自然とデザイン

自然と人との関係なくして生命なく、人と人との関係なくして幸福もない。この自然と人為の関係をデザインとして考えたい。

国民の自由を奪った治安維持法と戦争への道

2018-08-22 18:33:40 | 自然と人為

 戦争は国民を犠牲にして国民を支配する。日本では将軍支配の代わりに明治維新で生まれた『国体(「天皇を中心とした秩序(政体)」)』の統治があり、天皇の統帥権を利用した国民支配の政治があった。今日では政治の主権は国民にあることは世界の常識であるが、江戸時代は封建的な身分制に朱子学で権威を与えた。しかも、その身分制は現在の日本の組織にも色濃く残っていることは前回紹介したところである。また、それは今日の「長州レジーム」とも言われ、戦争責任を靖国神社参拝で誤魔化し、政治を稚拙な個人の欲望と利益のために利用する安倍政権に引き継がれ、着々と国民を支配するために戦争を利用しようとし、「戦争放棄」の現憲法を改悪して、アメリカの属国として戦争に協力できるよう憲法を改悪しようとしている。
参考:自民党の憲法草案「権利を絞り、義務拡大、権力乱用! 動画
  日本国憲法改正草案 | 自由民主党 憲法改正推進本部
  山崎康彦ライブ日本は米国傀儡政党・自民党の『独裁国家』」 動画

 「政治が国民の手を離れることの恐ろしさ」を、一人でも多くの方に知っていただきたい。明治維新で生まれた政府が、国民を治安維持法と天皇の総帥権により抑圧し、戦争への道を歩んだ経緯については次回に考えることにして、本日は急いで、自由はこうして奪われたの録画が削除されないように祈りながら紹介だけしておきたい。
 ETV特集「自由はこうして奪われた」~治安維持法 10万人の記録~ 動画
    感想再放送 2018年8月23日(木) 午前0時00分(60分)
    『刑法と戦争』『治安維持法の教訓』の著者・内田博文先生出演
    
    治安維持法というのは条文自体は曖昧もことしている
    ので、取り締まり当局の方針で何でもできた。
    そういう構造になっていた。

1.日常の画を描くっことが治安維持法違反で刑務所暮らし1年
 画を描くことが生きがいという松本五郎さん97歳。学生時代、突然警察に連行された。身の回りの日常を絵に描いたことが罪に問われた。

 これは「冬近し」という絵で、寒い冬の中、子どもたちは肩を寄せ合って逞しく学校に通っている絵です。皆さん、この絵を見てどう思いますか。エッこれが犯罪になるの。

 何で捕まったのかも分からないもん。まあ、絵が悪いっていうのを言っていたからね。罪名は治安維持法違反。刑務所での暮らしは1年にも及んだ。


 学校は首になるし、犯罪者というレッテルを張られるしね。非国民だとかスパイだとかね。俺はいったいどうなるだろうな。師範学校を退学になり、戦地に赴いた。日本の国は法治国家だ。悪いものは罰するけれど、良いものは守ってくれる国家だと思っていた。だけどね、警察から検事から裁判所まで、一貫してネ、酷いことをやったからね。

2.当時の国会において「治安維持法」に反対した議員の意見

1)坂東幸太郎 衆議院議員

この法律は、法文は明確でないということは疑いのないことである。濫用されるということは火を見るよりも明らかである。
2)徳川義親 貴族院議員

誤って之を用いましたならば、無辜の民を傷つくる凶器となる虞がある 

3.治安維持法は時代の要請と共に取り締まりの対象を拡大させていった。

治安維持法の検挙者数のデータから浮かび上がって来たのは、治安維持法が時代の要請と共に取り締まりの対象を拡大させていく姿


4.過去の責任を無視する安倍内閣
金田法務大臣
治安維持法は、当時適法に制定されたものでありますので、

同法違反の罪に係わります拘置 拘禁は適法でありまして

謝罪及び実態調査の必要もないものと思料を致しております。



初稿 2018.8.22 更新 2018.9.1(動画追加)



幕末の苦悩~体制内変革・阿部正弘と尊王攘夷・徳川斉昭(2)

2018-08-15 12:02:42 | 自然と人為

5.阿部正弘の人材活用
 阿部正弘は、名門の御曹司であるにもかかわらず、身分に関係なく人材活用ができる人であった。幕末の三傑の一人・水野忠徳(2)(3)江川英龍(ひでたつ)(2)(3)(4)勝海舟などの下級幕臣や、さらには土佐の漁民にすぎないジョン万次郎(2)(3)(4)(5)の起用は、彼の出自に対する偏見のなさをよく示している。岩瀬忠震(いわせ ただなり)(2)(3)(4)(5)(6)に至っては、部屋住みの身分のままで阿部正弘に抜擢され目付に任じられ、講武所・蕃書調所・長崎海軍伝習所の開設や軍艦、品川の砲台の築造に尽力した。その後も外国奉行にまで出世して外交の責任者となっている。身分制度で維持されてきた徳川幕府にあって、阿部正弘は身分ではなく能力で人材を抜擢したことは、高く評価されるべきだと思う。
 参考: BS歴史館「幕末 日本外交は弱腰にあらず (2011年)」動画

 さらに日露交渉で知られている川路聖謨(かわじとしあきら)(2)(3)(4)(5)、その弟の井上清直(きよなお)(2)(3)筒井 政憲(つつい まさのり)など多くの人材を登用した。また、大久保 忠寛(ただひろ)(2)(3)(4)永井尚志(なおゆき)(2)(3)(4)(5)(6)は比較的高い出自だが、やはり阿部正弘の抜擢により活躍している。彼らについては紹介ブログ等を集めておいたので、クリックして参考にしていただきたい。組織の責任者として抜擢した多くの人材の仕事が後世に残ることは阿部正弘の偉大さを示すものでもあろう。

6.水戸学の負の遺産~尊王攘夷と廃仏毀釈
 ブログ「水戸藩が明治維新以前に廃仏毀釈を行なった経緯」によると、徳川光圀(とくがわみつくに)(2)(3)(4)(5)は、1666年の改革で2千以上の寺院の整理を行ない、同時に神仏混淆をも禁じた。また、一郷一社の制を定め、正しき由緒ある神を祀ってその地の鎮守とする一方で、それ以外の神社を整理している。当時は新興のいかがわしい宗教施設が藩内の各地にあり、また堕落した仏教僧が少なからず存在したのでそれらを整理し、由緒正しい社寺を残したと言われているが、水戸藩は百姓一揆が多く、しかも強硬な姿勢で臨んでいたので、私は仏教が農民とつながり一向一揆となることへの恐れがあったのではないかと思う。いずれにしても、廃仏毀釈は農民の依存している文化をも破壊することになりやりすぎだ。
 水戸藩第9代藩主の徳川斉昭は、会沢正志斎(あいざわせいしさい)(2)藤田東湖(2)(3)(4)らを重用したが、どちらも筋金入りの排仏論者であり尊王思想家であった。徳川斉昭は水戸東照宮の僧侶を放逐し、藩祖・徳川頼房公が寄付した灯籠まで鋳つぶしたことが江戸幕府の耳に入り、1844年に、幕府は徳川斉昭に隠居謹慎を命じている。水戸学の尊王攘夷は、弱くなった幕府の支配を天皇制に置き換えようとするもので、農民を支配する身分制を維持できる大義名分となり、その思想は討幕のエネルギーを与えたけれども、斉昭の治世は水戸藩を内部抗争で分裂させ、殺し合いにより幕末に活躍する人材さえもいなくなった。また、天皇制と日本史の一大汚点「廃仏毀釈」は、明治政府や太平洋戦争時の政府に負の遺産として引き継がれている。
 徳川斉昭は自己の政見を幕政、藩政に反映させ、自己の復権運動をもねらって、老中首座阿部正弘に、政治的意見書を書き送りつづけ、正弘もこれに応えた。この往復書翰集が『新伊勢物語』であり、福山誠之館高等学校記念館に写本8冊が所蔵されている。阿部正弘が相容れない徳川斉昭の意見に丁寧に対応しているのは、周囲の政治的事情に誠実に対応した彼の性格によるものと思われる。

7.阿部正弘の挙国一致体制への努力
 阿部正弘は尊王攘夷の徳川斉昭を幕政に参加させる一方で、薩摩藩の島津斉彬や越前藩の松平春嶽といった開明派の大名たちとの連携も推進し、様々な意見を取り入れて当時の慣習を覆す施策を実行し、その内容を朝廷に報告し、勅許を求めて開国を正当化し、急速に変化する時勢に対応しようと挙国一致で最大限の手を打った。しかし、そのことがこれまでの体制を変革するきっかけにもなり、体制維持派から批判が殺到した。批判のための批判は無責任で誰でもできるが、良心的にこれに対応した阿部正弘は1855年11月、疲労困憊し、志半ばで老中次座に退き、堀田正睦が老中首座に就任した。
 徳川幕府の幕末の問題は、市民革命(2)産業革命(2)を経た欧米の力に身分制の封建社会の日本では立ち向かえないことを示すものであったが、討幕派も権力の象徴を将軍から天皇に変えるだけであった。阿部正弘も身分にかかわらず人材を登用したが、これは体制内変革であり身分制を壊すことは江戸幕府の存立基盤を壊すことになるとまでは思わなかったであろう。このことをして体制内変革者の阿部正弘を無能だとどうして言えるのだろう。世界と戦争をしないことで270年も維持してきた幕府と日本という国が破滅しないように、世界が変わる時代には如何に新しい時代に軟着陸させるかが、体制側の責任者に問われるべきであり、幕末の政治の責任を背負った阿部正弘は、戦争をせず植民地にもならなかった大きな功績がある。これまで幕政から排除されていた天皇=朝廷や親藩・外様の雄藩に発言を認めたため、これらの勢力が発言力を急速に伸ばし、阿部正弘に体制内変革の責任を問うこと自体がおかしいと思う。阿部正弘も討幕派も身分制の維持においては同じ考えであり、日本の体制を破壊する革命家ではなかった。今日においても、個人の人権を尊重しない事件は多く見られる。フェアープレーが求められるスポーツ界で、日本ボクシング連盟の終身名誉会長や日大アメフト部の日大理事長(2)が問題にされた。社会の公的機関でヤクザの世界が闊歩している。人権意識の低い恥ずかしい国、日本は、今も続いている。
 参考: 日本近現代史(日本史A)の授業

8.江戸幕府と朱子学
 徳川家康に儒学を講じた藤原 惺窩(ふじわら せいか)は仕官することを要請されたが辞退し門弟の林羅山を推挙した。江戸幕府は林羅山を侍講として登用して以来、朱子学を幕藩体制の支配理念とし、林家を代々の大学頭に任用して御用学問朱子学による思想統制を行った。
 本来の孔子の説く孝は家族の親和、忠は君臣の信頼関係を重視するものであったが、朱子学においては為政者にとって秩序維持に必要な理念として説かれるようになり、封建道徳に変質した。朝鮮、特に日本に伝えられた朱子学はその面だけが強調され、江戸幕府の統治理念とされた。もともと幕府がほしかったのは朱子学がもつ「上下定分の理」というものである。そこに語られる「名分」こそ、徳川社会の原理と合致した。(参考: 大義名分論 へルマン・オームス:徳川イデオロギー
 なお、緊縮財政、風紀取締りによる幕府体制の安定化を目指した松平定信による寛政の改革(2)(1787年から1793年)では、儒学の中の古学や陽明学も盛んになり、形式的な朱子学に対する批判が幕藩体制の動揺につながることを恐れ、「寛政異学の禁」により江戸幕府が農業と上下の秩序を重視した朱子学を正学と定め、幕府の教育機関である昌平坂学問所で他の儒学の教えを学ぶことを禁止した。

9.朱子学(水戸学)と徳川斉昭
 明の遺臣朱舜水(しゅ しゅんすい)(2)は明再建に失敗した後日本に渡り、1665年に水戸の徳川光圀に招かれ江戸に移住し、水戸学の祖となった。9代藩主徳川斉昭(なりあき)のもとで、1830-44年、藩政の改革が実施され、この改革の眼目の一つに藩校弘道館の建設があった。この弘道館の教育理念を示したのが『弘道館記』で、これは斉昭の署名になっているものの 実際の起草者は藤田東湖であり、東湖は斉昭の命でその解説書として『弘道館記述義(2)』を著わした。会沢正志斎(あいざわせいしさい)『新論』が日本政治のあり方を論じたのに対し、これは日本の社会に生きる人々の「道」すなわち道徳の問題を主題とし、『古事記』『日本書紀』の建国神話にはじまる歴史の展開に即して「道」を説き、そこから日本固有の道徳を明らかにしようとした。
 東湖は、君臣上下が各人の社会的責任を果たしつつ、「忠愛の誠」によって結びついている国家体制を「国体」とし、「忠愛の誠」に基づき国民が職分を全うしていく道義心が「天地正大の気」であると説く。したがって、「天地正大の気」こそ建国以来の「国体」を支えてきた日本人独自の精神であり、内憂外患のこの時期にこそ「天地正大の気」を発揮して、国家の統一を強め、内外の危機を打開しなければならない、とするのが東湖の主張であった。
 水戸学の思想は、天皇の伝統的権威を背景にしながら、幕府を中心とする国家体制の強化によって、日本の独立と安全を確保しようとしたのである。しかし開国以後、幕府にその国家目標を達成する能力が失われてしまったことが明らかになるにつれ、水戸学を最大の源泉とする尊王攘夷思想は反幕的色彩をつよめていく。 そして、吉田松陰らを通して明治政府の指導者たちに受け継がれ、天皇制国家のもとでの教育政策や、その国家秩序を支える理念としての「国体」観念などのうえにも大きな影響を及ぼしていくのである。
 参考:徳川斉昭の生涯年表 弘道館とは 弘道館と弘道館記

10.日本を三流国にした明治維新につながる政治
 日本は幕末の尊王攘夷派の薩長や坂本龍馬を英雄にしたNHKの大河ドラマや黄門漫遊記(2)などで、歴史から真実を学ぶ習慣が育たず、歴史を娯楽にしてきた。
 江戸時代は戦争をしないことで270年も体制を維持してきた。しかし、尊王攘夷で討幕して文明開化を誇りにしている明治維新は市民革命の視点が全くなく、国民第一の政治ではなく、天皇制により日清日露の戦争から太平洋戦争まで、この国を暴走させて国民を悲惨な目に合わせ、今や平気でアメリカの属国にしてしまった政治に繋がっている。今年は明治維新から150年だが、アメリカにより広島、長崎に原爆を落とされた世界唯一の被爆国なのに、核兵器禁止条約を率先して世界に認めさせる動きには後ろ向きであり、戦争を放棄した憲法を改悪して、アメリカと共に戦争が出来る国にしようとしている。今、世界一儲かる仕事は産軍複合体である。人間皆兄弟なのに、戦争で敵を作り、人を殺し、工場や町を破壊するだけでなく、国を守るためと称して平時でも国民のお金を軍事費に使う。軍需産業とはヤクザな仕事だ。ビジネスとは農業から工業まで世界共通に、資源と技術と消費をつなぐシステムを創ることである。それなのに金儲けの為だけにビジネスがあり、個人の私的欲望のために政治が利用される。この理念なき日本にした明治維新から繫がる政治の責任は大きい。
 参考: 岸信介、A級戦犯「不起訴」の謎を解き明かす
      【アベ政治の原流】岸信介はこうして「極刑」を免れた
      なぜ岸信介は「A級戦犯」として起訴されなかったのか
      安倍首相の「安保法制」妄執の背景(2)


初稿 2018.8.15 更新 2018.8.17



幕末の苦悩~体制内変革・阿部正弘と尊王攘夷・徳川斉昭(1)

2018-08-08 21:05:56 | 自然と人為

 幕末は薩長の討幕運動を中心にした大河ドラマが多いが、その外側からの破壊ではなく、責任ある内側からの幕府改革には忍耐と将来への責任が伴う。阿部正弘は若くして25歳で老中、27歳にして老中首座と幕府の要人となったが、ペリー来航を始め諸外国からの開国要求に対して、幕藩体制をどう維持、変革して対応したのであろうか。
  
 NHK番組「英雄たちの選択:阿部正弘 開国不屈の外交戦略(動画)」では、18歳で福山藩主となった聡明な阿部正弘が、全国で30万人もの死者を出した天保の大飢饉で蓄えていた米を放出し、領内に一人も餓死者を出さなかったことについて、「菅波信道一代記」を引用し、城に向かって感謝を捧げる農民たちの画と「上様は飢餓を憐れんで米を与えてくださった。」という記録を紹介している。藩主となったばかりの阿部正弘は1837年、最初で最後の福山の国許入りをし領民を助けた。

  
  
  
  
 明治維新の敗者となった幕府方の仕事は歴史の表舞台から消され、薩長連合、ことに西郷隆盛と坂本龍馬がヒーローとなっている。阿部正弘も福山藩主と紹介されているが、徳川幕府の重臣として江戸に住み、阿部家も5代藩主阿部正邦が7代福山藩主として転封されるまでは、関東で家康の家臣として、また領民のために働いていた。13代福山藩主となった阿部正弘も、藩主となってすぐの1837年に一度だけ福山に帰っているだけであり、領民にもあまり知られていない。ここでは、阿部正弘の生涯について調べてみた。ことに諸外国と開国した経緯を調べるとともに、幕府内の対立に阿部正弘はどう対応したのか、ペリー来航に際して海防参与として幕政に関わった水戸藩主徳川斉昭が、水戸学の立場から尊王攘夷論を主張したこととの関係についても調べて見た。
 参考: 阿部正弘と幕末の始まり
      「作られた歴史」
      阿部正弘は偉人か、無能な老中か(1)(2)(3)(4)(5)
      福山城-ペルー来航から日米修好通商条約交渉まで
      英雄たちの選択:無念なり!悲運の大老~井伊直弼・開国への決断~(動画)

1.阿部正弘・第13代福山藩主になる 
 阿部正弘第11代藩主阿部正精(あべまさきよ)の五男として江戸西の丸屋敷で生まれた。阿部正精は30歳で家督を相続し、襲封から半年も経たない1804年に奏者番に就任し、同年寺社奉行を兼任する。その後、病を患い寺社奉行を辞任するが1810年に再任された。
 当時の将軍・徳川家斉は1787年に15歳で第11代将軍に就任していたが、家斉が成長するまでの代繋ぎとして家斉と共に第11代将軍に目されていた松平定信が老中首座に任命され、家治時代に権勢を振るった田沼意次は家治の死により罷免されていた。この定信が主導した政策を寛政の改革と呼ぶ。寛政の改革では積極的に幕府財政の建て直しが図られたが、厳格過ぎたため次第に家斉や他の幕府上層部から批判が起こり、家斉と定信は対立するようになった。1793年、家斉は定信を罷免し、定信の元で幕政に携わってきた松平信明を老中首座に任命した。1817年、松平信明が没すると、将軍徳川家斉は密かに幕閣改造を企てる。まず側近の水野忠成を側用人兼務のまま老中格に上げ、続いて阿部正精を寺社奉行から大坂城代、京都所司代を飛び越えさせて老中に抜擢した。これは、家斉が寛政の改革の厳しさを嫌っての人事であり、正精が保守派にとって都合の良い存在であったことが伺える。幕政は徳川家斉の側近から老中となった水野忠成に掌握され、その間は田沼時代をはるかに上回る空前の賄賂政治が横行したという。1823年、阿部正弘の父・正精が病のため老中職を辞し、1826年に死去すると、兄の正寧第12代藩主を継ぎ、正弘は本郷(文京区)の中屋敷へ移った(現在でも中屋敷のあった文京区西片には文京区立誠之小学校、阿部公園(西片公園)など、由来する施設が残っている)。しかし正寧は病弱だったため、10年後の天保7年(1836年)12月25日、正弘に家督を譲って隠居した。

2.阿部正弘 老中首座に
 1838年、奏者番に任じられ、1840年に寺社奉行となり大奥と僧侶の乱交事件智泉院・感応寺事件)が第11代将軍徳川家斉の非を表面化させることを恐れて温厚に処断した。12代将軍家慶は1837年に45歳で将軍職を譲られたが、この時は家斉が大御所として強大な発言権を保持していた。家斉が1841年に没すると、阿部正弘の寺社奉行としての処断を目にしていた家慶により、1843年に25歳で老中となる。
 水野忠邦は1839年に老中首座となっていたが、将軍家斉の死後(1841年)「天保の改革」(風紀粛正、奢侈禁止をすすめ、感応寺の破却)を始める。しかし、上知令への不満が大きく、2年老中を務めたばかりの堀田正睦(ほったまさよし)は辞任し、阿部正弘が老中になった直後に水野忠邦は罷免され、土井利位(どいとしつら)が交代した。しかし、1844年5月江戸城本丸が焼け落ち、外国問題の紛糾などから水野忠邦が1844年6月に老中首座に復帰した。これに老中・阿部正弘をはじめ、土井らは忠邦の再任に強硬に反対し、水野忠邦も仕事への意欲もなく、天保の改革の際の不正を理由に罷免され、変わって阿部正弘が1845年2月老中首座になった。若くして老中首座となった阿部正弘は、身分にとらわれない人材の登用、政治に対する多くの意見(黒船対策募集)を求めるなど柔軟に幕府の政治を行った。
 
3.19世紀前半まの諸外国からの開国要求等

 阿部正弘が老中首座になった19世紀前半までの諸外国からの開国要求や事件等を羅列しておいた。各項目についてはクリックして調べて欲しい。ペルー来航までに諸外国からの開国要求だけでなく、漂流民の保護と帰国、領民と外国人との直接交流等があり、諸外国の情勢についてはある程度知られていた。すでに異国船打払いで問題が解決される時代ではなかった。

1791 アメリカのジョン・ケンドリック(2)が紀伊大島に上陸
1792 ロシアのアダム・ラクスマンが北海道の根室に来航・通商の要求
    松平定信とラクスマン、そして幕末
1804 ロシアのニコライ・レザノフが長崎に来航・通商の要求
1806 露寇事件
1808 フェートン号事件
1824 大津浜事件 宝島事件(2)
1825 異国船打払令(2)
1837 モリソン号事件
1839 蛮社の獄(2)
1841 ジョン万次郎遭難・救助・帰国(1851年)
1842 「異国船打払令」を廃し、新たに「薪水給与令」を公布
1845 阿部正弘・老中首座に
1846 ジェームズ・ビドルの来航と開国の要求
1849 ジェームス・グリン(2)(3)の来航と米国捕鯨船員の解放
 参考: 幕末の砲艦外交
      日米交流 1.日米国交樹立以前

3.諸外国からの開国要求の背景と阿部正弘・老中首座の対策
 
 アメリカは1823年に欧州大陸とアメリカ大陸の相互不干渉を唱えるモンロー宣言を発表、これは「アメリカ大陸はアメリカ合衆国の縄張りである」というモンロー主義となり、「アメリカ合衆国内の先住民の掃討」に専念した。(参考:アメリカ合衆国の歴史
 一方、イギリスはアヘン戦争により1842年に南京条約を締結、香港の割譲などの権益を得て、ヨーロッパ勢力によるアジア植民地の第1歩となったが、これに便乗したアメリカが、望厦(ぼうか)条約を1844年に清に認めさせた。
 阿部正弘が老中首座となった翌年の1846年、清との条約の批准の帰りに日本との通商を求めて、アメリカのジェームズ・ビドルの艦隊が浦賀にやって来るが、外国問題にとりくむ阿部正弘は鎖国を理由に断っている。なお、アメリカは1948年、メキシコとの米墨(べいぼく)戦争でカリフォルニアを獲得している。(参考: 1848年革命ウィーン体制の崩壊~フランス革命ナポレオン戦争後のヨーロッパを、革命前の絶対王政に戻し維持しようとした保守反動体制であるが、ヨーロッパ資本主義諸国によるアジア、ラテンアメリカ諸地域への植民地支配の本格化の始まりでもある。また、ヨーロッパ社会の新たな対立軸は従来の絶対君主対市民ではなく、資本家階級と労働者階級という階級対立に移った転換点を示すマルクスとエンゲルスの『共産党宣言』が同年に発表され、社会主義運動の出発点になった。)

4.ぺリーの黒船来航
 1853年6月3日、浦賀沖にぺリーの黒船来航。その前年にオランダ商館長のクルティウスが長崎奉行所に書簡を提出し、アメリカのペリー提督率いる艦船が、翌年3月に来航することを知らせていた。ペリー来航の19日後に将軍家慶逝去。家慶の遺言により攘夷派の徳川斉昭が海防参与を命じられる。また、阿部正弘に才能を認められて1844年に抜擢されていた水野忠徳(みずのただのり)は1852年に浦賀奉行、1853年にペリーとの交渉のため長崎奉行に任ぜられていた。ペリーに遅れること約1ヵ月でロシア使節の提督プチャーチンが、日本の開港と北方領土の画定を求めて長崎に来航したが、英仏とのクリミア戦争の勃発により一旦日本を離れる。
 1854年1月、ペリー再来航で江戸湾に侵入し、江戸城内騒然。1854年2月、徳川斉昭は求めにより登城、攘夷論で井伊直弼(開国論)らと討論、翌日には長崎での石炭補給、そして3年後をめどに交易を始める、という妥協案を提示した。しかし、幕府は通商問題を先延ばしにしたまま開国を決意し、1854年3月に日米和親条約(2)(3)(4)を締結し、下田と函館(当時は箱館)の開港(箱館は翌年の開港)とアメリカ船の日本における物資の確保とアメリカ人の安全の保障などを決めた。日米和親条約により開港された下田にペリー艦隊の船が順次入港(2)し、下田入港に際しての細則の下田条約が決められた。

 また、英露戦争によりプチャーチンを捕捉すべく長崎に来航した英国東インド・中国艦隊司令ジェームズ・スターリングは、ロシアがサハリンおよび千島列島への領土的野心があることを警告し、幕府に対して局外中立を求めた。ペリー来航に備えて長崎奉行となっていた水野忠徳の提案により、1854年10月に日英和親条約が調印されている。さらに、ペリーによる和親条約締結を知ったプチャーチンは新鋭船ディアナ号に乗って下田に来航し、1855年1月に日露和親条約(2)を締結した。1856年1月には、日本とオランダとの間で日蘭和親条約が結ばれるのだが、日本とフランスの間では、最後まで和親条約が結ばれることはなかった。フランスは清との間にはイギリスと同等の条約を締結し、日本との貿易を想定して琉球の租借を要求して清に拒否されているが、日本からの和親条約締結の打診には積極的ではなかった。
 ペリー来航のときは条約交渉を先延ばしにすることに注力していた日本が、日米和親条約締結後は英仏に対してむしろ和親条約締結を提案している。一度日米間で条約を締結したことで、倣うべき前例ができたことも大きく影響していると思うが、西洋各国間の牽制効果を狙ったのであれば、鎖国体制から転換して間もないにもかかわらず幕府はなかなかしたたかな外交を行っていたのではないかとも思える。
 参考:日仏修好通商条約、その内容とフランス側文献から見た交渉経過(1)
      19世紀中葉のフランス極東政策と宣教師 琉仏条約締結をめぐって(上原令)



初稿 2018.8.8 更新 2018.8.14