私は江戸時代を「鎖国と士農工商」の時代だと思ってきた世代だ。武士が支配した鎖国の時代にあって、自給のために農が士の次に大切にされていたと思っていたし、今も思いたい。江戸時代は270年も続いたので、社会の様相も家康の頃と最後の将軍慶喜の頃では変化をしていただろう。鎖国でない理由は、(1)オランダや中国と貿易する長崎・出島、(2)朝鮮と貿易する対馬藩、(3)琉球と貿易する薩摩藩(4)アイヌと貿易する松前藩が朱印状により貿易を独占していた例が挙げられている。幕府とつながる貿易はあっただろうが、それが鎖国ではないと言えるのか。また、士農工商の商にも幕府とつながり豪商となった者もいる。何時の時代も政府と業界の癒着はある。「士農工商の語順」は何だったのか。語順に意味はなく、当時の職業を羅列しただけなのか。それにしても「江戸時代という印象」に強く残る「鎖国と士農工商」を何故教えたのか、何故変えるのか。「江戸時代という印象]をどう伝えたいのか。強い印象を植え付けられた我々の世代には理解し難い。
現代においても昭和の戦乱時代から文治の時代となり、単なる観光旅行として自由に外国へ旅行できるようになったのは「1964年(昭和39年)4月1日以降で、年1回500ドルまでの外貨の持出しが許された。
海外旅行の自由化とは、直接的にはOECDの勧告に従って1964年4月に実施された外為規制の緩和措置と関係(2),(3)している。1966年(昭和41年)1月1日以降はそれまでの『1人年間1回限り』という回数制限も撤廃され、1回500ドル以内であれば自由に海外旅行ができる」こととなったのであり、一般国民に『鎖国』が解除されたのは50数年前でしかない。今の時代は『産軍複合体が世界を支配』,(2)しているとは誰も思わないように、マスコミ等や教育のスポットの当て方で、一般庶民にとって世界の見え方は違うものだ。
戦乱時代か文治時代かは、時代によって武力と文化のどちらにスポットが当たるかで受け取る側の印象も違ってくる。将軍と関白の力関係の影響については、ブログ『徳川家康がもっとも恐れていたのは、豊臣秀頼の関白就任だった』や『家康公の生涯 将軍-徳川家康誕生』が参考になる。朝廷は武力はなくても官位授与権の伝統を持ち、秀吉や家康の上に立つ。今の官邸の力とそっくりだ。
秀吉から徳川家光までの戦乱の時代は敵味方双方の見方があり、お互いの利害や憎悪も加わり理性的に判断することは困難だ。ことに秀吉の朝鮮出兵では朝鮮と明の見方も加わり、秀吉の死によって中止されたが、喧嘩両成敗で納得することは出来ない。また、朝鮮出兵と島原の乱はスペインの世界植民地化が絡んでいて、どこまでが真実に近い話なのか判断できない。とにかく戦乱の時代を考えるより避けるしか、これからの時代に我々が対処する方法はないと思う。
参考: 1592年-1598年 秀吉の朝鮮出兵,(2) 文禄・慶長の役
1600年 関ヶ原の戦い,(2)
1603年 徳川家康征夷大将軍 1616年6月1日 没
1614年 大坂の陣 大坂冬の陣
1615年 大坂夏の陣
1637年 島原の乱,(2)
島原の乱は、小西行長・佐々成政・加藤忠広(加藤清正三男・忠広)らの改易により大量に発生していた浪人や、旧有馬家の家臣らが帰農していたが、島原城の新築、江戸城改築の普請、また圧政や重税に苦しみ耐えかねて、領民(百姓)らと蜂起した。天草はキリシタン大名・小西行長、島原は同じくキリシタン大名の有馬晴信の領地だったこともあり、弾圧を受けていたキリシタン(切支丹)も、この一揆計画に加わった。
第3代徳川家光時代までの武断政治では取り潰される藩が多く、殉死、大名証人制(人質)、末期養子の禁等で牢人の発生が多く、一部の牢人たちは盗賊化し、社会不安も広まっていた。その牢人達の不満は由井正雪の乱と承応の変として爆発した。これを契機にに保科正之は、まだ幼かった第4代家綱を補佐し武断政治を見直し、文治政治をつくりあげていく。
なお、二代目将軍徳川秀忠は、浅井長政とお市の方(織田信長の妹)の娘お江を正室として、長男家光、次男忠長を生んだ。また、お静という想いを寄せる女性が大奥にいたが、正室お江の方の嫉妬を恐れて最初の子を水子にし、二人目を懐妊してからは、お静の実家の神尾家や、武田信玄の娘である見性院・信松尼などの庇護を受けて出産(1611)した。この子が幸松、後の保科正之となる。
文治政治を象徴する藩校は、幕府の指示ではなく多くの藩が自主的に藩政改革のため有能な人材を育成する目的で設立したようだ。日本で初めて藩として武士の教育に力を注いだのは岡山藩初代藩主の池田光政である。池田光政は島原の乱後の1641年、岡山城下の花畠(現在の岡山市中区網浜)に『花畠教場』を建て、儒学者の熊沢蕃山らを招き、家臣に陽明学を講じた(熊沢蕃山が組織した花園会という一種の勉強会と言う説もある)。寛文6年(1666年)花畠教場が廃止され、岡山城内の石山にあった松平政種の邸宅を学校に転用し仮学館が設置され、1669年に岡山藩藩学(岡山学校または国学)となった。これは江戸幕府5代将軍徳川綱吉によって建てられた孔子廟・湯島聖堂(1690年)よりも21年早く、その100年後に、幕府直轄の学問所となった昌平坂学問所(1797年)が設立されている。
また、この頃は全国に弘道館が設立されている。「弘道館」は学問所というほどの意味らしいが、徳川斉昭が1841年に水戸に設立した弘道館建学の精神は、「神儒一致」「忠孝一致」「文武一致」「学問事業一致」「治教一致」の5項目として示されている。
なお、公家の教育機関として京都御所に1847年に学問所が設置され、1849年に、学習院と名称が定まった。いずれにしても幕府や公家の学問所の設置より藩の学問に関する意識が早く高かったようだ。
庶民のための学校として、岡山藩主池田光政は1670年(寛文10年)、津田永忠に閑谷学校(しずたにがっこう)の建設を命じた。津田は閑谷に転居し建設が始まる。1674年までの4年間に、学房・飲室・講堂・聖堂などが完成し、1675年には領内に123か所設置していた手習所を閑谷学校に統合した。
全国的に藩校が設立され始めた時期は宝暦期(1751年〜1764年)以後とされているが、天明・享和期(1781〜1804)に最も多く設けられている。藩校の設立の経緯を見ると、江戸時代は幕府の上意下達から地方の問題を自らの能力を向上させることで解決しようとする自治の意識の向上に向かったように思える。現代も東京中心から地方中心の気概を強く育てる必要があろう。
参考: 年代別の藩校及び教科目
初稿 2018.7.30