罵倒する一方で、我々の届かぬ世界に生きて力を見せつける人には黙って従うとすれば、その人は人間にはなれない動物であることを恥じないということだろう。犬や猫、牛や馬さえ、あなたとの関係であなたを理解しているというのに。あなたが他者を認めるから、他者もあなたを認めるというのに。他者を愛することは、人間にとって訓練のいる(動画)ことなのだろう。
 参考: 一人一人の「自由」と「助け合う社会」に責任を持つ国が必要

 フジテレビ『Mr.サンデー』でホセ・ムヒカ氏(2015年3月と10月)を紹介した結果、「我々の想像を超えたとても大きな反響がありました。今の日本人が見失っているものについて、ムヒカ氏の言葉が視聴者の心に深く刺さったからだと感じました。今回の来日を機に、ムヒカ氏の貴重な対話の機会を通じて、彼の含蓄に富む言葉と哲学を、宮根誠司キャスターと池上彰さんの手を借りながら、より多くの人々に伝えていきたいと思っています。また現代の日本人にとっての“幸せ”とは、何なのか?皆さんと共に考えていく機会になれば良いな、と考えています」 プロデューサー・濱潤(フジテレビ情報制作センター)

 私は、公然と自民党・安倍政権を擁護する辛坊治郎がニュースキャスターを務める「報道2001」が大嫌いだった。しかし、「新報道2001」(2016年5月15日)で「パン屋タルマーリー」を紹介しているのを知り、ホセ・ムヒカ氏を招待したフジテレビが新しく変わっていることを知った。
 「2008年、千葉県で自家製の天然酵母を使い地産地消を大切にパンを作り始め、素材が本来持つ力がパンにハッキリ表れることに気づき、より農に近い場所を求めて、岡山県真庭市の勝山を経て昨年の6月に鳥取県智頭町に移住」されていたようだ。「パン屋タルマーリー」の店主、渡邉格さんの著書「田舎のパン屋が見つけた『腐る経済』」も出版されているので、ご覧いただきたい。

 私に自然とともに生きる素晴らしさを教えてくれたのは、牛が拓いた斉藤晶牧場であった。その斉藤牧場でリンゴの自然農法で有名な木村秋則さんと対談をお願いしたことがある。

対談『自然に学ぶ』 斉藤晶木村秋則
  畜産システム研究会報 30号, p.89-100(2008年6月10日 於 : 斉藤牧場)  
  対談『自然に学ぶ』 斉藤晶&木村秋則 p.89-94
  対談『自然に学ぶ』 斉藤晶&木村秋則 p.95-100

 タルマーリーの店主、渡邉格さん「生命力の強い野菜や米は、山の枯れ葉のように腐らないで枯れる」は、木村秋則さんの腐らないリンゴと同じだ。ここでも自然に対する興味と理解がまた深まった。自然の循環の中で生命力ある野菜やリンゴが育つように、牛も子供も放牧で育つ。私たちの子供の時代は農家には1,2頭の牛がいて鶏は庭にいた。親は子供のことを気にしながら農作業や家内工業で一生懸命働くことで隣人との付き合いがあり、その地域で子どもたちだけで遊ぶ子供の世界が子供を育てた。農村が強いことが「強い日本人」と、「腐らない経済」をつくった。

 私が斉藤晶牧場で教わったことは、人が自然を征服するのではなく「自然と牛と人の関係」で美しい牧場ができるということだった。これは実習して身に着けるしかない。定年後には斉藤晶牧場に弟子入りして実習したいと、本気で思っていた。しかし、我が家を留守にすることで家族の反対に会い、斉藤牧場に実習に入り込むことでも斉藤家に問題を持ち込むことに悩んでいるうちに、退職直前から3年で脳梗塞2回を経験してしまった。57歳のとき風呂場で右脳出血で倒れたが愛犬が早く知らせてくれたので、半身麻痺から何も不自由を感じない身体に回復して職場復帰できていたのに・・・。

 だから牛の放牧による里山管理が大切なことは分かっていても、「牛は草さえあれば自分で生きていくから、脱柵して道路に逃げ出して大事にならぬように」と指導できるだけだ。里山で遊んで育った草刈り隊のグループは、私より里山のことはよく知っている。その経験を子供たちに伝えて欲しい。

 牛1頭で始めた慣れない放牧を短期間で軌道に乗せた大谷山里山牧場は、シルバー世代が作った牧場として放映されたり、福山まちづくり大学で発表されている。この経験を全国の荒れた里山管理に活かして欲しい。

 それには牛の導入から出荷までを指導できるシステムが必要である。エサは自給自足で、管理は地域の人が協力することが大切だ。1頭1haを原則にすると、広い里山をどう管理するか。空き家の管理と同じで財産権を重視するとしても、所有することは管理する義務がある。管理されていない荒れた空き家や里山の税金を高くして管理費に回すか、管理されている場合は安くする方法を考える必要があろう。地方行政とコンビニ方式をミックスしたシステムが考えられないか? モノやお金では幸福になれない。生産と消費を分断するのではなく、「農協」と「生協」が協力し、「地域社会と一緒に歩み、新たな地域循環をつくっていく」ことで、「日本人が見失っている」強い農村を再生させる。それこそが企業優先型の「地方創生」ではなくて住民優先型の「地方再生」ではないか。

参考:牛の放牧によるイノベーションとソーシャルビジネスの提案
牛は資源を循環し、人をつなぐ
「自然とデザイン研究所」を設立しよう~マイナスの考え方をしないために
発想の転換~砂漠化を防止し、気候変動を抑える反芻動物
講演資料「競争から共創へ」、「部分から全体へ」
自然とデザイン -自然と人、人と人をつなぐ新しい時代の共創-
牛が拓く未来 ― 牛の放牧で自然と人、人と人を結ぶ
自然とお金と個人と組織~何を基準に考えるか


初稿 2016.5.18


他者への配慮ができない超利己主義の安倍首相

2016-05-14 16:58:13 | 自然と人為

 「美しい国、日本」と言いながら他者への心配りもできないで、利己的な言動で外遊し、世界に「醜い国、日本」を宣伝している恥ずかしい政治屋がいる。そして、そんな政治屋を非難しないマスメディアも多い。
 国民を支配したがる安倍首相と国民と一体であったホセ・ムヒカ前大統領は、政治への姿勢が対極にある。今、日本に求められているのはホセ・ムヒカ氏の政治であるが、その訪日をNHKは報道の価値がないと判断したのか、させられたのか? 国民にとって貴重なホセ・ムヒカ氏の情報を何故か一切報道しなかった。首相が日本に生まれた国民に国を愛せよと言う前に、首相にはまず第一に国民を愛して欲しいものだ。


エリザベス女王との撮影時に安倍首相がど真ん中

 オバマ夫妻と安倍夫妻とエリザベス女王との記念撮影に、エリザベス女王への配慮の違いが明瞭に表れている。言葉は嘘をつけても写真は一瞬の心まで写してしまう。


英ウィリアム王子、福島県産の食材で夕食会

 英ウィリアム王子を福島県産の食材で接待して、日本向けの安全宣伝に使ったのも日本人の「おもてなしの心」を逆なでするものだ。福島県産の食材を守ることと英ウィリアム王子の接待を混同するとは失礼千万で、これにエリザベス女王との記念撮影で失礼なダブルパンチをしたことさえ超利己的な本人には意識にないのだろう。

 「多数決は強者のため? 政治は誰のため? 危ない政治家は?」で指摘したが、日本で失敗している「アベノミクス」の財政出動を各国首脳に呼びかけて、G7伊勢志摩サミットで賛同を得ようと外遊した安倍首相のイギリス訪問に対して、地元新聞が痛烈批判! 演説を聞く必要なしと一刀両断!「アベノミクスは失敗」と断言している。
 参考: 安倍首相外遊とアベノミクス(サンデーモーニング 2016.5.8)(動画)









 安倍首相の操り人形師のように、世耕弘成官房副長官が外遊等でいつも傍にぴったりとくっ付いている。彼は電通に繋がり、電通によるメディア支配へと繋がっている。東京五輪誘致の賄賂疑惑で電通が重要な役割を果たしているが、メディアの報道からは「電通」のことは完全に抹殺されている。「スポーツは秋」の日本で猛暑の夏にオリンピックを開催するのも、選手や観客の健康よりは放映権の利益を考えた「電通」の力であろう。

 舛添東京都知事の豪華外遊(動画)が顰蹙を買っているが、これは石原都知事時代以来受け継がれてきた知事の公私混同の問題であり、権力は腐敗するという歴史を繰り返している。しかしなぜ今、メディアによる舛添おろしがスタートなのか? 豪華外遊は首相とて同じこと。メディアを支配する者は何をしてもメディアは批判をせず、支持率も低下しないということだろう。

 2013年9月7日に開催されたIOC(国際オリンピック委員会)総会で、2020年の東京オリンピック開催が決定されたが、総会に出席した安倍首相は、「福島第一原発の汚染水は制御している」と大嘘を平気で言った。「2年へて収束せぬ福島原発事故、汚染水も核燃料も制御不能、開き直り再稼働する異様さ」(2013年8月23日)が問題されているというのに。大嘘の挨拶も五輪招致コンサルに含まれるのであろうか。日本オリンピック会長「2億円を振り込んだ先は実績のある会社」と言うが、実は「アパートの一室のペーパーカンパニー」だったことが判明。日本のスポーツ界も腐敗してしまったものだ。

 東北大震災は復興の最中にあり、莫大な税金を投入して除染をしても放射性廃棄物の完全処理の見通しはない。熊本地震は現在も続いていて復興の見通しは立っていない。そのような時に、汚いお金で汚れたオリンピックのために建設に回す資材や労力や税金を使う余裕はないはずだ。今、首相に求められることは地震国日本の将来を考えることであり、将来首都圏を襲うかもしれない大地震に備えて、首都機能の分散を図ることであり、まずは原発稼働を止めることである。そのことこそが、日本を思い、国民を思う政治ではないか。

初稿 2016.5.14

「牛の放牧による里山管理」を実践する会の立ち上げ原案

2016-05-12 20:46:34 | 自然と人為

 世界が、日本がおかしくなっている。ことに日本の農業の衰退は著しく、中山間地の過疎化から限界集落の問題がが問われるようになってしまった。景気の回復だとか、地方創生とか言われているが、農業の国際競争力を求めることは農業の選択的規模拡大を目標として農業を衰退させたのと同じ道だ。農業の現場を知らず、現場に責任を持たない「バカの壁」は、農業をおかしくしても自分たちは贅沢に生きていけると思っているのだろう。

 アメリカやオーストラリアから安い牛肉輸入にどう対抗してゆくか? 日本には「霜降り肉」の和牛がいるので、これで世界に打って出る。これが国際競争力の強化のシンボルとして語られる。しかし、彼らの大規模な肉牛産業は砂漠化を防止する放牧の副産物だということをご存知だろうか。「初めに資源管理ありき」なので生産コストが安いのである。日本の和牛は農耕牛としての役割を終えて、「霜降り肉」という「高いから成立」する神話の世界に生き残った。しかし、資源に恵まれた里山は放置されているので、田畑は荒れて山に戻り、猪などの野生動物の棲家になっている。日本は資源の豊富な里山を家畜の放牧管理で守ることから始めなければならない。それが、牛やヤギ、ヒツジの役割だ。ここでは「牛の放牧による里山管理」を実践する会の立ち上げについて、その原案を提案したい。

 以前、「自然とデザイン研究所」を設立しようと呼びかけたことがある。また、「和牛の伝統と牛のハイブリッド生産」では、和牛の伝統を守りつつ、人工授精の普及している日本では種雄牛の交配まで指定できる世界の最先端のハイブリッド生産のシステム化が可能なことを提案した。これらは少し専門過ぎて多くの方の興味を引かなかったかもしれない。和牛を尊重しているつもりだが、和牛関係者の警戒と反発を招いたかもしれない。

 システムというのはいろいろな要素を繋いでできあがる。ここではもっとシンプルに、牛の放牧で里山管理していくことを、全国のネットワークにして実践していくことを提案したい。
 牛の放牧には里山の公園化を含む様々な要素が含まれるが、里山を美しくするために次の活動から始めたらいかがであろうか。
1.共有林、旧牧場跡等の里山の牛の放牧管理の指導
2.放牧管理における地域自治体との所有権、管理方法等の交渉
3.放牧牛から生産される牛肉や乳製品等の販売に関する指導
4.放牧する牛の供給に関する指導
5.放牧する牛の飼養管理、繁殖管理、衛生管理等に関する指導

 この会の事務局には北海道旭川市の斉藤晶牧場との交流があり、その価値をよく理解し、牛の管理技術も優れている方を必要とする。また、草刈り隊から放牧管理で里山を美しくした「大谷山里山牧場」の方々の経験も貴重だ。その方たちとの連絡を取り、その人件費や交通費をどうやって捻出するかの見通しを立てる作業から始める必要があるが、ここではこれらの検討を含めて、皆さん方の知恵を頂きたいので、まずは原案を提案することから始めさせていただいた。

 若い世代は未知の世界に胸ふるわせ、古稀を過ぎると無知のまま死に至ることを恥とする。必ず来る死への道が見えてきた私にできることは、歩行が困難で十分な仕事ができないかも知れないが、「次の世代」に幸福を残す仕事を始めめることだと思っている。

初稿 2016.5.12