自然とデザイン

自然と人との関係なくして生命なく、人と人との関係なくして幸福もない。この自然と人為の関係をデザインとして考えたい。

戦乱の時代から文治の時代へ ― 藩校の設立

2018-07-30 12:23:34 | 自然と人為

 私は江戸時代を「鎖国と士農工商」の時代だと思ってきた世代だ。武士が支配した鎖国の時代にあって、自給のために農が士の次に大切にされていたと思っていたし、今も思いたい。江戸時代は270年も続いたので、社会の様相も家康の頃と最後の将軍慶喜の頃では変化をしていただろう。鎖国でない理由は、(1)オランダや中国と貿易する長崎・出島、(2)朝鮮と貿易する対馬藩、(3)琉球と貿易する薩摩藩(4)アイヌと貿易する松前藩が朱印状により貿易を独占していた例が挙げられている。幕府とつながる貿易はあっただろうが、それが鎖国ではないと言えるのか。また、士農工商の商にも幕府とつながり豪商となった者もいる。何時の時代も政府と業界の癒着はある。「士農工商の語順」は何だったのか。語順に意味はなく、当時の職業を羅列しただけなのか。それにしても「江戸時代という印象」に強く残る「鎖国と士農工商」を何故教えたのか、何故変えるのか。「江戸時代という印象]をどう伝えたいのか。強い印象を植え付けられた我々の世代には理解し難い。

 現代においても昭和の戦乱時代から文治の時代となり、単なる観光旅行として自由に外国へ旅行できるようになったのは「1964年(昭和39年)4月1日以降で、年1回500ドルまでの外貨の持出しが許された。
 海外旅行の自由化とは、直接的にはOECDの勧告に従って1964年4月に実施された外為規制の緩和措置と関係(2)(3)している。1966年(昭和41年)1月1日以降はそれまでの『1人年間1回限り』という回数制限も撤廃され、1回500ドル以内であれば自由に海外旅行ができる」こととなったのであり、一般国民に『鎖国』が解除されたのは50数年前でしかない。今の時代は『産軍複合体が世界を支配』(2)しているとは誰も思わないように、マスコミ等や教育のスポットの当て方で、一般庶民にとって世界の見え方は違うものだ。

 戦乱時代か文治時代かは、時代によって武力と文化のどちらにスポットが当たるかで受け取る側の印象も違ってくる。将軍と関白の力関係の影響については、ブログ『徳川家康がもっとも恐れていたのは、豊臣秀頼の関白就任だった』や『家康公の生涯 将軍-徳川家康誕生』が参考になる。朝廷は武力はなくても官位授与権の伝統を持ち、秀吉や家康の上に立つ。今の官邸の力とそっくりだ。

 秀吉から徳川家光までの戦乱の時代は敵味方双方の見方があり、お互いの利害や憎悪も加わり理性的に判断することは困難だ。ことに秀吉の朝鮮出兵では朝鮮と明の見方も加わり、秀吉の死によって中止されたが、喧嘩両成敗で納得することは出来ない。また、朝鮮出兵と島原の乱はスペインの世界植民地化が絡んでいて、どこまでが真実に近い話なのか判断できない。とにかく戦乱の時代を考えるより避けるしか、これからの時代に我々が対処する方法はないと思う。
 参考: 1592年-1598年 秀吉の朝鮮出兵(2) 文禄・慶長の役
     1600年 関ヶ原の戦い(2)
     1603年 徳川家康征夷大将軍 1616年6月1日 没    
     1614年 大坂の陣 大坂冬の陣
     1615年        大坂夏の陣
     1637年 島原の乱(2)
 島原の乱は、小西行長佐々成政加藤忠広加藤清正三男・忠広)らの改易により大量に発生していた浪人や、旧有馬家の家臣らが帰農していたが、島原城の新築、江戸城改築の普請、また圧政や重税に苦しみ耐えかねて、領民(百姓)らと蜂起した。天草はキリシタン大名・小西行長、島原は同じくキリシタン大名の有馬晴信の領地だったこともあり、弾圧を受けていたキリシタン(切支丹)も、この一揆計画に加わった。

 第3代徳川家光時代までの武断政治では取り潰される藩が多く、殉死、大名証人制(人質)、末期養子の禁等で牢人の発生が多く、一部の牢人たちは盗賊化し、社会不安も広まっていた。その牢人達の不満は由井正雪の乱承応の変として爆発した。これを契機に保科正之は、まだ幼かった第4代家綱を補佐し武断政治を見直し、文治政治をつくりあげていく。

 なお、二代目将軍徳川秀忠は、浅井長政とお市の方(織田信長の妹)の娘お江正室として、長男家光、次男忠長を生んだ。また、お静という想いを寄せる女性が大奥にいたが、正室お江の方の嫉妬を恐れて最初の子を水子にし、二人目を懐妊してからは、お静の実家の神尾家や、武田信玄の娘である見性院・信松尼などの庇護を受けて出産(1611)した。この子が幸松、後の保科正之となる。

 文治政治を象徴する藩校は、幕府の指示ではなく多くの藩が自主的に藩政改革のため有能な人材を育成する目的で設立したようだ。日本で初めて藩として武士の教育に力を注いだのは岡山藩初代藩主の池田光政である。池田光政は島原の乱後の1641年、岡山城下の花畠(現在の岡山市中区網浜)に『花畠教場』を建て、儒学者の熊沢蕃山らを招き、家臣に陽明学を講じた(熊沢蕃山が組織した花園会という一種の勉強会と言う説もある)。寛文6年(1666年)花畠教場が廃止され、岡山城内の石山にあった松平政種の邸宅を学校に転用し仮学館が設置され、1669年に岡山藩藩学(岡山学校または国学)となった。これは江戸幕府5代将軍徳川綱吉によって建てられた孔子廟湯島聖堂(1690年)よりも21年早く、その100年後に、幕府直轄の学問所となった昌平坂学問所(1797年)が設立されている。

 また、この頃は全国に弘道館が設立されている。「弘道館」は学問所というほどの意味らしいが、徳川斉昭が1841年に水戸に設立した弘道館建学の精神は、「神儒一致」「忠孝一致」「文武一致」「学問事業一致」「治教一致」の5項目として示されている。

 なお、公家の教育機関として京都御所に1847年に学問所が設置され、1849年に、学習院と名称が定まった。いずれにしても幕府や公家の学問所の設置より藩の学問に関する意識が早く高かったようだ。

 庶民のための学校として、岡山藩主池田光政は1670年(寛文10年)、津田永忠に閑谷学校(しずたにがっこう)の建設を命じた。津田は閑谷に転居し建設が始まる。1674年までの4年間に、学房・飲室・講堂・聖堂などが完成し、1675年には領内に123か所設置していた手習所を閑谷学校に統合した。

 全国的に藩校が設立され始めた時期は宝暦期(1751年〜1764年)以後とされているが、天明・享和期(1781〜1804)に最も多く設けられている。藩校の設立の経緯を見ると、江戸時代は幕府の上意下達から地方の問題を自らの能力を向上させることで解決しようとする自治の意識の向上に向かったように思える。現代も東京中心から地方中心の気概を強く育てる必要があろう。
 参考: 年代別の藩校及び教科目
 

初稿 2018.7.30

戦乱の時代~関白となった豊臣秀吉と最期の将軍足利義昭

2018-07-25 22:16:53 | 自然と人為

 幕末の話をしたいと思い秀吉まで調べることになった。このブログは私の考えを紹介するというより、参考になった録画や資料を私の考えを整理するために書き残している。考え抜いて最期に書くことを予定している農業に関する希望のブログが、お世話になった農業への私からの遺言となれば、仕事をさせていただいた感謝にもなろう。

 1582年、「朝廷は安土城の信長に使者を送って征夷大将軍・関白・太政大臣のうちから希望する官職に任じる用意があることを伝えた(三職推任問題)。だが、信長は前右大臣の身分のまま本能寺の変で明智光秀に討たれた。」

 豊臣秀吉は、「1584年、従三位権大納言に叙任され公卿となった。この際、将軍任官を勧められたがこれを断り、1585年、朝廷で紛糾していた関白職を巡る争い(関白相論)に介入し、近衛前久の猶子となって関白宣下を受けた。1586年、豊臣の姓を賜り太政大臣に就任して豊臣政権を確立させ、1587年に落成した聚楽第に、1588年後陽成天皇を迎え華々しく饗応し、徳川家康や織田信雄ら有力大名に自身への忠誠を誓わせた。また、同年には毛利輝元が上洛し、完全に臣従した。さらに、刀狩令や海賊停止令を発布、全国的に施行した。」

 秀吉57歳の時(1593年)に秀頼が生まれる。「1595年に秀吉は秀次の関白職を奪い、ついで自刃させた。1596年、秀頼上洛して豊臣朝臣藤吉郎秀頼と称す。秀吉は、それまで個人的な独裁体制の色彩が強かった豊臣政権に、御掟・御掟追加などの基本法や五大老・五奉行などの職制を導入して秀頼を補佐する体制を整えた。1598年秀吉が死去すると、秀頼は家督を継ぎ、秀吉の遺命により大坂城に移った。」

 なお、室町幕府の最後の将軍・足利義昭は「美濃国の織田信長に擁されて上洛し、1568年第15代将軍に就任する。やがて信長と対立し、武田信玄や朝倉義景らと呼応して信長包囲網を築き上げるが、1576年、京都から追われ毛利輝元の勢力下・備後国の鞆に移った。1582年、信長と嫡子の織田信忠は本能寺の変で明智光秀(光秀の家臣団には旧室町幕府幕臣が多くいた)に討たれると、同年、義昭は鞆城から居所を山陽道に近い津之郷(現福山市津之郷町)へと移す。信長の死を好機に、義昭は毛利輝元に上洛の支援を求めた(羽柴秀吉や柴田勝家にも同じような働きかけを盛んに行なっていた。)1583年には、毛利輝元・柴田勝家・徳川家康から上洛の支持を得ている。」

 1585年、「足利義昭は(毛利と敵対していた大友を島津に牽制させるため)島津義久を九州の「太守」に任じて帰洛時の援助と大友攻めを命じ、義久はこれに応じている。一方、秀吉は島津氏の使者鎌田政近(1586年)に対し、島津氏が占領した領地の殆どを大友氏に返還する国分案を提示した。しかし、島津氏がこれを拒否、大友攻撃を再開して九州統一戦を進めたため、秀吉は大友氏の手引きによる九州攻めに踏み切った。1586年末より水面下で足利義昭は豊臣秀長の意向をうけて和平工作をすすめており、義久も義昭の使者に会って講和受諾の意思はそのなかで表明していたと言う。」(九州平定)。

 1587年、「秀吉は九州平定に向かう途中に義昭の住む備後国沼隈郡津之郷の御所付近を訪れ義昭と対面した。同年、足利義昭は再び一色昭秀を送って島津義久に重ねて和睦を勧めている。島津氏が秀吉の軍門に下った後、義昭は京都に帰還する。その後、1588年に秀吉に従って参内し、将軍職を辞した。
 植民地化の時代、スペインによる大陸からの日本への攻撃を防止するため出兵した文禄・慶長の役には、秀吉のたっての要請により、由緒ある奉公衆などの名家による軍勢200人を従えて肥前国名護屋まで参陣している。晩年は秀吉の良き話相手であった。」

 義昭は1597年、慶長の役の年に60歳で没した。翌年に秀吉が61歳で死去すると、五大老や五奉行が秀頼を補佐する体制が合意され、朝鮮からの撤兵も決定された。

 秀吉は「将軍」として力を失った義昭と親しくはしたが、家柄で尊敬される「関白」の道を選んだ。大名としての家柄と実力のある家康は「将軍」の道を選び、武士の時代を完成させた。それは15代慶喜まで、平和な武士道の世界を築くことになる。


初稿 2018.7.25



幕末と明治維新から考える~「人間の尊厳」と「他者の尊重」

2018-07-21 10:27:08 | 自然と人為

 幕末の尊王攘夷については、NHKの大河ドラマで良く知られている。大河ドラマは明治維新を賛美した司馬史観を背景にした創作が多く、当然ながら歴史番組ではない。坂本龍馬が諸藩と交渉した英雄だと思っている人は多いだろうが、それには諸藩が坂本龍馬を通じて最新の武器を購入していた明治維新の背景がある。幕末は幕府側に優秀な若い人材がいた。25歳にして老中となった備後福山藩主阿部正弘安政の大獄によって26歳にして刑死した有能な若者橋本左内である。阿部正弘はペルー来航時に老中であり、勝海舟ジョン万次郎を幕府で登用するなど柔軟な対応能力で幕末の問題に取り組んだ。人の評価は様々だが、橋本左内とともにもう少し生きていれば違う明治維新を迎えていたと私は思う。橋本左内については、英雄たちの選択「維新を先駆けた男 安政の大獄に死す」を、まずはご覧いただきたい。
 参考: 橋本佐内26年の生涯 坂本龍馬暗殺

 明治維新は日清日露戦争、さらには太平洋戦争までの道を準備したと私は批判的であるが、「司馬史観」に異議あり!と極右系のブログにあるので何の異議かと思ったら 「司馬史観」が日露戦争までは肯定しているが、昭和前期の侵略を批判しているのに対して、その昭和前期の侵略史観の方がおかしいと言っている。彼らはひょっとして日本人の武士道の精神を賛美しているつもりかも知れないが、「武士道の義とは、人間としての正しい道、要するに正義を指すもの」であり、その最も厳しい規律・正義を守ることが求められている。武士道は個人が集団に規制されていた我が国の封建時代に培われた自己犠牲である。敵と戦うために命をささげることを美とした集団の規律が、江戸時代の平和が続くと精神的な支柱となった。しかし、自己犠牲は他者への想いが薄く、他者を尊重する関係を深めることはなかった。

 幕末になると外国との関係が生まれ、武力(将軍)による支配や「武士道」ではなく、「天皇」という権威が国民の支配に必要となった。国民の権利が知られていない時代にあっては、権威の下に国民を支配することは自然であったろう。しかし、自由な個人が許される時代となった今日では、武士道は伝統として賛美するよりも、自由な個人の自己責任として、「欲望を抑える生き方をもっと深め得る可能性のある精神」と私は思う。集団ではなく個人が尊重される時代でも、個人の欲望が時代を動かす面は抑えられない。しかし、国民を治める政治や行政は、常に自分の欲望を満たすためではなく、他者のために働く倫理がますます大切になることを忘れてもらいたくない。
 参考: 今だからこそ、今一度、司馬遼太郎氏の言葉に耳を傾けたい
      司馬遼太郎の遺言

 ドイツは第1次および第2次世界大戦の反省から、憲法の第1条で人間の尊厳の不可侵を謳っている。人間の尊厳を守ることは、人間が人間を裁く死刑さえ否定する考えである。どんな理由があろうと、戦争は人間として許される行為ではない。敵が攻めてくる、危ないと支配者が言う虚構に対して、情報と他者を尊重する倫理のない集団は支配されるしかない。日本では戦争の被害、敗戦と原爆にあってなお現平和憲法さえ否定している人たちがいる。その先頭に立っているのが日本の首相である。国と国民の立場を混同し、国民の立場ではなく国として世界で戦争をするアメリカに従順に従う政治を行い、自衛隊を紛争地帯の平和のためと称して海外派兵の道を開いている。対立を調整するのは軍ではない。人を殺し、町を破壊する自衛隊ではなく、国内や世界の水害や地震等の自然災害の救助や予防に従事することこそ、これからの世界に求められる組織である。

 豪雨災害中に自民党宴会とマスコミの一部は騒いだが、実はこの日は「7名死刑執行」の前夜でもあった。死刑さえ躊躇するドイツと比べて、天皇の退位前に7名も処刑するという人間に対する尊厳が軽薄で、宗教犯罪の原因にメスを入れることもなく、即ち彼らが我々と生きた意味を問うこともなく、国民の尊重よりも自分達の利害や考えを優先する安倍に従う自民党という集団のなんと軽薄で醜いことよ・・・。
 江戸時代の「武士道」と明治維新は昭和の敗戦まで、「人間の尊厳」と「他者の尊重」を国民に育てることはなかった。これからの日本は世界に独自の文化を誇る前に、「人間の尊厳」と「他者の尊重」を世界の人々と共に自覚していくことが必要だと思う。
 参考:BS1スペシャル「欲望の時代の哲学~マルクス・ガブリエル 日本を行く~
     鳥越俊太郎氏「日本にどこの国が攻めるんですか、そんなの虚構です
      NHKスペシャル「戦後69年 いま“ニッポンの平和”を考える」より


初稿 2018.7.21


私の資本論(資料)~日本沈没から自然と農業と個人を救おう

2018-07-12 20:31:59 | 自然と人為

 歴史は長い時間をかけて個人を尊重する方向で歩んできた。そのことを確認する作業をして来たが、格差拡大と農業と地方崩壊については黙っていられない。単なる批判ではなく、この国の新しいビジョンについて構想をまとめたいと思って、今は勉強中だ。最近次のブログを書いたが、これらを具体的な地域振興策の構想にしていきたい。
 人への想い、牛への想いが酪農の世界を深め、拡げる
 日本沈没、地方沈没と自然の積極的活用

 マルクスの資本論(2)は資本主義社会の次の段階の理論的な洞察だそうだが、資本主義が成熟する前のロシアで採用された。現在は資本主義の問題点が格差拡大等で噴出し、民主主義も問題が多いという。簡単な問題を難しく表現する必要はない。資本主義は経済、民主主義は政治の問題で、欲望とは他者を尊重しないことだ。
 個人が集団から自由になると欲望が膨らみ、経済でも政治でも力を持つものが、公的力を私物化する。公的とは憲法で保障されている人権と制度のことで、民主主義とはその公的力(政治や行政)をみんなで監視することだ。おかしいと思ったらみんなでこれを選挙で糾さなければならない。それが民主主義を守る我々の大切な責任だ。ここに資本主義と政治の問題について、参考にしたい資料を集めておいた。取り敢えずはこれらの資料から勉強を始めたい。

 BS1スペシャル「欲望の民主主義~世界の景色が変わる時~ 前編 後編

 欲望の資本主義のもとで個人の欲望の肥大化と孤立化が進んでいるが、個人よりも資本の欲望の方がはるかに大きく力がある。グローバル化が進むと資本も国境を越えるだけでなく、国を支配する。欲望の資本主義は仮想敵国や集団をつくり軍事力や法的手段を強化して、個人を支配していることに個人は気が付かない。個人は欲求不満の解消を政治に求め、政治を支配している資本に踊らされる。

 原爆開発 動画(1)(2) 右クリック:再生
 前川喜平氏:官僚は政治に一方的に押し切られてはダメだ 【Part1】【Part2】
     メディアは権力を忖度し、司法権力は政治のために動いている」
      〜「独裁国家に近づいている」
      今の日本は「もうファシズムの玄関に来ている」!?
      道徳の教科書からは「国体思想」の影もちらついている!?
      戦前は「国家的規模でマインドコントロールされていた!」
      教育勅語や戦陣訓はカルト集団の教義みたいなもの!
      自民党が改憲で目指す家族国家観の危険性!
     「純血日本人主義」「血の共同体」がファシズム・排外主義の根拠に!?
      前川喜平☆望月衣塑子と組んで安倍降ろしを始めますよ!
      始めの一歩を踏み出す勇気
      前川喜平氏×中野晃一氏×上西充子氏×望月衣塑子氏×鎌田一氏
      「国民のための公務員制度めざす緊急院内シンポジウム:国公労連
      安倍政権の闇を暴く by 望月衣塑子@武蔵野公会堂
      望月衣塑子☆寺脇研と前川喜平と組んで安倍降ろしを始めますよ!
      望月 衣塑子さんの講演

 前川喜平氏講演
  文部省でもっと憲法を生かした仕事をしたかった
  今治で1200人!
  「権力の腐敗と暴走」(熊本市)
  「面従腹背さようなら。」
 ライブ対談 鳩山友紀夫・前川喜平
            
 総理大臣が立憲主義からの離脱を表明しても問題にならない国
 立憲主義を否定する首相が「憲法を解釈するのは私だ」
 自民党の右旋回の背景とそれが止まらない理由/中野晃一氏
 自民党改憲案の粗悪な人権感覚

宇沢弘文氏:TPPは「社会的共通資本」を破壊する【Part1】【Part2】
シンポジウム 普天間 いま日本の選択を考える(2)
宇沢弘文と語る:経済学から地球環境、日米安保・沖縄まで

20世紀の知の巨人・チョムスキーとの対話 ①

 安倍首相は森友学園・加計学園では完全に政治を私物化し、これを忖度した官僚も文科省局長 息子を“裏口入学”文科省天下り問題等、国の教育に責任を持つ文部官僚までも公の立場を私物化している。さらに、“残業代ゼロ法案”こと「高度プロ法案」, 災害対応よりカジノ法案優先洪水災害の中、極右ネットテレビ出演北朝鮮危機を煽り陸上イージス2基導入決定等、国民の立場より財界の意志や個人的な嗜好を尊重しているのが明らかなのに、NHK世論調査(2018年7月)によれば,内閣支持率 4か月ぶり「支持する」が上回る内閣支持率 44& 支持しない 39&と国民の間に批判の声が大きくならない。
 このまま腐敗した独裁政権を認めると、仮想敵国を心配するどころか今回の豪雨災害が常態化して、自然に恵まれた日本の幸せな暮らしが、安心して眠れない日々に日常化する恐れがある。政治や経済の発想を転換しないと日本は沈没する。
 首相は憲法の下で国民のために働く公人である。自分の意志や直感で働く自由人ではない。仕事のけじめさえ理解しない大バカ者が首相の席に座り続けることは、世界に恥ずかしいと私は思う。
 参考:楽しい行動経済学の世界1 人間は不合理な存在
     楽しい行動経済学の世界2 ”人に流される理由
     楽しい行動経済学の世界3 ”感情をどう動かすか”
     楽しい行動経済学の世界 5" お金の心理学”
     自分の意思や直感は不合理、ダン・アリエリー

BS世界のドキュメンタリー「ロバート・ライシュ:みんなのための資本論」 動画
 アメリカの元労働長官ロバート・ライシュ氏が語る!
 みんなのための資本論」と99%のための資本主義 田中秀臣のブログ

 ビル・クリントン政権にて労働長官を務めた経済学者、ロバート・ライシュ氏がアメリカの格差問題に切り込んだドキュメンタリー。1970年代以降ごく一部の富裕層が富を独占する中、どうにかその世界を変革すべく尽力してきた彼の持論を検証する。暴走する資本主義に警鐘を鳴らすライシュ氏の真摯(しんし)な姿勢に心打たれる。
 「子どもの頃、身体の小さかった私を守ってくれたマイケルが公民権運動を支持し、1964年、彼は捕まり殺された。その時から私は社会的弱者を守らなければと思うようになった。格差の問題に取り組んでいるのもその為だ。経済のルールを作るのは私たちであり、そのルールを変える力を持つのも私たちだ。政治を人任せにしてはいけない。歴史は前向きな社会改革に味方してきた。それは君たちに引き継がれていく。君たちを信じている。」政治家は社会的事実に啓発され、それと真摯に向き合い、経済の問題も政治の問題として社会的弱者を守る志を持って欲しい。それが国民に選ばれて政治を行うということだ。
 参考:「骨太の方針」に見る安倍政権の問題点とは?
     移民: 欧米による戦争と帝国主義的搾取による何百万人もの追い出し

NHK パリ白熱教室の感想【21世紀の資本】
 第1回「21世紀の資本論」~格差はこうして生まれる~
 第2回「所得不平等の構図」~なぜ格差は拡大するのか~ 聞き書き
 第3回「不平等と教育格差」~ なぜ所得格差は生まれるのか~
 第4回「強まる資産集中」~所得データが語る格差の実態~
 第5回「世襲型資本主義の復活」~19世紀の格差社会に逆もどり?~
 第6回「資本の規制と不平等」

BS1スペシャル「欲望の資本主義2018~闇の力が目覚める時~ 前編 後編

欲望の経済史2018 ルールが変わる時 全話
BS1スペシャル「欲望の経済史〜ルールが変わる時〜特別編」part1  part2

NHKスペシャル「マネ―氾濫~世界経済に異変~」
NHKスペシャル マネー・ワールド 資本主義の未来 まとめ
マネー・ワールド 資本主義の未来 第1集 世界の成長は続くのか
マネー・ワールド 資本主義の未来 第2集 国家VS.超巨大企業
マネー・ワールド 資本主義の未来 第3集 巨大格差 その果てに

ピケティ騒ぎの後始末①西部邁ゼミナール
西部邁流、保守主義のすすめ Part1Part2 2007年2月16日
【宮台真司】追悼『西部邁』の人生を振り返る

トマ・ピケティの経済論
r>g トマピケティが言いたいこと21世紀の資本
ピケティの『21世紀の資本』解説
飯田泰之「1時間で分かる、トマ・ピケティ『21世紀の資本』
ピケティ先生のお風呂:rとgとsと資産課税の問題
ピケティ先生と油屋は株式会社
橋下徹、話題のピケティについて語る
ピケティー資本論と格差について語る森永卓郎氏 (11分22秒)

【森永卓郎】セブンとイオンが明暗を分け理由ーアベノミクスによる経済構造か(大竹まこと)
森永卓郎が語る。日本は、なぜ格差社会へ向かってしまうのか。暗黙の共謀とは。
森永卓郎×阿川佐和子×大竹まこと:アメリカ並みの格差社会へ向かわせる理由
【森永卓郎】地域間格差の拡大 主因の一つに株式譲渡所得
森永卓郎×大竹まこと:アベノミクスは日本人を幸せにしない
水野和夫×町亞聖×大竹まこと:資本主義の終焉と矢が尽きたアベノミクス


初稿 2018.7.11 更新 2018.7.12 動画追加 2018.9.16


宗教改革とルネサンス~個人の成長と他者の尊重への第一歩

2018-07-09 14:39:05 | 自然と人為

 前回紹介したように、コロンブスの新大陸発見を支援したスペインのイサベル女王の孫(カルロス1世:1516~1558年)が神聖ローマ帝国皇帝(カール5世:1519年)にもなって、ハプスブルク家は全盛期を迎えた。しかし、その全盛はこれまでの制度の問題を表面化させ、支配者にとっては絶対王政の衰退の要因となり、個人にとっては宗教改革ルネサンスで個人と他者の尊重を刺激する第一歩になった。

 キリスト教とイスラム教はユダヤ教が母体であり、パレスチナのエルサレムにはユダヤ教とイスラム教、キリスト教それぞれの聖地がある。
 ユダヤ教の歴史は紀元前2000年に遡るが、そのユダヤ教から1世紀の初めイエス・キリストの刑死によってキリスト教が成立した。キリスト教は392年、テオドシウス帝がローマ帝国の国教とし、テオドシウス帝の死後395年にローマ帝国が東西に分割された後、ローマ教皇を首長とするカトリック教会(西方教会)と東方教会とに二分された。東方教会(ギリシャ正教会)はビザンツ帝国の教会制度となり、皇帝が教皇を兼務した。一方、アラビアで7世紀の初め、ムハンマド(マホメット)がイスラム教を創始した。なお、476年の西ローマ帝国滅亡を経て、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)がローマ帝国を継承する。

 今から約500年前(1517年)、ローマ教皇がドイツにおいて贖宥状を発売したことに対してルターが『九十五ヶ条の論題』を発表して批判したことからドイツの宗教改革が始まった。
 「神聖ローマ皇帝カール5世はルターに教義撤回を迫ったが拒否されたためルターを異端と断定、追放に処した。」 宗教改革
 「レオ10世はドイツで贖宥状(免罪符)を発売した。それを批判したルターが宗教改革を開始すると破門した。」   ローマ教皇
 「ルターはザクセン選帝侯フリードリヒに保護され、聖書のドイツ語訳を完成させ、『聖書』やルターの主著『キリスト者の自由』は活版印刷によって民衆の間に新しい宗教観を浸透させることとなった。」 宗教改革
 参考:ローマ教皇/ローマ法王/ローマ教皇庁
  ローマ=カトリック教会の最上位の聖職者。
  中世ヨーロッパで絶大な力を持ち、現在でもカトリック世界の指導
  者としてその発言は常に世界の注目を集めている。
 参考:神聖ローマ皇帝
  1438年以降はオーストリアを本拠とするハプスブルク家のアルブレ
  ヒト2世が選出され、それ以降は、ハプスブルク家が、1806年の
  神聖ローマ帝国消滅まで、一時期(オーストリア継承戦争のとき)
  を除き、皇帝位を独占することとなった。実質的には世襲されたが
  形式的には選帝侯による選出という原則は変化がなかった。
 参考:カール5世 (神聖ローマ皇帝:1519年 - 1556年)
     レオ10世 (ローマ教皇:1513~1521年)

ルネサンス(1) 世界史講義録より
 「ルネサンスの以前と以後では、下記の原因によりヨーロッパ人のモノの見方、考え方ががらっと変わる。 
 1,十字軍によるイスラム・ビザンツ文化との接触。
 2,ビザンツ帝国の滅亡による学者のイタリアへの亡命。
 3,イタリアの都市国家の成長。諸都市の有力者による学問・芸術の保護
   ルネサンス芸術のパトロンはフィレンツェの豪商、メディチ家
   ルネサンス(2)
   ルネサンスと宗教改革

 宗教は個人の成長と他者の尊重が優先されないと、信ずることに基礎を置くので集団や組織を治める誘導装置となる危険性がある。現代日本ではオーム真理教事件があり、中世カトリック教会は世界布教と植民地化による奴隷貿易を一体に進めたが、攻められたインディオにも太陽神へ捧げる生贄の子供たちがいた。同様に軍は国民を守るために存在すると言いながら、国が持つ暴力装置であり、国民を支配する組織にもなる。人類の進歩は国が暴力装置を持つことを恥と思うことから始まる。現代国家においては個人の尊重が重要であり、それは他者を尊重することで成熟していく。

 「16~18世紀に形成された主権国家における君主が絶対的な支配権力をもつ政治体制を「絶対王政 absolutism」(または絶対主義体制)という。絶対王政の出現は、封建社会から近代社会への過渡期の西ヨーロッパに見られるもので、18世紀の市民革命によって倒される体制と考えてよい。」
 「主権国家は絶対王政から始まった」とは、現代社会に生きる我々の感覚には馴染まない。最近は私の興味からではなく、私の理解を深めるために資料を引用させていただいている。主権国家体制の最初の形態である絶対王政の政治理念であった王権神授説に対して、17~18世紀の市民革命期に成立した、新たな政治理念(社会契約説)についても、いずれまとめて見たい。
 参考:絶対王政/絶対主義
    中世からのルネサンスと宗教改革の流れと動き
    宗教改革
    ルネサンスがもたらした暗黒時代の解体とヒューマニズムの創造

 昨日までは大雨警報と避難指示が出され、裏山のがけが崩れないかと不安な夜であった。今も、水道が出ない地域があり、道路も寸断され、大渋滞と休校となっている学校も多い。新聞も『<豪雨>102人死亡、不明90人に 被害範囲つかめず』,(2)と報じている。これだけ被害範囲が多いのは、異常気象の常態化の兆しではなかろうか。備えるべきは異常気象に対するインフラの整備であり、仮想敵国を作って『陸上イージス2基導入決定 全土防衛、効果は未知数』と報じられているように税金の無駄遣いをし、国民の災害による死を防がないことではない。私は自衛隊を国際災害救助隊にすべきだとする持論の持ち主だが、世界に仮想敵国をつくり軍需産業を潤す時代は終わると思っている。そのきっかけに「異常気象の常態化」がなることを祈っている。
 参考:地球規模の経済リスクとしての気候変動問題
    軍は自国民にも銃を向ける~韓国光州事件から米朝和解まで
    憲法の「平和主義」と「戦争放棄」の違い


初稿 2018.7.9