自然とデザイン

自然と人との関係なくして生命なく、人と人との関係なくして幸福もない。この自然と人為の関係をデザインとして考えたい。

敗戦と新憲法~政治も経済も「情報」である⑤

2018-10-25 23:46:20 | 自然と人為
 憲法改正に安倍首相は前のめりである。憲法は政治権力から国民を守るためにある。それなのに政治権力のトップにある首相が憲法改正の指揮を執る。これでは政治は自分のためにあるかの如くの行動したドイツのヒットラーと同じだ。憲法は押し付けられたとか、国民の意志が入っていないとか、まるで国民の考え方は一つしかないかのように、一方的な理由で変えようとしている。考え方はいろいろあるだろうが、憲法はその様な日本独自の、自立した個人が育たない異常な精神構造の国内問題だけではなく、「戦争放棄」を宣言した国際的な責任も持つことを忘れてはいけない。ここでは、ネットで検索できる情報を紹介しながら、日本の憲法の責任について論理的に考えて見たい。
 参考:『映画 日本国憲法』予告編  2分34秒 必見!!
     ビデオニュース 2013.05.03【世界は日本国憲法をどう見ているのか

1.憲法の公布と施行
 日本国憲法は1946年11月3日に公布され、半年後の1947年(昭和22年)5月3日に施行された。その公布日を「文化の日」、施行日は「憲法記念日」とし、国民の祝日となっている。新しい憲法は、大日本帝国憲法の下、帝国議会で承認された。なお11月3日は明治天皇の誕生日にあたり、明治期に天長節、昭和初期に明治節として祝日となっていた日でもある。
 参考:BS歴史館「帝国憲法はこうして誕生した~明治・夢と希望の国家ビジョン 動画
     幕末 日本外交は弱腰にあらず (2011年) 動画


2.カイロ会談ヤルタ会談ポツダム宣言による世界大戦の処理
 1943年11月23日~27日、アメリカ大統領ルーズヴェルト、イギリス首相チャーチル、中国主席蔣介石が参加し、エジプトのカイロで会談が開催され、1943年12月1日、その合意事項(カイロ宣言)として次の項目が発表され、後のポツダム宣言のもとになった。
1)日本は満州、台湾、澎湖島を中国に返還すること。
2)日本は1914年以来獲得した全ての太平洋上の島嶼を手放すこと。
3)朝鮮は、適当な時期に独立すべきであること。
 さらに、ロシアのクリミア半島にある保養地で有名なヤルタで1945年2月、アメリカ・イギリス・ソ連の三国首脳(ルーズベルト,チャーチル,スターリン)による戦後処理に関する会談が開催された。このときルーズベルトとスターリンは、「ソ連が対日参戦すれば、その見返りに樺太と千島列島を譲る」という密約を交わしている。

 また、1945年7月にはドイツのベルリン郊外のポツダムで、アメリカ・イギリス・ソ連の首脳はポツダム会談を開催した。なお、ルーズベルトはヤルタ会談後の4月に死去し、アメリカ大統領はトルーマンに交代した。1945年7月26日に連合国が発表したポツダム宣言(全訳)を日本が「黙殺」し続けたために、イギリスも原爆投下を認め、ソ連が参戦して北方領土問題を生み、その後の米ソ対立から朝鮮半島を南北2分することになる。
 参考:ドキュメント太平洋戦争 第6集(最終回)一億玉砕への道~日ソ終戦工作~(動画)

 ポツダム宣言を「黙殺」している間に、世界の情勢は刻々と変わっていった。「戦争の継続と本土決戦を強硬に主張」した阿南陸軍大臣を始め陸軍関係者を含むA級戦犯は、戦争犯罪のみならず、原爆、北方領土問題と朝鮮半島2分にまで影響し、非常に重い爪痕を残した。そのA級戦犯、岸信介の孫が安倍首相である。これらのことは日本人は知らない人が多いかもしれないが、世界の要人は知っている。

 なお、アメリカが原爆実験に成功したのは1945年7月16日、ポツダム宣言の10日前であった。
 そして、1945年8月14日に日本政府がポツダム宣言の受諾、つまり無条件降伏を決定。翌15日に天皇が降伏の詔書を放送を通じて国民に発表した。しかし、日本の降伏調印式は1945年9月2日、東京湾上に浮かぶ米戦艦ミズーリ号で行われ、正式に第二次世界大戦が終結したのであり、世界の常識は日本の敗戦は9月2日なのである。
 参考:ポツダム、カイロ宣言の内容を知らない日本人
     日本の無条件降伏
     日本人だけが8月15日を「終戦日」とする謎

3.極東委員会とGHQによる日本の占領統治
 1945年8月14日に、連合国軍の1国であるアメリカ陸軍の太平洋陸軍総司令官のダグラス・マッカーサー元帥が連合国軍最高司令官 (SCAP) に就任し、米戦艦ミズーリ号の降伏調印式に出席するため、1945年8月30日、厚木の海軍飛行場に来日した。日本を占領統治する極東委員会は1945年9月に設置されたが、1945年12月に、連合国側のアメリカ国務長官バーンズ、イギリス外務大臣ベヴィン、ソ連外務大臣モロトフの臨席でモスクワで開催されたモスクワ三国外相会議で英・米・ソと中華民国を含む11カ国代表で構成されることが決定し、合わせてワシントンD.C.にあった極東委員会の出先機関として、対日理事会を東京に設置することも決定された。極東委員会は日本占領管理に関する連合国の最高政策決定機関となり、GHQもその決定に従うことになった。とくに憲法改正問題に関して米国政府は、極東委員会の合意なくしてGHQに対する指令を発することができなくなった。
 参考:連合国軍最高司令部/GHQ(General Headquarters)
     極東委員会の設置とGHQとの会談
     日露間領土問題の歴史に関する共同作成資料集

4.GHQによる占領政策
 マッカーサー連合国軍最高司令官の任務は、極東委員会が決定する日本占領政策を執行することであった。ただ実際には、GHQメンバーの大半がアメリカ人だったため、事実上、アメリカ政府の意向に基づいて行動した。マッカーサーは1950年6月、朝鮮戦争が勃発すると国連軍総司令官となったが、1951年4月、北朝鮮の背後にある中ソを攻撃するために、中国大陸での原爆使用をトルーマン大統領に進言し、退任させられた。1951年9月には第二次世界大戦での西側諸国と日本の講和条約であるサンフランシスコ講和(平和)条約が締結(1952年4月28日発効)され、日本に対する占領の終結と日本の主権回復が認められているので、日本の占領政策は殆どマッカーサ連合国軍最高司令官の期間であったと言えよう。

 マッカーサー連合国軍最高司令官の配下のGHQで、『最初に力を持ったのは民政局であり、マッカーサーの側近で日本国憲法の草案作成を指示しホイットニー准将が局長を務めていた(実際の作成担当は、彼の部下ケーディス)。彼は日本弱体化のため、かなり革新的で冒険的な実験的政策を行った。・・・日本国憲法をはじめ、労働組合の育成、政治犯として投獄されていた日本共産党幹部の釈放、社会党・片山哲の首相推薦と、保守派が絶対やらないような政策ばかりを実施した。・・・民政局に集中した絶大な権力が汚職の蔓延につながり、延命を図る日本の企業や政治家連中からの賄賂が集中した・・・これが原因で民政局は力を失い、ライバルの参謀第二部(G2)の台頭を許すことになる。新しく伸びてきたG2はGHQ内の保守派で、“対冷戦の情報機関”的な部署だった。こちらのトップはウィロビー少将。強固な反共産主義者として知られていたウィロビーは、アジアにおける社会主義の台頭を脅威に感じ、トルーマン大統領に日本を「反共の砦」として利用するよう進言した。GHQではこの後G2が実権を握り、それと同時にウィロビーととても「仲よく」していた吉田茂が首相になり、ここから弱体化とは逆の方向、すなわち“戦後復興”が本格的に進み始めるのだった』。(64年前に日本の運命を変えた日米安保条約とは?)より部分引用。

 その後米ソ対立を反映してか、マッカ―サーの軍人としての本質からか反共的となり、・・・『マッカーサーの弱体化路線の継続をケーディスがいくら訴えても聞き入れてもらえず、結局、民政局のケーディスはそのまま辞任した』。・・・マッカーサーは『自らが「労働の民主化」を進めた日本で、公務員から争議権を奪い団体交渉権を厳しく制限する「政令201号」の公布を指示し、労働組合活動を弾圧した。・・・1950年に朝鮮戦争・・・マッカーサーは日本に「警察予備隊」の設置を指示し、・・・公職追放も解除され、血の気が多いと見なされた戦中派の大量復帰も実現した。そのかわり、共産党員が公職から追放される「レッド・パージ」を敢行・・・(マッカーサーのご乱心とGHQの方向転換より)部分引用

 『マッカーサー更迭後の1951年、日本は連合国側の48ヵ国といっせいに仲直りするための条約「サンフランシスコ講和条約」を締結し、ついに独立を達成した。同条約の調印式には、首席全権の吉田茂(総理)、全権委員の池田勇人(蔵相)・・・らが、サンフランシスコの華やかなオペラハウスで調印した。ただしこの条約には、東の面々は参加していない。ソ連もいなければ中国もいない。こういう“社会主義国抜き”で結んだ条約を、全面講和に対して「片面講和」という。また、厳密に言うと“戦っていない”という理由で、韓国と北朝鮮も招請されなかった。・・・その日の夜、吉田茂だけがこっそり場所を替え、「日米安全保障条約(安保条約)」に調印した。1952年4月28日、サンフランシスコ平和条約が発効したが、独立後の日本はアメリカの属国としての道を歩み続けて今日に至ることになる。』(ついに念願の独立!――サンフランシスコ講和条約)より、部分引用
 参考:日本はこうしてつくられた!今読み直す、米軍占領下のシナリオ
     64年前に日本の運命を変えた日米安保条約とは?

    やりなおす戦後史

5.GHQ下の内閣
 戦後、初代の内閣は『日本軍百万を武装解除して大過なく占領軍を受け入れるには、天皇の身代わりである皇族が事態を主導するしかなかった。』占領下の内閣については下記の紹介が丁寧であり、信頼のおける紹介だと思う。
 東久邇宮稔彦王内閣 194.8.15-1945.10.5
 幣原喜重郎内閣 1945.10.9-1946.5.22
 第一次吉田茂内閣 1946.5.22-1947.5.24
 片山哲内閣 1947.5.24-1948.3.10
 芦田均内閣 1948.3.10-1948.10.15
 第二次吉田茂内閣 1948.10.15-1949.2.16
 第三次吉田茂内閣 1949.2.16-1952.10.30 (講和条約への道のり)
第三次次吉田茂内閣は占領下における最後の内閣となったが、『吉田内閣最終年の1954年、吉田の腹心・池田勇人自由党政調会長とアメリカのウォルター・ロバートソン国務次官補の間で開かれた「池田・ロバートソン会談」で日米相互防衛援助協定(MSA協定)が結ばれ、日本はアメリカから援助を受ける見返りに「自国の防衛力増強」の義務を負うことになった。それを受けて吉田内閣は「防衛二法」(防衛庁設置法+自衛隊法)を成立させ、ついに我らが「自衛隊」の誕生と相成ったのだ。』(自国の防衛軍「自衛隊」の誕生)より引用
 参考:MSA協定と日本―戦後型経済システムの形成(2)

 また、占領下にGHQが国会に関与した下記の記録も興味深い。
                    参考:国会法 (1947年4月30日法律第79号)
 国会法の制定ーGHQの合理的行動と議員自立権の後退ー
 国会法立案過程におけるGHQとの関係
 
 宮沢 これは、あとの規則の段階になると、全然司令部は関係ないのですか。
 西沢 やはりございます。ございますけれども、国会法のときほどあれはございませんでした。
 宮沢 やはり前に一応OKをもらうのですか。
 西沢 ええ、もちろんOKは全部もらつております。
 西沢 今から考えると、どうもおかしな話みたいだけれども、そのころはちつともおかしくなかつたからね。私はウイリアムズは知らないけれども、どつかで変な奴に会つたんですよ。あとで聞いたら、それがウイリアムズで、あれはある方面で有力でね。それぞれ専門があるので・・・・・。
 佐藤 ウイリアムズが実際の議事を指導しに議事堂にやつて来たことがあるわけでしよう。
 西沢 ありました。二回ぐらいあります。
 佐藤 何の事件のときですか。
 西沢 それは例の芦田内閣から第二次吉田内閣に移りかわるときの例の・・・・・。
 佐藤  山崎首班問題・・・・・。

 1954年11月10日 占領体制研究会出席者 東大法学部長室にて
  衆議院法制局長 西沢哲四郎
  東京大学教授 宮沢 俊義
  成蹊大学教授 佐藤 功
  東京大学助教授 林 茂
  東京大学助教授 芦部 信喜
  東京大学助教授 高柳 信一


初稿 2018.10.25 動画追加 2018.10.27 更新 2020.2.23(ブログ目次削除)

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