自然とデザイン

自然と人との関係なくして生命なく、人と人との関係なくして幸福もない。この自然と人為の関係をデザインとして考えたい。

「自然と共同体を大切にし、質素に暮らすアーミッシュの人々」と「放牧による里山管理」を考える

2016-08-24 11:52:52 | 自然と人為

 物質的に世界で最も豊かな国アメリカに、中世の貴族の屋敷のような立派な家で、質素を最善として個性が目立たないようにし、生きる意味を教える宗教と家族や生きる仲間である集団(コミュニティ)を大切に守りながら、宗教の異なる地域住民も尊重して壁をつくらず、自分たちの信じる宗教の布教もしないで、自然を大切にして自動車や電気等の便利な文明を拒否して、自給自足の生活をしているアーミッシュ(2)の人々がいる。エネルギー浪費で地球温暖化をもたらし、豊かな資源に恵まれているにもかかわらず、農業とコミュニティが崩壊している日本の将来を考える上で、物質より心を大切にする彼らは生きていくことで何が大切かを教えてくれる貴重な存在だと思う。
 参考: 私の訪問した”農の哲学者”アーミッシュの村
      (地域的に閉鎖な集落ではないので「アーミッシュの社会」と表現すべきだが、
       5戸の農家が農作業を共同でしていることから「アーミッシュの村」と表現した。)
      電気も車も持たない宗教「アーミッシュ」が注目を集める理由
      アーミッシュ 近代文明を捨て、アメリカで今も移民当時の生活様式を貫く人々


 物質的豊かさと自由に満たされている我々にとって、お金さえあれば何かを求めれば何かが束縛されると実感することは少ないであろう。アーミッシュの社会では質素な生活を求めることから、我々が求める個性のある服装は嫌われ、写真に撮られることを目立つ行為として良しとしない。個性を大切にし、自由を求める我々の生活からは窮屈に思うことも多かろうが、彼らは個人よりも共同体の幸福を第一に考えているので、そのことを束縛とは考えていない。
 彼らの原点は産業革命前のヨーロッパで宗教的迫害からイギリスの植民地であったアメリカに移民 (2)したが、その後の高度成長するアメリカ経済を見て、物質的に豊かな便利な生活よりも「自然と共存し、家族と共同体を大切にし、質素に暮らす精神的に豊かな生活」を優先したことにある。
 参考: アーミッシュの文化  人命と尊厳  本当って何だろう (とみ新蔵 ブログ)
      アーミッシュの暮らし
      近代文明を捨てて、アメリカで生活する人々「アーミッシュ」を知ってる?


 「自然と共存し、家族とコミュニティ(共同体)を大切にし、幸福に暮らす」ことは人類の共通の目的のはずだが、競争原理を人類の進歩の源と考える現代社会はこれを見失っている。このブログ「自然とデザイン」では、人類の共通の目的に向かって現代社会はどう歩むべきかを宿題としているが、アーミッシュ社会を概観することから、日本社会における「放牧による里山管理」の意義についてもう少し考えて見たい。

 アーミッシュ社会は全てが一つのインデオの社会(動画)と同様に、基本的に競争原理はなく、分かち合いの社会だ。アマゾンに住むメイナク族は自然と一体で暮らしているので『自然』と言う言葉はない。皆が一緒で元気であれば良いので『幸福』と言う言葉もない。一方、『個人』という考えは都市と職業が生まれ分業が始まった12世紀に、キリスト教会における告白から生まれたとされる。キリスト教における世界は自然とは無縁で、人々は教会で告白しながら個人に目覚めて神の住む天国に行く道を模索した。当時は、「学問をすべて修めた後に職人の道で完璧を求めて励んでいるのが本当の学者だ」とフーゴー (2)は言っている。
 個人を生んだ西欧は合理主義の道で個人の幸福を求めたが、アーミッシュの人達は宗教的迫害が原因なのか自然を愛して自給自足の生活をし、個人よりも家族や共同体の幸福を求めた。
 参考: 書評:「教養」とは何か、阿部謹也、講談社現代新書、1997
      講演「日本社会の二元的構造」阿部 謹也


 アーミッシュの人々が大切に守ろうとしている「自然」と「家族や共同体(コミュニティ)」と「質素な宗教的暮らし」と文明の与える「便利な生活」との関係はどうあるべきかは、文明の進化と共に宗教的なコミュニティ単位で常に検討されて微調整されて来たので、コミュニティにより生活に文明を取り入れるルールに若干の違いがあるようだ。宗教的な共同体ではあるが、権威によって人間の尊厳を守ることはしないし、組織は権威を持つので、彼らは教会を持たない。日曜日の礼拝は、コミュニティ毎に各家庭の広い部屋(納屋を含む)で行うことが、彼らが共同で大きな家を建てる理由の一つかも知れない。

 人間らしく生きていくには中学校程度までの教育は大切だが、競争を生む高等教育は必要ないとして公的学校にも行かせない。アーミッシュ社会で若い未婚の娘さんを教師とする学校を経営して、8年間の教育をしている。彼らはアナバプティスト(再洗礼派)でアーミッシュの学校を卒業したら文明社会の生活を経験したのちに、大人になる前に洗礼を受けるかどうか、アーミッシュとしてコミュニテイに残るかどうかの選択を迫られる。競争を拒否しているので高等教育を必要とする文明社会では生きづらいということもあろうが、アーミッシュの生活が居心地が良いのだろう。洗礼を受けて村に残る若者が多い。彼らは避妊をしないので兄弟姉妹は多いし、自給自足の生活で質素にコミュニティと協力して暮らしていけるので、ヨーロッパでは消滅したアーミッシュの人口は北米では増えている。彼らの宗教的生活は、現代の経済社会に飲み込まれることはなく自立し続けている。

 アーミッシュのアメリカへの本格的移民が始まった18世紀は、イギリスの産業革命~資本主義体制の確立~アメリカの独立フランス革命,(フランス人権宣言)と大きな時代の転換期であった。
 フランス革命に大きな精神的影響を与えたとされるジャン=ジャック・ルソーは、人間の自然状態は「自由・平等」だったが、分業と競争で生きる社会状態に移行したことで、お互いの能力が比較され、その結果、「支配と服従」といった「不自由かつ不平等」の誤った歴史が誕生したと『社会契約論』で主張した。そのルソーの教育論または人間論として有名な『エミール』でも自然の大切さを強調している。
 100分de名著 ルソー『エミール』(解説)
  第1回 自然は教育の原点である(録画)
  第2回 「好奇心」と「有用性」が人を育てる(録画)
  第3回 「あわれみ」を育て社会の基盤に!(録画)
  第4回 理想社会のプログラム(録画)

 アーミッシュは300年前の自然と家族とコミュニティを大切にした自給自足の生活を続けている。そのために彼らは公的教育を拒否しているが、彼らは宗教的な絶対平和主義者でもあり、アメリカでは宗教的意味での良心的兵役拒否が認められている。日本では幸いなことに徴兵制がないので兵役を拒否する必要はないが、小学校の義務教育はもっと自然を教育の原点とし、「放牧による里山管理」を農家に任せるのではなく行政的に教育にも取り上げることから、地方再生を始めるべきではないか。もともと持っていた日本の文化を大切にしたい。

 アメリカは論理が日常生活で尊ばれ、快適に過ごせる人工的環境を論理で作り出し、自己主張の為に論理を使うことを恥としない。「論理」は他者との対話に必要であるが、他者を尊重するか否かによって、論理の組み立て方は異なってくる。論理は何々ならば何々であるという仮説のもとに組み立てられる(「論理的推論」)。アーミッシュは他者の存在によって自分も存在すると考えているので、他者を尊重することから論理は組み立てられる。科学では仮説は実験や観察等により実証されて真理として受け入れられるが、日常生活の仮説は一般には本人が意識してもしなくても、競争社会では他者のためではなく権力や自己弁護のためにつくられるのが普通だ。

 藤原正彦 『国家の品格』 | 新潮社は、合理主義や人間中心主義は人間を幸福にしないと考えている。
 「ここ四世紀、五世紀の世界は、合理主義とか人間中心主義とかいう、究極的には人間を幸福にしない考え方に支配されてきた。そういう病に対する答えというものを、日本は豊富に持っていると思うんです。本当は「日本の逆襲」と言いたい。日露戦争に次ぐ、今度は精神面での欧米への逆襲である、と。」
 同上:読書感想文(2013年1月31日 竹内みちまろには、次のように解説されている。
 「イギリスから帰国後、著者の中で論理の地位が低下し、『情緒』や『形』というものの地位が向上します。『情緒』とは、喜怒哀楽のような感情ではなく、『懐かしさとかもののあわれといった、教育によって培われるもの』で、『形』とは、『主に、武士道精神からくる行動基準』といいます。アメリカ化が浸透した日本人は、財力にまかせた法律違反すれすれのメディア買収を、卑怯とも、下品とも思わなくなりました。
 進行中のグローバル化とは、世界を野卑な論理で均一化することであり、日本は『情緒』と『形』を取り戻し、グローバル化に抵抗し、世界の中で『孤高の日本』を貫かねばならないと主張します。」

 中学校までの教育は論理ではなく藤原正彦氏の指摘する『情緒』と『形』を重視すれば、アーミッシュの教育に近づくのではなかろうか。そして子供達だけで自然の中で遊ぶ世界を取り戻す必要がある。また、スポーツにおける競争原理は、自己を肉体的に鍛え精神的に自己に克つことであるように、『形』も論理ではなく身体で覚えるものだ。しかも現代の武士道は国民に仕えるものであり、政治家を含む公務員は凛として国民に仕えなければならない。アーミッシュにはキリスト教を主体にした頑固な文化があり、日本には仏教を主体にした曖昧な文化がある。日本の文化を大切にすることで日本なりの幸福を見つけることが出来よう。
 いずれにしても日本のコミュニティの崩壊を防ぐためには、お金と経済を重視した「地方創生」ではなく、『情緒』と『形』を重視した地方再生こそが重要であり、そのための「放牧による里山管理」を行政も考えて欲しい。そのことを柱に取り組めば畜産としてのシステム化も容易に進み、地方に活気を取り戻すことにつながろう。

初稿 2016.8.24 更新 2016.8.28

私のブックマーク

2016-08-19 15:03:32 | 自然と人為
 パソコンでは立ち上げ画面の左側に「ブックマーク」が表示されるが、スマホ等では表示されない。そこで「私のブックマーク」として、毎回ブログの頭に「ブログ構成と目次」とともに表示することにする。
 これは私に新しい世界や考え方を教えてくれ、今も参考にしているブログや動画の紹介である。ことに「日々坦々」はいろいろなブログの新しく投稿されたものを紹介しているので、毎日参考にしている。

世界最古のショーヴェ洞窟壁
「すべてが一つの世界」森の哲学者メイナク族(動画)
命の輝き伝える人々
熱帯森林保護団体(RFJ)
RFJひろしま
カムナ葦船プロジェクト
テイラー博士の”復活した脳”(動画)
自閉症の僕が跳びはねる理由
ハフィントンポスト
リベラル21
日々坦々
IWJ 岩上安身
LITERA
マスコミに載らない海外記事
田中宇の国際ニュース解説
真実を探すブログ
どこへ行く、日本。
「こころの時代」へようこそ
「ジャーナリスト同盟」通信
みんな楽しくHappyがいい
「桜井ジャーナル」
田中龍作ジャーナル
wakaben6888のブログ
日本がアブナイ!
ブログ「竹林乃方丈庵」
日本を守るのに右も左もない
エレクトロニック・ジャーナル
日本版(ハフィントンポスト):ハフポスト
孫崎享チャンネル~孫崎享のつぶやき
「国連人権理事会」関係の情報
真田清秋のブログ
思索の日記
知の快楽 哲学の森に遊ぶ
ポリロゴス(複数の論理)
世界史ノート
経済思想の歴史
国立国会図書館
生命科学の雑記帳
遺伝学電子博物館(国立遺伝学研究所)
ユキのブログ(ユキの園芸情報)

初稿 2016.8.19 更新 2017.2.9 記念版 2020.5.8
(画面左に表示されているが操作を忘れたので残すことにした。)

ニッポンの里山 ふるさとの絶景に出会う旅

2016-08-15 14:38:36 | 自然と人為

 「人と自然が共に暮らす里山。命響きあう美しい風景に出会う旅。」 そんな素晴らしい番組「ニッポンの里山 ふるさとの絶景に出会う旅」から、ここでは牛と馬が関係する里山について、映像から感じることを簡単に紹介したい。研究者として現場で調査できればもっと的確な説明ができると思うが、私は放牧の研究者ではないし現場に行ける体力もないので、「人と自然が共に暮らす里山」で、人が自然とどうかかわっているのか私なりの見方を録画を観ながら紹介したい。

『ニッポンの里山 ふるさとの絶景に出会う旅』 
 1.牛が作った森の花園 岩手県岩泉町 (録画)
 東北の日本短角種が春から秋にかけて山に放牧される「夏山冬里方式」は良く知られている。ここでは岩手県岩泉町の放牧が紹介されているが、自然の状態でも面積あたり放牧頭数が適当であれば、牛は森の花園を作ってくれる。1ヘクタール当たり1頭というのが研究者が考える基準であるが、草がある時だけの放牧なので草の状態に合わせて数頭の放牧ができると思う。放牧地に合った放牧頭数を繰り返すことによって自然に森の花園ができる。

 2.命あふれる草と森の牧場 北海道旭川市 (録画)
 肉用雌牛は人里離れた奥山でも牛を運搬すれば放牧できるが、酪農は毎日の搾乳があるので農家が住む近くの里山に放牧する。ここで「命あふれる草と森の牧場」と紹介されているが、まさに命はあふれているが、かつての美しい牛が拓いた斉藤晶牧場ではない。2012年の放送で84歳の斉藤晶さんが、「若い衆が機械で刈ったら、あっという間に、こんなもの刈れるのさ。」と撮影に協力して掃除刈りをしている。確かに若い衆が牛乳の処理販売に力を入れて、放牧管理がおかしくなっていると思う。自然の放牧で「森の花園」が出来るのだから、放牧管理に人の手が入ると「森の庭園」になるはずだ。

 戦後、開拓団の一員として里山に入植された斉藤晶さんは畑作では野生動物に荒らされて、どう生きていけば良いものかと途方に暮れていた。「小鳥や昆虫は苦労もなく悠々と暮らしているではないか。ならば、人間も虫と同じ姿勢で生きていけばいいではないか。」と自然に学びながら酪農をやることに発想を転換し、小岩の多い傾斜地に牛を放牧し、牛が山に入って行けるように掃除刈りをすることで、美しい牧場ができた。福井の山崎一之・洋子さんご夫妻は、「本当に自分が欲しているものが何なのかを探すために、誰 もいない、誰も知らないところで、何もないところから欲しいことをみつけていくこと」 にして、その一つの仕事として農業を始めたという。洋子さんは「銀行だって きれいに見えるけど、あんなにバイ菌だらけのお札に触れるのは私なら嫌だ」と言う。

 斉藤晶牧場の草地は美しいが、畜舎は手作りできたない。でも、そんな牧場に牛乳アレルギーの息子さんと一緒にお母さんは絞りたての牛乳を買いに来られる。放牧は牛の自然の生きる姿であり、放牧により育てた牛は第一胃(ルーメン)が発達し、ルーメン内の草を利用するバクテリアも増加する。斉藤晶牧場の子牛は親と放して第2牧場に放りっぱなしで育成しているというからルーメンの発達も良いのだろう。体型は足は短くがっちりして丈夫だ。斉藤牧場の牛のルーメン液の「セルロース分解菌は一般の牛の170倍」だと言う。牛舎は見た目には古くて汚いけれど、この牧場には有害菌ではなく有効菌が溢れている。

 私が60歳で斉藤晶さんは75歳だった頃、定年後は斉藤晶さんに弟子入りして、牛の放牧による庭園造りを学びたいと思っていた。その頃は牧場に行く度に小岩ゴロゴロの牧場が庭石のように美しくなっていた。谷間の掃除刈りの場所を増やして牛が入りやすくなる場所が増えたのだろう。斉藤晶さんの弟さんは写真家で美しい牧場の写真を多く残されているので、お二人とも儲かる牧場ではなく、美しい牧場に熱中されたのだろう。しかし、若い衆が酪農の常識とされる経営改善の為に牛乳の処理販売を始められてから、牛がおかしくなった。まず、牛乳販売の為に牛舎を新築された。これが50頭牛舎であったために草地と放牧頭数のギャップが生じた。それと子牛の育成も綺麗になった第1牧場に移された。このことで草地は「命あふれる牧場」に戻ってしまったと私は思う。何を目指して農業をするかで状況は一変する。選択的規模拡大をめざして農業が衰退したことと重なって見えてくる。それは時代の進歩で仕方がないことと言えるのだろうか。農業や地域のあり方、ひいては考え方の違いだと私は思う。

 3.花咲く島の放牧地 島根県西ノ島町 (録画)
 隠岐の牧畑は、1970年頃までおこなわれていた作物の作付けと牛馬の放牧とを交互に輪転する耕地のことで、境の石垣が今も残っている。日本の狭い土地の有効利用で、動力源である牛馬の飼育までしていた知恵は素晴らしい。なお、馬は盲腸にバクテリアがいて草を利用するが、牛の胃ほどの利用はできないので草だけでは生きていけない。馬は短い草を移動しながら食べ、掃除刈り(島では芝刈り機と呼ぶそうだ)のように見える。牛とヒツジを放牧するとヒツジは短い草を食べるので、草地はビロードのようにきれいになるのが思い出される。

 4.牛と虫たちが育むノシバの草原 島根県太田市 (録画)
 牧草には寒地型と暖地型があり、北海道は播種により牧草が育つ。ノシバは植え付けで増やすが、島根県三瓶山には日本古来のノシバの半自然草原が残っている。中四国の放牧にはノシバ草地 (2)が適しているので、里山の放牧地に増えていくと思う。

 5.海を育む森の湧き水 熊本県水俣市 (録画)
 「森は海の恋人」は有名な言葉だが、公害で有名な水俣湾が森の湧き水で見事に澄んだ海と海藻の森が蘇っている。里山は人を介して里海につながり、人は子供の頃より自然と共に暮らす。その当たり前の生活を公害の水俣のように取り戻す必要があろう。
 参考: 特集 ニッポンの里山 絶景津々浦々 水めぐる命の輝き

 6.馬が働く森 岩手県遠野市 (録画)
 全てが機械化されるのが進歩ではない。森から馬が木材を運び出す「馬搬」が遠野市に残っている。今のアメリカのアーミッシュ社会では馬は重要な動力源だ。科学の発達と人類の成長は違うことを、我々は何時になったら気づいて、生活の中に自然を大切にする時代が戻って来るのだろうか。

参考: 自然とデザイン -自然と人、人と人をつなぐ新しい時代の共創-
     牛が拓く未来 ― 牛の放牧で自然と人、人と人を結ぶ


初稿 2016.8.15 更新 2018.4.10:私のOneDriveの動画が攻撃されコピーできなくなった。現在新機種に更新中。





アメリカの肉牛産業と日本の肉牛生産

2016-08-12 16:20:36 | 自然と人為

 アメリカは肉牛生産の世界一の国だと教えられ、10万頭規模で肥育しているフィードロットを見学したことがある。印象に残っているのはカーボーイが馬に乗って牛を見回り、牛の少しばかりの変調を見出して処置している姿と、寡占化が進む食肉パッカー (牛の総飼養頭数)月報「畜産の情報」(2011年3月)によって支配される大規模なアメリカの肉牛産業を支えているのはメキシコや東南アジアからの移民労働者であったことである。アメリカの肉牛産業を支えているのが移民の人達だということに、日本の肉牛生産は家族経営により支えられていると考えていた私には「世界一」と言われることへの違和感があった。

 アメリカの肉牛産業は大規模なフィードロットとパッカーで語られることが多いが、広大な土地を放牧管理する繁殖経営を基盤にして成立し、農家は「我々が畜産を行うのは、保有している農地から得られる利益を最大にするためには何が一番いいかを試行錯誤した結果である」という言葉を好むそうだ。なかでも牛だけではなく鳥類や昆虫、微生物を含む生物,水,ミネラル,エネルギー などの資源を、生態系や物質循環を考慮しながら、全体論的(ホリスティック)に管理し、今より良い環境を次世代に引き次ぐことを目的としているホリスティック管理が普及しているの知ったことは大いに勉強になった。

1.アメリカにおける牛飼養頭数の推移
 1826-2016年までのアメリカの牛総飼養頭数は1975年にピークの1億3,200万頭になるまで8年から12年の周期的な増減を繰り返しながら増加し、その後減少傾向で推移している。ことに戦後は肉用繁殖牛が急増したのに対し、乳牛は1頭当たり乳量を増加させながら頭数は減少している。肉用繁殖牛の飼養は土地資源を活用した家族経営が主体であるが、酪農は1頭当たり乳量を増加させ効率を求める企業的経営が主力になってきた。


USDA-NASS 04/29/2016


北米における肉用牛繁殖経営の現状と課題(月報「畜産の情報」2009年2月)

 クリックすると拡大します。 
月報「畜産の情報」2016年3月


2.日本の肉牛生産

 日本では里山の土地資源は共有林として管理されてきたが、牛の放牧利用による資源管理の歴史がなく考え方も育たなかった。農耕用に使用されてきた和牛は農作業の機械化により役割を終えたが、霜降り肉という神話の世界に生き残った。一方、酪農の副産物としての肉利用は輸入肉との価格競争から、乳牛の更新に必要ない部分に和牛を交配したF1が肉質の良い牛肉生産として普及定着している。F1は酪農から供給され、子牛の時から人工哺乳により育てられるので、日本の酪農も肉牛生産も規模拡大によるコストダウンを目的とした企業的経営を常識としてきた。

 しかし、「世界に誇れる日本の美しい文化」とされた里山は、農家の高齢化と農業の衰退により荒れ、今ではイノシシなどの野生動物の棲家となり、農作物の被害対策が必要とされている。アメリカでは砂漠隣接地帯を緑化するために牛が放牧されているが、日本では放置すれば山に戻る資源豊かな里山を管理するために牛の放牧が必要になってきた。戦後、里山に開拓に入った人々が稲作や畑作ではなく酪農で生き残ったように、資源豊かな里山を管理するには牛の放牧が必要なことを認識し、日本の肉牛生産と酪農の原点として、生産性の追及ではなく資源活用型の畜産をめざす時代になっている。

 北海道の斉藤晶さんが戦後の開拓団の一員として里山に入り、最も若いから最も生産性が低いと思われた土地を与えられ、日本で最も美しい牧場を牛が拓いてくれた。何もないけどそこに宝の資源があることを牛が教えてくれた。生産コストや技術ではなく、牛も人も生きる資源が里山にあることを教えてくれた斉藤晶牧場の業績を現代の畜産は評価できず、未だに全国に普及していない。
 日本では稲作文化を大切にする一方で、畜産界はアメリカの企業的畜産を常識としてきた。里山資源を牛の放牧で活用することは、高度経済成長を経た日本社会の思考停止によって見えなくなっているが、山口県防府市の「ふるさと牧場」の山本喜行さんは、「民の公的牧場をめざして、それは混牧林経営で」を、すでに発表されている。
 牛は資源を循環し、人をつなぐ。私が育ち今も住む近くの大谷山の里山で、雑草対策の草刈り隊が里山の管理に牛の放牧を始めて5年になるが、昨年、「シルバー世代が作った牧場」(録画)としてテレビで紹介された。平均年齢74歳だから、子供の頃遊んだ里山のことはよく知っている世代だ。このような世代の経験を次の世代に残し、里山資源を牛の放牧で管理することが常識になる日を夢見ている。

 かつて、このブログで「システムからデザインへ」と論じたことがある。既存のシステムから「自然とデザイン」を考えることがこのブログの目的であった。夢を実現するためには、牛の放牧で管理した里山を遊びと学びの場とする公園化を始め、里山のあらゆる資源を活用するためのデザインから具体的なシステム化の動きが必要である。また、和牛の子牛生産は小規模農家で実施されてきたが、高齢化の進行とともに市場出荷頭数が減少し、将来は大型肥育業者の市場への来場が減少し、子牛価格の低下と市場開設が困難になることが心配される。今や「システムからデザインへ」の次に、「デザインから新しいシステムへ」を考えねばならない時期に来ている。里山資源の管理のシステム化だけでなく、子牛市場が成立しないなら、酪農でのF1生産とF1子牛供給システムを精液供給を含めてシステム化し、さらに里山で放牧されたF1雌牛を短期肥育して牛肉を販売するまでのシステムが必要だ。それには現場の事業家の方々の参加が必要で、「牛の放牧による里山管理」を実践する会の立ち上げを提案してきたが、もうじっと待ってはおれない。そろそろ動き始めたい。

初稿 2016.8.12


アベノミクス政治から国民のための政治経済へ

2016-08-10 17:29:00 | 自然と人為

 「どれだけ真面目に働いても暮らしがよくならない」という日本経済の課題を克服するため、安倍政権はアベノミクス「3本の矢」、(第1の矢)市場のお金を増やしてデフレ脱却!、(第2の矢)政府支出でスタートダッシュ!!、(第3矢)規制緩和でビジネスを自由に!!! で持続的な経済成長(富の拡大)を目指している。アベノミクスはトリクルダウンにより、富が富裕層や大企業から庶民に滴り落ちると言うが、庶民の富の底上げをしなければ真面目に働いても暮らしは良くならない。
 この国民の真の幸福を誠実に考えない経済政策と仮想敵国に対する抑止力を強調する平和安全法制を閣議決定した安倍政治をアベノミクス政治と呼ぶことにする。

 安倍政治は経済政策(アベノミクス)により格差を拡大させて実質賃金 (2)を低下させるとともに、国民生活の原点である農業を選択的規模拡大から、さらに今では輸出力のある産業として生き残ることしか考慮しないため、TPPにより輸出産業を重視して食糧自給による国民生活の安定を無視し、農業と地域コミュニティを破壊し続けている。
 また、戦争は政治と軍需産業によりつくられる (2)。わが国でも戦争抑止のためと言う口実で平和安全法制により軍事力を増強する一方で、福祉予算を削減し、大切な中国との関係の緊張を高めて貿易や交流の積極的推進に支障をきたし、沖縄を仮想戦時前線基地として充実させて基地撤去という住民の願いを踏みにじる一方で、沖縄基地があることで北方4島の返還にも支障をきたしている。

 アベノミクス政治とは、このように国民生活を大切にしないでアメリカに精神的にも政治的にも従属する先の見えない経済政策、軍事政策、原子力政策を続け、関東で心配されている大地震に対する対策より熱射病が心配な真夏に開催予定のオリンピックを重視し、国民の幸福のための人口・福祉・教育・環境政策等を考えず、自分たちの利益と妄想ばかり追求している安倍政治のことを言う。

 持続的な経済成長(富の拡大)は国際貿易によってのみ得られるものではない。むしろ国際貿易を重視することで国内経済は停滞する。時代は政治により一つの方向に誘導され、国民は思考停止になっていく。高度成長期が始まる時、我々の町の一本の主要道路が舗装され、子供たちは珍しがり集まってローラースケートで遊んだ。そのうち町のバス停にテレビが設置され、多くの人が集まり、雪が降っているような土俵の画面で私は吉葉山を応援した。世界一幸福な国と言われるブータンに電線が張られ、テレビの購入が国民の楽しみになっていると聞くが、我々も子供の頃は貧しくとも幸福であった。我々は戦後の貧しい時代に育ち、古き良き時代を知っているが、今の若者の環境は様変わりしている。それが世代間の考え方のギャップを生むが、今の政治は自然を大切にすることを忘れ、人工的な環境で幸福が生まれると思っているようで、これも時代が生んだ思考停止の世界と言えよう。

 思考停止のアベノミクス政治から、真面目に働いたら暮らしが良くなる国民のための政治経済への転換を考える必要がある。考えるべきことは多いが私の経験から、戦後のアメリカの余剰農産物を利用し、アメリカに追いつき追い越せと規模拡大を続けてきた思考停止の畜産界の反省を中心に、日本の農業と地域コミュニティを重視する政治経済について考えることを次回から始めることにする。

初稿 2016.8.10