自然とデザイン

自然と人との関係なくして生命なく、人と人との関係なくして幸福もない。この自然と人為の関係をデザインとして考えたい。

歴史から日本を学ぶ~400年後の真実:支倉常長とガリレオ

2018-02-02 21:40:05 | 自然と人為

 経済、政治、個人の関係をもう一度、歴史的に学び直す為に、ヨーロッパの市民社会が成立した『啓蒙の世紀』と呼ばれる18世紀ヨーロッパから資料を集め始めたが、日本と欧米との関係をもっと実感を持って学ぶには、最近NHKで放映された「400年後の真実 慶長遣欧使節の謎に迫る」が良いと思い、「400年後の真実」で検索したら、「ガリレオ裁判 --- 400年後の真実」(解説)に出会い、視界をさらに拡げることが出来た。
 前者は伊達政宗が貿易を求めてメキシコ、スペイン、ローマに派遣した支倉常長の慶長遣欧使節団、後者は「それでも地球は動く」で有名なガリレオの宗教裁判。いずれも同時期にヨーロッパで起きた歴史的事実だが、知識が時間的にも地理的にも、さらに今の時代まで立体的につながることは、人それぞれの関心により同じ立体像は作られないにしても、学ぶことは楽しいものだ。

左図クリックで拡大 
     
常長は前列左、ソテロは前列右。 後列4名の日本人は、常長とともにローマ公民権を与えられた、山城の滝野加兵衛、摂津の商人・伊丹宗味、尾張の野間半兵衛、奥州の小寺外記だと考えられる。
慶長遣欧使節(32-89分)(45-53分)【動画】 伊丹宋味と4人の日本人

 支倉常長の慶長遣欧使節団のメンバーの動向については、鎖国以来明らかにされて来なかったが、キリスト教徒の伊丹宗味から家康がフィリッピン(スペインの植民地)等の情報を入れていたことや、伊丹宗味の招きにより来日していた宣教師ペドロ・バウティスタが1597年、秀吉により日本で最初に長崎・西坂の丘で殉教させられた日本二十六聖人の一人であったこと等をこの番組で明らかにしている。
 さらに使節団の一部はスペインに留まり、コリア・デル・リオにはその子孫と思われる700人を超えるハポン名の付く人々が暮らし、日本に帰国後長崎の山村で暮らした松尾大源の子孫・高見三郎氏が長崎大司教(九州・沖縄地区)を務めていること等、現在につながる歴史まで明らかにしてくれている。

 1615年に慶長遣欧使節の支倉常長らがローマ教皇パウロ5世に謁見した翌年に、ローマ教皇庁によるガリレオの地動説を異端とする宗教裁判(1616年、1636年)があったが、ヨーロッパは最後の宗教戦争「三十年戦争(1618~1648)」もあり、中世から近代への過渡期にあった。イタリアはローマ帝国やルネサンスで良く知られているが、イタリア王国として統一されたのは1861年のことである。その翌年に、ローマ教皇として最も長い32年も在位したピウス9世 は、イタリア統一運動の中で古代以来のローマ教皇領の存続が困難(ローマ教皇領占領(1870年))となったこともあり、宗教の強さを訴える意味もあったのか、日本では幕末であった1862年に「日本二十六聖人」を列聖している。これを記念して「パリ外国宣教会フューレ神父は、1863年に長崎の外国人居留地に隣接した現在地を入手」し、1864年末に国宝 大浦天主堂が俊工している。
 参考: サン・フェリペ号事件
      教皇ピオ9世の生い立ちと公会議招集までの歩み p.120 日本26殉教者の列聖式
      チヴィタヴェッキアとローマ:400年前の慶長遣欧使節団の軌跡を辿る
      サンタントニオ・ダ・パドヴァ教会(2)


 黒船ペリー来航(1854年)に端を発した開国と薩長派遣の留学生(1865年)は、アメリカと英国が日本の明治維新に大きく関係していることを示している。黒潮大蛇行(動画:3分)で「鳥島」に漂着したと思われるジョン万次郎はアメリカの捕鯨船によって助けられ、アメリカで勉強したのちに1851年に琉球に帰国、それから約2年後(ペリー来航の前年)に土佐へ帰国しているが、後に「直参旗本として重用され翻訳や通訳、造船指揮にと精力的に働き、また藩校の教授にも任命」された。
 1858年、日米修好通商条約を締結しているが、1860年にはその批准書交換のために幕府が派遣した海外使節団の一人として、咸臨丸に艦長の勝海舟と同行している。

 尊王攘夷の明治維新は、大政奉還(1867年)に始まり慶応4 (1868) 年の五箇条の御誓文で形式的に明治に移行したと思うが、改元の詔書が出されたのは明治天皇の即位(1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日))による改元で、新暦慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定め、明治時代が始まる。それにしても、1858年に日米修好通商条約を締結しているが、八月十八日の政変(1863年)池田屋事件(1864年5月)寺田屋事件近江屋事件(1867年、坂本龍馬暗殺)は何のためだったのだろう。
 
 一方、秀吉や家康の頃は大西洋に面したイベリア半島のポルトガルやスペイン、「江戸時代の日蘭交流オランダと長崎出島との関係」は良く知られているが、これも世界の覇権争いが日本と外国との関係に大きく影響していたことを教えてくれる。
 地中海と大西洋をつなぐジブラルタルは、現在は英国領となているが、1462年 - 1713年にはスペイン領であった。フェリペ2世時代(1556年 - 1598年)はスペイン王国は全盛期であったが、支倉常長の慶長遣欧の頃(1614年~1617年)はフェリペ3世、フェリペ4世16世紀後半から衰退が始まっていた。

 ポルトガルとスペインのイベリア半島は歴史的にも地理的にも面白い地域である。この地域はローマ帝国(地図)の支配下にあったが、その東西分裂(395年)後、ドナウ川越境(375年)から始まるゲルマン人大移動により418年、西ゴート王国(地図)が成立した。一方、アラブのイスラーム国家でカリフを最初に世襲にしたウマイヤ朝(661年-750年)は、シリアのダマスクスを都として西アジアを支配、さらにその版図を中央アジアや北アフリカ、さらにイベリア半島まで勢力を拡大し、711年にキリスト教国の西ゴート王国を滅亡させた。この8世紀に始まるイスラーム支配に対するイベリア半島のキリスト教徒によるレコンキスタ/国土回復運動は、11世紀に東ローマ帝国(ビザンツ帝国)がセルジューク朝との戦いに敗れ、イェルサレムがイスラム王朝に占領されたことによる十字軍運動とともに活発となり、コロンブスが新大陸を発見した1492年、スペイン王国はイスラーム教国ナスル朝の最後の拠点グラナダを陥落させ、イスラーム勢力は北アフリカに後退し、レコンキスタが完成する。
 参考: 10世紀後半のイスラーム帝国
      イスラーム帝国の領域      
      東ローマ帝国・前編後編「世界史の目」


 15世紀から16世紀にかけて展開され17世紀の中頃まで続く、大航海時代は、次の要因で活発化し、近代への扉を明けた。
 1.ヨーロッパにおけるアジアに対する知識の拡大
  13世紀のモンゴルの侵入マルコポーロ
 2.羅針盤・快速帆船・緯度航法など、遠洋航海術の発達
 3.ヨーロッパでの肉食の普及にともなう香辛料の需要の増大
 4.レコンキスタが進行して、キリスト教布教熱が高まっていたこと
 5.オスマン帝国の進出で東方貿易が困難となる。

 ヨーロッパとアフリカの14キロメートルの幅で地中海と大西洋をつないでいるジブラルタル海峡は、7世紀にはアラブ人のウマイヤ朝がアフリカから渡ってきたが、人類誕生前の600万年前にはヨーロッパ大陸とアフリカ大陸のプレートがぶつかり陸となる地中海消滅の時代があったと言う。しかし、530万年前に堤防部分の地盤が下がったことにより、7分で東京ドームを満杯にするナイアガラの滝の40万倍の大西洋の海水を幅10km、高さ1200mから2年間注ぎ込み地中海は復活したと言う。その後は地中海消滅は起きていないが、今も大陸は年間4~8mm接近していて当時の海底は隆起して山となっているので、再び地中海消滅が生じても不思議ではない。地球は生きている。人類同士が戦う馬鹿を早く卒業し、地球災害への備えを世界で協力する時代が早く来ないものか。
 

初稿 2018.2.2 更新 2019.9.4

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1 コメント

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支倉使節団の子孫 (わたなべ)
2018-03-08 14:59:59
支倉使節団のストーリーは、世界でも稀なロマンです。https://www.facebook.com/japontrip/
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