日本の戦国時代の終わり1560年頃、中国から李時珍の本草綱目という書物が日本に入った。それから100年間は日本の本草学(博物学のようなもの)は全部中国と同じものととしていた。
貝原益軒が大和本草を著して、日本と中国とは一部異なるということを示した。これから日本の本草学者が中国と日本との同定が進んだ。さらに西洋の植物学等が日本に学問として入ってくると、長崎で学者同士の交流が始まった。冒険心のある西洋の学者と新しい知識を得ようとする好奇心のある日本の学者が鎖国の中で静かに始まった。幕府の方針を探りつつ、医学・数学から西洋の学問を取り入れていった。そこにキリスト教の扱いが、秘かに問題となっていた。学問が政治に関与しないことを要求していた。
過去の歴史の事例で権力の意向を探りつつ研究するのが(予算を獲得する手段として)歴史に名の残る人となる。多くの人は運も引き立てもなく、自滅して消える。コロナの時代で老兵の復活は厳しい。