私のモットーは「人は一人では生きられない。だから他者を大切にして生きる」ことであるが、これに75歳にして不染鉄に教えられた「芸術はすべて心である」から、「人生は全て心である」と悟っている。余生を他者との楽しい思い出に感謝し、「人は何故他者を大切にしないのか」を考えながら、これまで生きて来れた幸せを味わいたい。
若い頃から「競争」はあまり好きではなかった。競争にはルールがあり、ある目的や種目により競争があるときには、「人に勝つこと」とは、「自分を鍛えて自分に勝つことである」と思ってきた。自分を鍛えなくて人に勝てるはずがないし、自分を鍛えるには怠け者だから競争が嫌いだったのかもしれない。自分の思うようにこの世の中が動くはずがない。 しかし/だから? 自分の思いや感情で人を動かす者が秀でた人だと思われている。
この地球は誰のものでもない。生きてきた環境や常識によって、自分の住んでいる土地は自分の国であり、自分のものだと思っているに過ぎない。この地球はあなたが作ったものではない。人類はこの地球を自分の所有のように思っているが、自然災害からは逃げるしかない。仮想敵国を作って軍にお金を使うよりも、その軍を自然災害に対する緊急救助隊にして、世界の人々が助け合うべきだ。難民を拒否する権利は人類にはない。こんな簡単なことさえできない人類は、ヒトというより動物の段階にまだある。
人類は集団をつくり、集団は組織や国を作ってきた。国も闘争に勝ち残った者の王制独裁から、一部の代表で国のあり方を決める議会制へ、議会制も特権階級により構成されるものから一般国民の参加へと移行しつつある。しかし、国によって時代によって一党独裁から、今の日本のように独裁に近い議会を生んでいるが、選挙制度と国民の民度【民主主義,(民主主義の原則)の理解の程度】によって選出される議員の民度も違う。今の日本の国会議員にはヤクザの親分の様な言動をする議員がいるが、どうしてこんな人を国民は選ぶのか。議会や議員は自分の利益のために働きさえすれば良く、政治には関心がない人が多いのかも知れない。しかし、利己主義の動物の殻を脱皮できない人間が、人間も動物だと開き直れば進歩はそこまでだ。
社会には強い人も弱い人も、尊重し合って生きていけるルールが必要だ。ルールなしで競争するのは暴力であり、国がルールを無視すると戦争になる。人類の進歩とは、人も国も他者を大切にして生きるルール作りが常識となる時代に向かって進み歩むことである。
明治維新は日本の夜明けとされ、NHKの日曜日の大河ドラマでよく取り上げられる。しかし、開国した日本は何故、日清戦争や日露戦争のように大陸と戦争をし、それがアメリカとの太平洋戦争にまで拡大したのだろうか。明治維新の頃、アジアはヨーロッパにより植民地化された時代であり、植民地化はある意味でヨーロッパの常識であった時代と言えよう。
イギリスの植民地(パキスタン、インド、バングラデシュ、ミャンマー、マレーシア)
フランス(カンボジア、ベトナム、ラオス)オランダ(インドネシア)スペイン~米国(フィリピン)
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参考:19世紀末から20世紀初頭の東南アジアの植民地支配
日本の戦争の歴史
③オランダの台頭/江戸幕府、鎖国政策へ
④イギリスとフランスの時代/江戸時代の平和
①ヨーロッパの世界侵略開始以前
「世界進出を本格的に開始する前のヨーロッパは、各地域を支配する王国が存在し、それらの王国はキリスト教を国教(国の宗教)に定めて、ローマ法王庁という巨大なキリスト教団の影響下で国家を運営していた。・・・1400年代後半になってくると、オスマン帝国というイスラム教勢力が拡大し、キリスト教徒であるヨーロッパ人は陸路をあきらめ、アジアの品々を求めるために、代わって海路を利用することになる。これが、以後500年間に渡り世界中を席巻したヨーロッパの植民地争いの動機だった。」
「信じる者こそ救われる」という1神教は、無宗教の私からすれば「もっと自己を清め高める宗教」のはずだと思うが、聖地、エルサレムを同じくするキリスト教、イスラム教、ユダヤ教は自己中心的で他者を認めない近親憎悪の宗教のように見える。「他者を尊重する」のは多神教と言えるかもしれないが、信じるものが神である宗教には、危うさを感じる。「他者を尊重する」ことを深めるのは哲学であろう。
②スペイン・ポルトガルの大航海時代/信長 秀吉 家康
1400年代末期から1600年代中頃までは一般に『大航海時代』と呼ばれ、イベリア半島のスペインとポルトガルの時代だった。この二国はイスラム勢力を追いだした後に、海路でアジアに行く便利な立地と海外からの利益を求め、香辛料の生産地で有名だったインドを目指した。
スペインは「古代のプトレマイオスの世界地図と地球球体説に影響を受けて、西廻り航路で東洋に到達出来ることを提唱したトスカネリの世界地図,(2)に教えられたイタリア生まれのコロンブスがスペインのイザベル女王に提案した。女王は国土回復運動/レコンキスタでイスラム勢力の最後の拠点グラナダを陥落させた1492年にその提案を受け入れ、コロンブスは大西洋を西へ向かった。それがアメリカ新大陸の発見につながるのだが、コロンブスはインドの海岸に到着したと死ぬまで思っていたという。参考:西インド諸島がアメリカにあるのはコロンブスの勘違いが由来
一方、ポルトガルは「権力基盤を強化拡大するためカトリック教会・修道院を保護し、1249年にイスラム勢力を完全に追い出したが、15世紀になるとアフリカ西岸進出を開始、1482年にはアフリカ西岸のギニア湾に面したエルミナ(現在のガーナ)に要塞を建設し、金・黒人奴隷・胡椒・象牙などの獲得拠点とした。このころから明確にアフリカ南端への到達と、インド洋への進出をめざすようになり、1488年には喜望峰に到達した。」
そしてコロンブスの西インド諸島の発見を契機にローマ法王庁も関与して、スペインとポルトガル両国間で成立した支配領域を最終的(1494年)に西経46度37分を分界線とし、そこから東で新たに発見された地はポルトガルに、西の地はスペインに権利が与えられることにしたトルデシリャス条約を結び、後にスペインがアメリカ大陸の大部分、ポルトガルがブラジルを領有する根拠となった。まさに大航海時代のスペインとポルトガルは、ローマ法王庁も関与して「トルデシーリャス条約」で地球まっ二つの山分けしたことになる。
日本の統一がなされつつあった戦国時代の終わり1549年に、ポルトガル人宣教師フランシスコ・ザビエルが、織田信長に接近することで日本にキリスト教を布教しようとし、1603年来日したルイス・ソテロが徳川家康や秀忠に謁見、日本での布教に従事した背景には、本人の人格は別にして、ローマ法王庁とスペイン・ポルトガルの「宗教と欲望と植民地支配」の思惑があった。
参考:豊臣秀吉の朝鮮出兵の真実を、日本人として知って置くべき!
学校では教えてくれない豊臣秀吉が朝鮮に出兵した真実
学校よりわかる!ザビエルが日本に来た理由と隠れキリシタンの歴史
支倉常長・慶長遺欧使節の足跡を辿って
歴史から日本を学ぶ~400年後の真実:支倉常長とガリレオ
少し長くなった。⑤アヘン戦争/黒船が来航、明治維新へからは次回に回させていただく。
初稿 2018.6.26 修正 2018.7.2