自然とデザイン

自然と人との関係なくして生命なく、人と人との関係なくして幸福もない。この自然と人為の関係をデザインとして考えたい。

エコノミーとエコロジーについて考える(4.生態学の誕生)

2017-04-24 12:42:43 | 自然と人為

 古代ギリシャでオイコス(エコ:家、共同体:ポリス)のノモス:規範という意味でオイコノミアという言葉が生まれエコノミー:経済の語源とされている。しかし、現在の利益を追求する「経済」、ことに「欲望の資本主義」といわれる「経済」の語源には馴染まないので、私は「オイコノミア=家政」を「善を求める共同体の(経済的)規範」と理解していることを強調しておきたい。
 アリストテレスの『政治学 』第一巻、「第十三章 家庭経営に必要な美徳について」では、「家庭の経営においては、命を持たない財産よりも人間の方が重要であり、立派な財産より立派な人間のほうが重要」としているように、当時の家政(経済)では人間を最も大切にしていたと思う。時代が1500~1700年も経過すると、人間は欲望を満足し、孤立しても生きていける世界を求めて、堕落することを進歩だと思うようになるのだろうか。

 「オイコス=エコ」を動植物の住む世界と考えて、ロギア(論じること、論、学)と合わせて「有機体とそれを取り巻く外界との関係についての総合的な学問」としてエコロギー(エコロジー)という言葉を、ヘッケルダーウインの進化論(種の起源,1859年)に啓発されて造語し、1866年に発表した『有機体の一般形態学』で使用している。
 参考: エコノミーとエコロジー:エコロジーとは ― その起源と変遷
      『一般形態学(有機体と一般形態学)』:エコロジーとエコノミー
      科学の歩みところどころ 生態系とは何か
      日本気象学会機関誌「天気」:用語解説 エコロジー
      近代生態学の流れ
      日本での生態学と「エコロジー」をめぐって
      ヘッケルは何を書いたのか—反復説の原像—
      ダーウイン(1859)とメンデル(1865)


 19世紀になるまでは「自然の3界」として「動物界」「植物界」「鉱物界」が考えられており、植物と鉱物が違うように、動物と植物も違う存在だったが、19世紀には顕微鏡を用いた観察から「全ての生物は細胞からできている」というシュライデンとシュワン細胞説が提唱された。このことにより動物学と植物学が統合され生物学というくくりで扱われるようになった。
 ヘッケルは生物学を形態学と生理学に大別し、後者をさらに Arbeitsphysiologie(労働生理学)と生物と生物や生物と環境のBeziehungsphysiologie(関係生理学)に分け、この関係生理学の中に生物分布学と生態学を位置づけた。なお、生物分布学も生態学と同様にヘッケルの造語である。

 動物学者の田隅本生(2)は、ヘッケルの「個体発生は系統発生を繰り返す」という「反復説<」を中心に「一般形態学」の論考をし、その結語に「ヘッケルは古典語の知識を駆使し、この本の中でもDarwinismus、Ontogenie、Phylogenie、Ocologie(生態学)など無数の新語(ほとんどは他の人によっては使われずに終わった)を作りだしたほど、ことばとその概念にこだわる人であった。」と解説している。
 ヘッケル『一般形態学(有機体の一般形態学)』原典の第2巻はダーウイン、ゲーテ、ラマルクの3人に献ぜられているが、インターネットでも公開されているので、「一般形態学」の論考と比較しながら確認して欲しい。

  一方、1891年(明治22年)ドイツに留学した三好学は植物学を生理学、形態学、分類学、生態学の四つに分類し、PHanzenbiologieの訳として生態学という言葉を使っている。また彼は、「明治41年(1908)に『普通植物学上編』を書き、ここでダーウィンによって確立された生態学に言及し、“該体とその周囲との関係を明らかにするにあり,これを生態学(Ecology)という”といい、ここではっきりとecologyの訳として生態学を使っています。」という説明もある。したがってEcologyを「生態学」と翻訳して日本に紹介したのは三好学と言えよう。
 なお、生態系"(cosystem)という語は、1935年にイギリスの生態学者アーサー・タンズリーの論文に初めて現れる。

 19世紀後半の生物学は、ダーウインの『種の起源(1859)』とメンデルの『遺伝の法則(1865)』と後世に大きな影響を残す偉大な研究が生まれた。ヘッケルも進化論に影響されて「生態学」の言葉を残し、「個体発生は系統発生を繰り返す」という「反復説」を提唱した。残念なのはド・フリース、コレンス、チェルマックがそれぞれメンデルの法則の再発見し、「ドイツ植物学会報告」に掲載されたのは1900年のことであった。そして遺伝子の研究はその後も続き、「DNAが遺伝物質であることの実験的証明」は1944年のことである。
 したがって、ダーウインの進化論やヘッケルの反復説が遺伝子レベルで研究されるのはこれからだと思うが、世界観を変える(パラダイム転換する)ような大きな研究テーマを提示することは、実証的な研究を科学として細い路地に迷い込みがちな現代の生物学にも求められているのではなかろうか。
 ここでは興味ある資料をメモして、今後の私の勉強課題としておく。
 参考: ヘッケルと進化の夢(書評)
      ヘッケルのニセの胚はなぜ教科書から消えないか
      20世紀の悪の根源、ダーウィン=ヘッケル進化論
      エルンスト・ヘッケル博士とその業績(1)
      エルンスト・ヘッケル博士とその業績(2)
      精密で詳細な生物画を描きあげたドイツの生物学者「エルンスト・ヘッケル」
      書評:19世紀ドイツ進化論思想家ヘッケルを知る重厚な労作
      ダ-ウィンの思想的影響─「ダーウィン革命」の三段階─
      19世紀はダーウィンの時代―― 生物学的世界観の大革命 ――
      非凡な農民
      『融合』か『手法の導入』か?
      科学革命としての「インテリジェント・デザイン」理論
      人間原理の探求 インテリゼント・デザイン理論の現在
      科学革命の構造 トーマス・S・クーン
      科学革命が起こるとき クーンの「パラダイム論」
      パラダイムと科学革命
      デザインのパラダイムは何だろう
      デザイン・シンキングとは何か
      一から学ぶデザインシンキング 前編: デザインシンキングは思考法なのか


初稿 2017.4.24

エコノミーとエコロジーについて考える(3.「経世済民」と「経済」)

2017-04-15 13:55:08 | 自然と人為

 「経済」という言葉は漢字なので、古代ギリシャに語源を求めると同時に、古代中国の歴史も調べる必要がある。中国で有名な孔子と荘子と古代ギリシャのソクラテス、プラトン、アリストテレスでは、孔子の死後10年にソクラテスが生まれるという若干の時代差はあるが、ほぼ同じ時代を生きた人たちと言えよう。(ここでは孔子、荘子を名前として扱う。)

   孔子 BC552‐BC479 中国の春秋時代の周(魯)資料1資料2資料3映画 孔子
   荘子 BC369 -BC286 中国の戦国時代の宋 資料1資料2資料3(動画)
   ソクラテス BC469頃 - BC399 資料1資料2資料3
   プラトン BC427 - BC347 資料1資料2
   アリストテレス BC384 - BC322 資料1資料2

   周(西周)(BC1134 - BC771) 資料1幽王 (周)
   春秋時代(東周 BC770 - BC403) 地図
   戦国時代(BC403 - BC221) <地図>,地図2
   秦 (BC778 - BC206) 秦朝(BC221 - BC206)地図
   古代ギリシャアルカイック期(BC800-BC480) 地図
   アレクサンドロスの大帝国(2) ヘレニズム
   ローマ帝国 (BC27 - 395東西分裂 - 1453)地図2

 「経世済民」とは、(「世の中を治め、国民の苦しみを救うこと」を、表す四字熟語です。またそうした政治を言うことが、そもそもの意味でした。略して【経済】です。
 【経世】は『荘子:斉物論』に出ています。
 【済民】は『書経:武成』に出ています。
 【経世済民】の略語としての【経済】は『抱朴子(ホウボクシ):東晋の葛洪(カッコウ)の著で道教の書』や『文中子:隋の王通(オウツウ)の著で論語にまねて作った書』に出ていますが、世を経(おさ)め、民を済(すく)うと、同じ意味で使われています。) 括弧内は「経世済民」より引用

 荘子荀子は春秋時代に活躍し、それぞれ「経世」と「経国」、すなわち世や国を治める言葉を残している。古代ギリシャの「オイコノミア」は「家政」のことで経済の語源とされているが、家(都市国家)を治める規範と考えれば、紀元前3~4世紀当時には西洋も東洋も経済と言うより、都市国家や世や国を治めることがまず最初に考えられたのではなかろうか。

 『書経』(尚書)は、政治史・政教を記した中国最古の歴史書で、堯舜から夏・殷・周の帝王の言行録(一部、春秋時代の諸侯、秦の穆公のものもあり)を整理した演説集(書経:武成より引用)で、周書32篇中5編目の武成の惟爾有神・尚克相予以濟兆民・無作神羞!( 惟(こ)れ爾(なんじ)有神、尚(ねが)はくは克(よ)く予(われ)を相(たす)けて、以て兆民を濟(すく)ひ神の羞(シュウ)を作(な)す無(なか)らんことを
 〈訳〉 有神よ、私に協力して万民を救い、神に恥かしくないようにしなければいけない。 括弧内は「経世済民」より引用 )の「以濟兆民」が「済民」の語源とされている。
                   参考:周書 旅獒[りょごう]- 秦誓(しんせい)

 中国の秦の始皇帝が全国統一するまでは、も同族で世襲制を中心にした村の連合体(邑制国家都市国家)であった。首長の人格、力量によって村の連合は大きくもなり、分裂もしただろう。領土の狭い古代ギリシャでは民主主義が成立し、広大な中国では儒教が生まれた。私はこれを集団をまとめる西洋と東洋の知恵だと思う。
                参考: 都市国家から中華へ(殷周 春秋戦国)

 今日の「経済」は富を追及することを当然とする言葉になってしまったが、語源をさかのぼれば、「経世済民」と民を救う政治の言葉であった。「現実の政策は「経済学」でなく「経世済民の学」にこそ基づくべし」とか「経済って何だろうか」とか、「経済という言葉」を考える時代となってきた。今の時代も「国を守る」とは「民を守る」ことで、首長を取り巻く大企業を守ることではない。今、「経済」を再考する時代の節目にある様に私は思う。
 参考: 中国語、日本語、西洋語間の相互伝播と翻訳のプロセスにおける「経済」という概念の変遷 (2)

初稿 2017.4.15 

エコノミーとエコロジーについて考える(2.「経済」の外来語について調べる)

2017-04-11 18:12:07 | 自然と人為

1.「オイコノミア」から「ポリティカル・エコノミー」,「エコノミクス」へ

 『19世紀末に、A.マーシャルらによって、科学的なるものという意味をこめて経済学がエコノミックス economicsとよばれるようになるまでは、英語圏においては経済学的な研究を総称してポリティカル・エコノミーつまり政治経済学とよんでいた。この呼称を最初につくったのは、17世紀フランスのA.モンクレティアンだといわれている。“ポリティカル”という形容は、研究の関心が国家をはじめとする公共団体の政策の問題にそそがれるということを含意している。』世界大百科事典 第2版の解説
 また、『エコノミイを「経済」と訳した福澤諭吉の慶応大学では、エコノミクスに「理財学」をあてて使い、東京大学では初期の「理財学」から一般社会に流通するようになっていた「経済学」へと科目名を変えた』という解説もある。「経済学という翻訳語について」

 古代ギリシャで生まれた「オイコノミア」から、17世紀にフランスでモンクレチアン「政治経済要論」(1615)が発表され、「ポリティカル・エコノミー」という言葉が造られたとされているが、言葉の意味は細分多様化する傾向もあるし、元々、古代ギリシャの「ポリス」は政治の意味を含んでいたので、ポリティカル・エコノミーが「オイコノミア」に含意されていたと考える方が自然であろう。古代ギリシャのポリスは「最高善」を追及する政治の場であり、「 民衆( デモス )が支配 ( クラティア ) 」するデモクラシーの発祥の地でもある。余談ながらポリスティックではなく、ホリスティック・エコノミーという分野も面白そうだ。 

 なお、古代ギリシャの「ポリス」からモンクレチアンの「国」の規範へと人間の住む「家」が大きくなったが、そのモンクレチアンに注目した岩根典夫「フランス貿易政策の思想史的研究」紹介論文は参考になる。この紹介論文によると「政治経済要論」経済編の1ページに『通商は本来万民の法、即ち国際法という性質を持つものであるから、同じ身分の者の間にあっては平等でなければならず、対等の者の間にあっては、均等の条件下に行われなければならない。即ち通商は両者相互間に自由なものであるから、他国からも何らの束縛、制限も無に行われるものでなければならない』とあり、アリストテレスの言う「ポリス」の規範が、「国」においても継承されていると言えよう。
 参考: 経済と経済学の語源について
      アリストテレスの経済哲学
      アリストテレス『ニコマコス倫理学』を解読する


2.古典派経済学から新古典派経済学(エコノミクス)へ

 我々の経済では利益の追求を当然としているが、古典派経済学のアダムスミスの『道徳感情論』『国富論』では、「見えざる手」が経済を動かすとした。「見えざる手」には古代ギリシャから受け継いだ「人間の道徳」による同感が原点にあると思う。アダム・スミスにとっては人間から切り離せない経済であった。
 一方、科学的なるものという意味をこめて経済学にエコノミクス(economis)という言葉を使用したA.マーシャルは、新古典派経済学を代表する経済学者であるが、後の新古典派の主流からは一線を画している。マーシャル以後、新古典派は現実からの乖離という代償を払って、数学的に定式化される厳密な論理を追求する方向に進んでいく。マーシャル自身は数学化を押し進めなかった。そして経済学を志す者は『冷静な頭脳と温かい心 cool head but warm heart』が必要であるとし、「政治経済学または経済学は日常生活の実務における人間の研究であり、人間の個人的、社会的行為うちで、福祉 (wellbeing)の物的条件の獲得と利用にもっとも密接に結びついた部分を考察の対象とする。それゆえ、経済学は一面においては富の研究であると同時に、他面においては人間研究というより重要な側面を持っている。」とした。 (『経済学原理』p.1)
 参考: 『道徳感情論』と同感
      アダム・スミス
      新古典派経済学
      アルフレッド・マーシャル 経済学原理の部屋
      ケンブリッジ学派の経済学


3.そして「欲望の資本主義」へ

 人間の心を切り捨てた科学は「大量破壊兵器」と「原爆」を生み、人間の心を切り捨てた経済は「欲望の資本主義」を生んでいる。今でもなお我々、人間は「ポリス」的動物であり、自然の一員であることの原点を忘れてはいけない。我々は自由であってもその原点を忘れない限り、話し合いができ、永遠に共存することがでよう。
 参考: 「欲望の資本主義2017 ルールが変わる時」(前編)
      「欲望の資本主義2017 ルールが変わる時」(後編)


初稿 2017.4.11