自然とデザイン

自然と人との関係なくして生命なく、人と人との関係なくして幸福もない。この自然と人為の関係をデザインとして考えたい。

続 私の専門は生きることだ

2014-12-24 16:48:39 | 自然と人為
 私の専門は生きることだと言いながら、生きることは大変に下手だ。専門馬鹿で世間を知らない面もあるが、自分の体のことに無関心で体を動かさない仕事に没頭してしまうので、3度の脳卒中を含めて歩く書くの基本動作が不自由になってしまった。

 一方、「私の専問は生きること」と言われた片桐ユズル氏は、「私たちの心身は生来すばらしい能力があるにもかかわらず,無意識的な習慣や条件づけ,固定観念などによりそれの完全な発揮がじゃまされています。アレクサンダー・テクニークの先生は,手とことばを使って,自分で自分のじゃまをしている不必要な緊張に気づかせ,それをやめていく学習を助けます」と「アレクサンダー・テクニーク」を指導されているので、嘘つきを軽蔑する誠実な真の生きる専門家だと思う。

 私は「俗に染まらず俗を離れず」を多少意識はしているが、それを目標として生きている訳ではない。明治維新当時(大政奉還の9か月前)に生まれた夏目漱石は有名な言葉、「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい 」を残している。智に働くのが(英国留学で知った)社会、情に棹さすのが(日本古来の)世間だと、私なりに解釈している程度であり、未だに私も義理人情は好きな保守的な人間なので、世間の習慣を否定するつもりは全くない。だけど、国民が自由に生きていくためにも政治家や学者を含む公務員は憲法を守り、国民を守る公僕であることに誇りを持った仕事をしろと言いたい。そうしないとこの国にはモラルも基準も無くなり、汚れちまって乱れてしまう。「自分に誠実でないものは、決して他人に誠実であり得ない」という夏目漱石の言葉も公務員に味わって欲しいものだ。

 専門馬鹿という言葉は馴染みがあるが、専門阿呆という言葉はあまり耳にしない。しかし、あるブログに「僕は、安倍晋三は馬鹿だとは思わないが、ただ『安倍晋三はアホ』だと思う」とあった。辞書で「馬鹿と阿呆」の違いを調べてみると、馬鹿は無知と関係し、阿呆は愚かさと関係しているようだ。言葉の持つ意味やニュアンスは厳密に定義できるものではないが、今日の日本の繁栄は戦争を絶対禁止した憲法のお陰なのに、靖国の英霊のお陰だとして参拝し、その一方で「積極的平和主義」とか称して、戦争ができる国への準備をしている。公共事業や軍需産業は国民の税金で支えられるので、不況になれば産業界はそちらに走りたがる。そして、戦争はいつも平和の囁きのもとにやって来る。ノーベル平和賞以上の価値がある平和主義の日本国憲法の改正に熱心で、『積極的平和主義』という不誠実な言葉遊びを国民だけでなく世界に宣言し、国民や周辺国を怒らせ不安にさせるのは確かに『愚か』なことだ。

 また、自民党は「日本の景気回復への道は『アベノミクス』しかない」と言う。グローバル経済では賃金低下への国際競争であるレース・トゥ・ザ・ボトム(Race to the bottom)が進行している。その状況下で富裕層や大企業を優遇する政策、富める者から貧しい者へ富が滴り落ちるトリクル‐ダウン(trickledown)で格差はさらに拡大する。

 国民の一部の富が増加し、格差が拡大しても『経済成長』だと政治家が言葉遊びをするのは、国民主権の憲法を軽視する決して許されない『愚か』なことだ。自民党の指導層となった2、3世議員の常識からは、「君(国民)あり、故に我(議員)あり」の原点の基本さえ消失してしまっているようだ。

参考資料
今後の日本国家はどうあるべきか 西部邁ゼミナール2012年1月1日
YouTube放送 【1】 【2】 【3】 【4】
若手の論客(中野剛志、柴山桂太、施光恒)と西部邁氏が語る。
中野剛志 なかのたけし  京都大学(都市社会工学)
柴山桂太 しばやまけいた 滋賀大学(経済学部)
施光恒   せてるひさ    九州大学(比較社会研究)
 


モデルを考える 目的を考える 制約(基準)を考える

2014-12-16 23:15:10 | 自然と人為
 私は理数系が苦手である。特に生物学には向かないと高校時代に適性試験の結果が出た。だけど家業を継ぐために農学部に行く必要があると、数学や物理などを苦しみながら勉強して合格し、今まで理科系の仕事をしてきた。家業を継ぐために大学に進学し、家業を廃業して大学に拾われたので、大学に残るつもりで勉強していない。好奇心のまま仕事をしてきたので、学者への道の修行もしていない。そのような私を定年まで仕事と生活をさせていただいたことには深く感謝している。

 だから税金で仕事をし、生活をさせていただいている「政治家や学者を含む公務員は、公僕として社会に感謝して責任と義務を果たさなければならない」と心底からそう思っている。みんなが自由に生きるためにも、公務員は憲法(基準)を守る責任と義務を果たさねばならない。そして実験室よりもフィールドの仕事が好きだったので、理系、文科という理性よりも、「自他同一の感性」を大切にしたいと本音でそう思っている。

 理数系が苦手だからこそ、数学モデルで目的や制約(基準)を考える方法を皆様にお伝えしたい。「私の専門は生きること」なので世間に生きる基準(慣習)と社会に生きる基準(憲法)について、皆様が考える参考になれば幸いです。

 世間や社会が数学モデルとどう関係してるの?

 義理人情の狭い世間に居ると、日本国民を守ってくれている憲法のことを忘れがちです。日本を守るためとか抑止力とか言いながら戦争ができる国にしてはいけません。憲法は社会のくくりで、あいまいなところもある基準のようなものですが、戦争は絶対にさせないという日本に課せられた制約です。国民主権も、基本的人権も絶対に犯してはいけない制約です。基準と制約の違いは数学モデルを使うと理解できるようになるでしょう。経済だって数学モデルが主流になっています。しかし、お金のことばかり考えるから「経世済民」ではなく「経世棄民」を仕方がないと思う変な時代になってしまいました。

 人々には生きていく様々な目的があります。数学モデルでは目的は目標とされますが、絶対に達成しなければならない制約になる場合もあるでしょう。「多目的計画法」はそのような考え方に気づかせてくれるでしょう。宇宙だって、それを想像できるよう言葉や図(写真)で説明されていますが、数学モデルで考えられています。「世間や社会を数学モデルで考える」という私の思いがどこまで皆様に届くか、数学が苦手なわたしには自信がありませんが、チャレンジする価値のある仕事だと思います。

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2014.12.20 更新(ソルバーの使用方法削除)

牛の放牧によるイノベーションとソーシャルビジネスの提案

2014-12-12 20:37:16 | 自然と人為
2009.6.17-2013.8.1更新

1.牛の放牧によるイノベーション

1)イノベーションとは

 イノベーション(innovation)とは新しい事(物)を採り入れることであり、刷新、一新、革新、新方式、新制度等の意味があり、日本で使われる技術革新(technical innovation)はイノベーションの一つの要素にすぎません。シュンペーターは「経済発展の理論(1912)」において、「生産をするということは、われわれの利用しうるいろいろな物や力を結合することである」とし、その生産的諸力の新結合(イノベーション,中国語では創新)、すなわち労働や土地のように物質的なものと技術や社会組織のように非物質的なものの新結合の遂行によって経済は発展するとしました。ここで言う「発展」とは経済が時間の矢の方向に流れるその方向を示したのではなく、これまでの日常的な経済の循環が「駅馬車から汽車への変化」のように非連続的に飛躍(発展)して、新しいシステムに移行する機構を示したにすぎません。トーマス・クーンは「科学革命の構造(1962)」で、通常科学の思考の枠組みを転換(パラダイム転換)するような非連続的な発展を革命としています。イノベーションも革命も非連続的な発展であるとする点において思考の構造は良く類似していますが、「発展」がもたらす方向が望ましいかどうかの価値は、市民が判断すべきことです。

2)イノベーションで大切なこと

 現在は経済成長を理想としがちですが、それは幻想にすぎません。経済とは「経世済民」、世を経(おさ)め、民を済(すく)うという政治・統治・行政全般を意味する言葉でしたが、貨幣経済が浸透した江戸時代後期には利殖を意味して使用されるようになり、「今世間に貨殖興利を以(もっ)て経済と云ふは誤りなり」と批判も出ています。「貨幣はいつまでも使用される」という民の信用によって流通していますが、貨幣経済はその民の信用に報いることなく、「済民」を切り捨てて「棄民」とし、「経済」ではなく「経棄」と変なことになってしまったようです。

イノベーションで大切なことは、経済と社会を一体のものとして「経世済民」のための「発展」をめざすものであり、資源の枯渇から1972年に「成長の限界」が警告されたにもかかわらず「経済成長」を追い求め続ける幻想から覚醒し、地域資源を活用した「持続的発展」へのパラダイム転換をしていくことです。

3)なぜ牛の放牧によるイノベーションなのか

  参考資料 - 牛は資源を循環し、人をつなぐ -

 牛の放牧は、生産者が牛乳や牛肉の生産のために国内資源を活用して自給率を高め、コストダウンをして経営の安定化を図るという側面では新しい考え方でも方法でもありません。ここであえて「牛の放牧によるイノベーション」としたのは、企業家によるイノベーション(新結合)という経済的側面ではなく、牛の放牧で自然と人、人と人をつなぐ新たな社会を構築するという社会的側面への希望を込めています。

 私たち一人一人は経済を含めて社会というシステムを作っている当事者ですが、システムを作るという意識が乏しく、傍観者であることが多く、システムを壁と感じ、結果としてシステムに支配されることが多いと思います。

 しかし自然と人、地域の人と人、農村と都市の人と人を牛の放牧でつないで、自然と他者を尊重する「君あり、故に我あり」と発想を逆転することによって、それぞれが協力してシステムを創っていく、「システムを共創する」という意識が目覚めるのではないでしょうか。これまでの世間の習慣から考えるのではなく、憲法で約束された社会を考えることで、「我あり、故に君あり。されど我、君を認めず」と意見の違いで他者の存在を否定することなく、それぞれの違いを尊重して対等に生きていくことで、活力と信頼が生まれると思います。それこそが今求められているイノベーションであり、人間と人類の進歩の方向であり、経済や社会の閉塞感を打破していく道ではないでしょうか。

 中国語ではイノベーションを創新としていますが、創るには新しく作る意味が含まれていますので、ここでは市民と共に創る共創という意味をイノベーションに与えたいと思います。すなわち企業家による「経棄」的な革新ではなく、市民による社会的革新をイノベーションの真の意味としたいと思います。牛の放牧によるイノベーションとは、牛の放牧による新しいシステム(社会、経済)の共創のことであり、科学革命になぞらえば少し大げさになるかも知れませんが、新しい社会、経済を共創する意識革命、市民革命の一つの試みとも言えましょう。

* ちょっと一服!

 なにも難しいことを考えているのではありません。「お天道さんに見られている」と幼少のころ教えられたように、「君あり、故に我あり」と呪文のように幼少から教えれば良いだけです。もっとも大人が本気でそう思わないと教えることなどできませんよね。幼児から中学校までは「自他同一」の感性を育てることが大切だと思います。子供の世界を壊して、「勉強、勉強!勉強しなくては勝組みになれませんよ!」と「我あり、故に君あり」の教育をしていると、人と人、国と国を対立させる人材を育てることになるのではないでしょうか?

 それから政治家や学者を含む公務員は、国民の税金で仕事をし生活もさせていただいているのですから、公務員の憲法違反は免職等厳罰に処すべきでしょう。ことに憲法を解釈で変更しようとする政治家などは、立憲主義の法治国家の政治家としての資格が全く欠如しています。2世、3世議員になると、政治家は憲法を守る義務のある公僕なのに、世間の支配者になったと任務を錯覚してしまうのでしょうか。
 政治が世間から脱皮し、公務員が尊敬されるようにならないと「日本は価値ある国」にはなれません。

2.牧場と市民がつながる「農牧林の楽しい生活」

 牛の放牧は、人が全てを管理するのではなく、牛や草が一生懸命生きていくことを人が手伝う仕事です。これまでの農業や畜産は「人が自然をいかに管理するか」という人間中心的な考え方が主流でしたが、放牧はその流れから脱皮できる仕事である点を重視したいと思います。里山に樹木を残して牛を放牧することで、健康な牛が育ち、草と残された木が土を覆うことで土壌の崩壊やエロージョンを防止し、景観を創造し、食の安全も守ることができます。また、牛の放牧を市民(消費者)が支援することにより、牛が生まれ、成長し、乳を搾り、肉になるまでの命の営みを知ることができるだけでなく、生産から流通、そして消費までの過程をガラス張りにすることもできます。

 牧場と市民(消費者)の接点は牛乳や牛肉だけではありません。牛の放牧でつくり出される里山の景観の美しさを知ることは、人々が牛と自然の関係を放牧を通して理解する第一歩です。放牧で維持されている里山を楽しみながら、牛が成長し子牛を産む一方で、里山がシバ草地で覆われていく過程を見ていくことによって、自然と牛と人のつながりを実感できるでしょう。

      
     民の公的牧場をめざして、それは混牧林経営で
         ふるさと牧場 山本喜行(山口県防府市)

 山口県防府市で、山本喜行さんは林業と棚田に和牛繁殖を組み合わせた「ふるさと牧場」を経営し、民の公的牧場をめざしています。この牧場には市民が集う支援組織「こぶしの里牧場交遊会」があり、牧場と市民がつながる「農牧林の楽しい生活」を実現しています。ここでは牛の放牧が農業と林業をつなぐだけでなく、農林業と人をつなぐ役割も果たしています。また、この支援組織では大学や県の関係者が主要メンバーとして活動されていますが、ある大学関係者は、この牧場の棚田に数年放牧した後に稲作復活が可能なことを実地研究で実証されています。このように支援組織は大学や県関係者と個人的な関係でつながり、支援活動は研究活動にもつながっています。研究は研究機関や研究者だけの専売特許ではありません。現場の問題は現場の方が一番良く知っていて、人はある意味ですべて研究者でもあります。

3.牛の放牧によるソーシャルビジネスの提案

 そこで、経済・社会のイノベーションを推進する牧場の支援組織として、「こぶしの里牧場交遊会」を全国的に展開するために、まずは牛と里山を放牧でつなぐ「里山と牛研究所(仮称)」を地域に設置することを提案したいと思います。この支援組織は放牧から林業支援、さらにはエネルギー等の地域自給へと仕事を広げていく最初の核として考えています。

    
    自然と人をつなぐデザイン

 一方、牧場と市民をつなぐ支援組織として、地域や都市に任意に「えんの会」を作って、その「えんの会」と「里山と牛研究所」をつなぐ方法を一つの案として考えてみたいと思います。「えんの会」は生活者の組織として生協もその一つに考えられるでしょう。いずれにしてもシステムを共創するのですから、「えん」の会は、いろいろな縁で結ばれるという「縁」、結ばれる円を大きくしていきたいという「円」、そして十牛図の一円相の「円」、さらには経済の「円」を含ませています。尋牛に始まる十牛図の牛は仏の道であり悟りの道ですが、ある人にとってはお金を求める道かも知れません。これらの「えん」全てを含めて、ある目的に特化したさまざまな支援活動の幅をもう少し拡げて、自然と人、人と人とがつながり、地域や地球を考える会として重層的に活動を拡げていただき、その活動の一つとして牧場とつながっていただければと思います。

    クリックすると拡大します。

 「ふるさと牧場」の山本喜行さんと支援組織の活動は、農牧林で民の公的牧場をめざしているソーシャルビジネスと考えることができます。この事例を参考にして、全国の放牧をしている牧場に「里山と牛研究所」を付設し、これに「えんの会」がつながり、さらに放牧する牛の生産、肥育、牛肉の流通を担当する「畜産システム研究所」をつなぐことで、牛の放牧によるソーシャルビジネスとイノベーションの展開が可能ではないかと夢見ています。なぜ、「F1雌牛による放牧」なのかは、また別の機会に説明させていただきます。


2014.12.12 ブログ移転一部修正





牛は資源を循環し、人をつなぐ

2014-12-11 17:46:19 | 自然と人為
 忘れていませんか? 牛は本来、自然の中で自分で生きていける動物だということを。人は自分の都合でこれを家畜にしました。農耕に必要なときは動物トラクターとして利用し、日本では耕耘機が普及したので和牛を肉用牛として改良して残してきました。しかも、和食に最適なスライス肉市場を確立して、霜降り肉を作り出し、今では和牛は霜降り肉の代名詞のように有名になり、誰もが霜降り肉の生産を目指すようになりました。

                    牛の放牧で自然と人、人と人を結ぶ
    
       共役リノール酸  共役リノール酸(CLA)と抗アレルギー作用    

 しかし、時代が変わり里山や耕作放棄地の管理に牛が必要になってきました。ところが牛が必要になったとき、牛を飼育する農家がいなくなっていました。里山の資源を循環的に活用し、里山の公園化や獣害対策として牛の放牧に期待が寄せられています。里山で牛を放牧するには、おとなしくて放牧に慣れ、草をもりもり食べてくれる牛、そして子牛が元気に育つように乳も出て子育ての上手な牛が最高の牛です。

 里山に面積(ha)当たり牛を0,5~1頭の放牧をすると、牛糞、草、昆虫、野鳥、微生物の生態系が肥沃な土と美しい景観を作り出してくれます。稲作の副産物である「米ぬか」は、大規模経営では保存できないので「脱脂米ぬか」の使用が常識となっていますが、地域で必要に応じて精米すれば、保存の心配をする必要がないので最高の飼料となります。

 牛の繁殖は地域の自給飼料を基本に考えるべきです。牛を飼うために草を作るのではなく、地域資源を管理するために繁殖牛を飼うのが世界の常識です。アメリカでもオーストラリアでも、広大な不毛の土地に雌牛30頭に雄牛を1頭程度の割合で一緒に放牧することで、土地は肥沃になり、子牛が生まれて収入源となります。

 高く売れる子牛生産を目指す日本の和牛生産は、肉質は世界一でも規模拡大により飼料基盤が脆弱となりました。家畜の飼育頭数の増加を目標としてきた畜産行政ですが、酪農家や乳牛頭数は減少し、バター不足が問題とされるようになりました。ビジネスは原料輸送、生産物の加工、販売という6次産業をシステムとして確立することで成立します。グローバル経済ではアメリカから中国への原料輸送も考えられます。輸入飼料に依存した日本の畜産の将来はどうなるのでしょうか。地域資源を活用するための畜産に考え方を変える時代が来ているのではないでしょうか。

    
    草をつくるために牛を飼う アメリカのHRMに学ぶ

    
里山を管理するために牛を飼う 理想と現実のギャップをどう埋めるか

 日本の里山は資源が豊富です。里山を放置すると草木が茂り、鹿やイノシシなどの獣害が増えます。一方、農村人口は減少し、高齢化が進んで耕作放棄地も増加していますので、これまでのように人手で里山を管理できなくなりました。牛やヤギや羊の出番です。稲わら、芋づる、野菜くず、河川敷等の野草の乾草など地域で自給できる飼料資源を地域で協力して利用すれば、牛やヤギなどが里山を管理し、美しい景観と地域の絆を与えてくれます。

    

 乳牛も肉牛も草資源の活用の為に飼われているのが世界の常識です。アメリカやオーストリアでは砂漠化防止のために牛を飼っている牧場もあります。過放牧による砂漠化というのは、放牧管理を知らない人達が犯す誤りです。日本は国土は狭いけれども草資源には恵まれています。和牛は農耕用に家族の一員として、同じ屋根の下で1、2頭程度飼われていましたが、その役目を終り、世界一の霜降り肉として生き残っています。その特徴を活かして、乳牛に和牛を人工授精により交配して活力あるハイブリッドを生産し、そのF1雌牛を放牧して子牛生産している「富士山岡村牧場」があります。和牛が霜降り肉なら、放牧によるF1雌牛は健康なおいしい肉として、これからの酪農と肉牛生産を支えていくでしょう。

 この「富士山岡村牧場」を目標として、牛を飼った経験がない地域の草刈隊が協力して、耕作放棄地の草の管理を中心にして、地域で放置していた稲わらを乾燥し、廃棄に困っていた芋づるや野菜くずなどを持ち寄ることで、自給飼料だけで繁殖牛を飼い子牛を生産することに成功している事例(大谷山里山牧場)があります。

    
    大谷山里山牧場

 反芻動物である牛は第一胃に生息するバクテリアと共生して、草を食べて生きています。放牧により、第一胃内のバクテリアも増加して牛乳や牛肉中の共役リノール酸も増加します。

経産牛放牧で肉質向上(中國新聞)

参考資料
肉用牛放牧の手引き」改訂版(近畿農政局畜産課)
山口型移動放牧マニュアル 放牧技術編
山村地域住民と野生鳥獣との共生
家畜の有毒植物と中毒(農研機構)

2014.12.11 ブログ移転更新 追加更新 2016.11.2

牛が拓く未来 ― 牛の放牧で自然と人、人と人を結ぶ

2014-12-10 12:24:33 | 自然と人為
2008年9・10錦繍号より転載

農家から消えた家畜たち

 戦後の十年は、国は食糧自給をめざし、農家は国民に食料を供給するために誇りを持って懸命に働いた時代でした。どこの農家でも、鶏は庭先をコッコッと歩きまわり、牛は農家と同じ屋根の下の土間(内厩:うちまや)で、家族の一員として大切に飼われていました。農繁期には学校が休みになり、牛を牽いて草を食べさせる牧童の姿がありました。

 しかし、アメリカの余剰農産物をドルではなく円で輸入し、その円をわが国の再軍備に使うというMSA協定を受け入れたことで、わが国は食糧自給政策を放棄し、輸入飼料に依存した畜産の道を歩み始めることになります。そして農家から家畜は消え、誇りが込められた百姓という言葉も使用されなくなり、養鶏や酪農などの専業農家が生まれ、農家が卵を買うことがあたりまえの時代になってしまいました。

 高度経済成長期にテレビ、冷蔵庫、洗濯機の三種の神器が国民に希望を与えたのはつかの間で、国が経済成長を優先し続ける過程で「質素倹約」を尊ぶ風潮から「消費は美徳」とされる時代になり、生活改善への希望は生活から遊離した欲望の拡張へと変貌していきました。そして国民の食糧を支えてきた農業は軽視され、農民の誇りは奪われ、里山の荒廃と農村の過疎化が進行しつつあります。

追い詰められた近代化畜産

 科学は宇宙から生命に至るまでささいな部分的事実しか知り得ないのに、世界のすべての説明が科学でできるかの如き錯覚と過信が生まれ、部分の知識で全体を管理しようとしています。そして、知識を偏重した教育により感性豊かな子どもや青年の世界を傷つけています。

 この科学による近代化の延長線上に、家畜を人工的に完全管理することが進歩だと勘違いした官僚や学者、そして企業人が出現し、農業の近代化による規模拡大競争が始まりました。農家から消えて大型畜舎に幽閉された家畜たちは、ただじっとして上げ膳据え膳、手とり足とりで、今の子どもや青年と同じように自ら自立して生きる野性的生命力を奪われています。

 ところが、限りない規模拡大競争は農家戸数を減少させ、規模拡大で生き残ろうとした農家も、農産物価格は上がらないのに資金と労働の負担は大きくなるばかりで先が見えません。
 しかも資源は有限なのに国際的に穀物とエネルギー需要は増加し、穀物と石油の価格を暴騰させています。これに加えて円安が進み、TPPにより関税だけでなく安全を優先してきた国内の諸制度をアメリカに追従させてしまうと、資源輸入型の日本の産業の将来も見えなくなりまます。

 農業は6次産業だと言われます。そのような経営を実現できる経営者もいるでしょう。しかし、ビジネスは資源の輸送、生産、加工、流通のシステム化で成立しますが、グローバル化はこのシステムを国内だけでなく世界で展開していきます。資源輸入型畜産を主導し、家畜の飼育頭数の増加を行政指標としてきた農水省はTPPには反対するでしょうが、酪農家や乳牛頭数が減少しバター不足となっている畜産をどう立て直すのでしょうか。

 これに加えて家畜の飼育密度を高める規模拡大は伝染病の感染を拡大させます。口蹄疫対策において早期発見とワクチン接種は、国の責任でその体制を準備する必要がありますが、感染拡大の責任を農家に押し付け、全頭殺処分でこれに対応しようとする専門家(学者や研究者を含む公務員)には強い憤りが湧いてきます。

 さらに食品偽装で儲けようとする民間業者やBSE問題における感染源を隠蔽している政府の不誠実な対応など、流通や行政や農協まで自己の利益の追求に走り、生産者と消費者が不在の中で「安全・安心」への信頼を失った畜産物は需要が低迷しています。

 こうして大型経営による利益追求型の畜産は存亡の危機に追い詰められてしまいました。

農業は太陽エネルギーから富を生む

 土を肥沃にするために家畜を飼うのは有畜農業の原点ですが、近代化畜産では、「どうすれば儲かるか」と経済活動のための家畜管理にばかりに心が奪われてきました。しかし利益を追求しても、「一方の得は一方の損」で富の偏在は生じますが全体の富の増加はありません。輸入飼料に依存した加工型畜産から国内資源に依存した有畜農業に転換し、農業の持つ多面的機能を活用して全体の富を増加させていくことが求められます。

 太陽エネルギーによってもたらされる自然の贈与を循環的に活用して生きているのが生物です。牛は太陽・草・土とつながっているだけでなく、山・川・海の流域の生態系ともつながっています。そのつながった一つの生態系に人間も含まれています。生物の一員である人間が生きていくのを支えているのが、太陽エネルギーから再生産可能な資源を生産し、持続可能な富に換える農林漁業という仕事です。ですから、農林漁業が成り立っていないのに人間が生きていけるとしたら、それは矛盾ですし、どこかに問題があります。
 問題の一つには太陽エネルギーによってもたらされる自然の贈与が近代化により見えなくなったことがあり、見えないから大切なものとして評価されなくなっていることがあるのでしょう。

 自然の中に身を置くと、自然には農業を成功に導く無数の可能性があることが見えてきます。「どうすれば家畜を飼いながら土を肥沃にし、自然を豊かにすることができるか」という視点で農業を考えると、様々なアイデアが生まれて、自由な農業の展開が可能になります。そうすれば農業は一生の時間と努力をかける価値がある仕事になってくるのです。

発想の転換で牛が拓く牧場ができあがった

 土を鍬で耕して、播種、除草して収穫を得るのが農業だという固定観念は、水田稲作を中心にした農耕民族である私たちを強く呪縛しています。一九四七年に、十九歳で北海道旭川の開拓団に入られた斉藤晶さんも最初は、その呪縛にとらわれ、傾斜地の多い農業に向かない厳しい環境で開墾、石取り、草取りに追われ、苦労に苦労を重ねられました。しかしある時、苦労するのは環境が厳しいからではなく、環境を厳しいと思っていた自分の考え方に原因があることに気づかれたのです。自然に立ち向かって収穫を得るのが農業なのではなく、自然という循環の中に溶け込み、自然を学ぶ作業そのものが農業であるという発想の転換によって斉藤さんは牛の放牧を始めました。苦労して草を取り、収穫物が鳥獣に食べられるより、草を牛に食べさせればいいのだという発想です。

 日本の農業は雑草との闘いで、ことに耕作放棄地では雑草が増え、さらにススキやササなどの背の高い草や灌木が増えていきます。灌木が増えると管理が困難になり、元の田畑に戻すのが大変になるだけでなく、獣害が増加しますので、草刈りや野焼きによってシバ型の短い草をつくっておく必要がありますが、牛がこの仕事をしてくれるのです。牛を飼う必要がなくなれば田畑に戻せば良く、牛が必要な時は牛の能力を多面的に引き出してやれば良いのです。
 シバ型草地をつくるには多種類の牧草の種を播き、牛を放牧して牧草より早く成長する雑草を食べさせると、その後にその土地に合った牧草が残ります。毎年、早春に放牧するとやがて雑草は絶え、根を張って生きていくシバ型の短い草が残っていきます。

 つまり、牛は草を食べるだけでなく、草をつくる能力があるのです。牛は草と種子を一緒に食べますので、牛糞には種子が混じり、これを蹄で土中に踏み込むことで播種と施肥と覆土鎮圧を同時にしてくれます。
 ことに牛に穀類などを与えるのをできるだけ少なくすると、牛は自ら生きる力に目覚めて一生懸命草を食べ、短い草まで食べることができるように短足でしっかりした蹄になります。一方、草は一生懸命根を張り、背丈が短くても出穂して生き残っていきます。牛も草も環境に順応して形態を変えながら生きていくのです。

 ノシバなどの発芽率が低いものは、シバ苗を植えてシバ草地を早く造成する方法が採られますが、この方法には短い草を食べる牛が必要になります。こうしてできたシバ草地は、牛が歩くことで古い根を踏み切って新しい芽を出してくれますので、牛はさらにシバ草地の更新までしてくれることになります。ゴルフ場や庭のシバは機械で刈りますが、牛を放牧することで傾斜地でも機械の助けを借りないでシバ草地をつくり拡げることができるのです。放牧を見慣れた人は、斉藤牧場の牛が短い草をスピーディーに食べていくのに驚きます。

 こうして斉藤さんの「牛が拓いた牧場」は実に美しい牧場になりました。さらに斉藤さんは、農業に現れた自然の素晴らしさを人々と分かち合うことも農業の役割だとして牧場を開放され、今ではログハウス数軒、教会、化学物質過敏症(シックハウス症候群)患者のための試験療養棟、松本キミ子先生(誰でも楽しく絵が描ける美術教育の指導者)のアトリエ「メゾン・ド・キミコ」などが牧場に建てられ、人が集まる場所となっています。これは牛の役割が牛乳や牛肉の生産だけでなく、多様な場をつくり、地域の活性化に貢献してくれることを教えてくれます。

参考資料 理想と現実とのギャップをどう埋めるか

草をつくるために牛を飼う

 農業の工業化と企業化の権化のような国、アメリカにおいても、近代化した企業的経営に行き詰まり、農業の原点に立ち返る牧場が出てきています。すなわち、自然の贈与(資源)を複合的に組み合わせ、家族経営で成立させる農業です。

 彼らは牛を飼うために草をつくるのではなく、草をつくるために牛を飼います。雨の降らない半乾燥地帯では穀物や大豆は作れませんが、草があれば牛は生きていくことができます。しかし牛を放置しておけば草がある所に牛が集まるので、過放牧では草が育たなくなり、牛が行かないところは砂漠化が進みます。そこで草のないところにエサを与えて牛を誘導し、草をつくらせます。草が増えると飼育できる牛の頭数が増えるので収入が増加するのです。

 また、草が土地を覆い裸地が少なくなると土壌侵食(エロージョン)が防止できます。これは市民生活に貢献することでもあるので、このような牧場を市民が支えることで、牧場主と市民が一緒になって環境を守る活動をしているのも、彼らの特徴です。

参考資料 アメリカのHRMに学ぶ

里山を管理するために牛を飼う

 畜産を専業化し、利益をあげるための経済活動と考えるようになったのは、ついこの五十年のことです。これからは牛の多様な役割を生かした農業を再生していく必要があります。山口県防府市久兼の「ふるさと牧場」は、30ヘクタールの山林と1.5ヘクタールの棚田と10頭の和牛を飼育している、かつての日本の農林業の縮図のような農家経営ですが、林業と稲作と和牛繁殖がうまく組み合わされ、人が集まる活気のある牧場となっています。

 農家の後継ぎとして故郷に帰農した山本喜行さんは、林業の下草刈りのために牛を導入しました。林業は30年から五50年先、場合によっては100年先のために今の仕事をしますので、山本さんは将来を考えると飼育する牛の数は10頭がバランスよく、儲かるからといって牛は増やさないと言われます。そして、自分の古里が都市住民の「ふるさと」にもなるようにとの願いから、「ふるさと牧場」と命名されました。

 林業と稲作を牛の放牧で結ぶふるさと牧場は、生産の場だけではなく、フィールド研究の場、教育研修の場、レクレーションの場、人材育成の場と多面的な機能を持ち、この牧場を支援している「こぶしの里牧場交遊会」と共に月2~3回、主として子どもと家族が集まる楽しいイベントを開催しています。

地域の人と人、農村と都市の人と人を結ぶ

 荒廃していく山林や耕作放棄地を牛の放牧に利用できるようになれば、里山の放牧畜産を希望する若い人に新規参入の道を開き、里山と農村を生き生きと再生できます。そのためには、「売らない、貸さない」と里山の所有権と利用権を手放さない国や地域の農家に対して、「牛の放牧で里山の管理ができ、地域が活性化していく」ことを粘り強く説得して理解を得る必要があります。土地は誰のものでもありませんから売る必要はありませんが、土地は皆のものですから皆で大切に管理していく必要があります。 里山の放牧畜産に新規参入を希望する若者の芽をつまないために、ふるさと牧場の山本さんは、積極的に研修生を受け入れ、同時に彼らが牧場を行き来する際にバス利用を奨めて少しでもバス路線の維持に努めたり、地域農家とも交流できるようにするなど、ふるさと牧場に人が集まることが地域にも貢献できるように配慮されています。


参考資料 民の公的牧場をめざして、それは混牧林経営で

 農家と消費者の接点は牛乳や牛肉だけではありません。牛の放牧でつくり出される里山の景観の美しさを知ることは、人々が農業を理解する第一歩です。放牧で維持されている里山を楽しみながら、牛が成長し子牛を産む一方で、里山がシバ草地で覆われていく過程を見ていくことによって、自然と牛と人のつながりが実感できるでしょう。消費者は、里山の放牧畜産を希望する若者を支援し、また、放牧で育った健康な繁殖牛がその役割を終えた時には、その牛を購入、もしくは「ご苦労さん」と弔う気持ちをもつ、このような相互の関係性を深めていくことで共感が生まれ、疲弊している農業は活気を取り戻し、農村の人々も支援をする人々も共に元気になれるはずです。  今私は、こうした考え方に共感される人々、実践されている牧場関係の方々と共に、地域の人と人、農村と都市の人と人を牛で結ぶネットワークつくりを模索しています。

経済・環境・生活は三位一体

 利益追求のために分業化が進んだ今日、部分で生きるしかない私たちは、自然の贈与の全体性を見失い、人工的に部分の最適化をめざす「ものの考え方」に呪縛されています。「問題を解決するには問題の原因となっている考え方を変えなければいけない」(アインシュタイン)のです。部分しか知り得ないのに自然を制御するなどと大それたことを考えないで自然の力を借りる、牛の力を借りると考えれば世界の見え方が変わってきます。

 牛の力を借りるのは、自然を豊かにするためであり、家族や共同体の生活の質を向上させるためであり、同時に私たち一人ひとりの心を豊かにするためでもあります。「いわしの大漁」のとき、「いわしのとむらい」にも心が向き、「すずと、小鳥と、それからわたし、みんなちがって、みんないい」(金子みすず)と共感できる世界をめざしたいものです。

 本来、私たちは自然とも他者とも一つの世界に生きていました。アマゾン先住民のメイナク族は自然という言葉も幸福という言葉も持ちません。言葉は一つのものを分ける意識から生まれてきますが、自然と一つ、みんなと一つになって生きている彼らにとって、自然を世界から分ける意識はなく、幸福と不幸を分ける必要もないからです。彼らにとって望ましい状態を幸福というならば、それはみんなが元気で暮らし、共感しあうことができている世界のことでしょう。

 経済と環境と生活は、どれかを向上させればどれかが犠牲になるというトレードオフの関係にあるのではありません。経済という部分の向上を目標に掲げているかぎり、自然と人、人と人の関係はズタズタに引き裂かれていくばかりです。

 経済と環境と生活、どれも同時に達成できるように三位一体の関係で考える必要があります。三位一体の全体性の向上を目標とする「ものの考え方」に立って、一人ひとりが行動を起こすことができるようになれば、現代の抱える問題を解決する糸口を見つけることができるでしょう。

2014年12月10日 ブログ移転修正