山形の森 保守醒論

山形から発信する内外の時評ブログ!

私が、「おしん」に魅せられた、もう一つの大きな理由とは!。

2013-01-21 15:52:52 | Weblog

  龍神伝説が伝承される、大沼 (西村山郡西川町沼山)
私が、「おしん」に魅せられた、もう一つの理由とは!。   知り合いにA紙のK記者がいる(現本社論説委員)。
14年前のことになるが、K記者と会った際に、「先頃、脚本家・橋田壽賀子女史に取材した。」と言う。
話を聞きながら、取材メモから話題が進んだ。
橋田が、終戦直後(1945年10月頃)に、約一ヶ月ほど山形県に疎開したときの記憶違いを解き明かしたとされる。
疎開の滞在先が西村山郡大江町左沢との記憶が、実際は隣町の西川町間沢であったこと。 (そのことから、NHKは大江町左沢を前提にシナリオハンティングに入った)
最上川だと(記憶)されたのが、西川町沼山の大沼(長沼)であった記憶違いにあることなど興味を引くものであった(西川町は最上川支流の寒河江川)。
西川町大井沢はロケ地のひとつで、(泉ピン子の)堕胎入水シーンなどが寒河江川上流で撮影された。
K記者の取材過程で、橋田の50年余の前の微かな(真実の)記憶を呼び起こしたのだ。
(1983年)朝ドラ「おしん」放映から16年余経過してブームも去り、忘れかけた頃の20世紀を振り返る社会変遷の世紀末取材だったようである。
A紙面に掲載された取材記文はほんのわずかだが、余りある「おしん」執筆のエピソード、橋田の身上書的なものについても関心を持たずにはいられなかった。
そのなかでブログ子個人として魅せられたのは、(沼である)大沼を大河最上川と記憶違いしてきたことである。
半世紀も前の、わずか一ヶ月ほどの初征疎開先での微かな記憶のなかであるから、誤りがあっても至極当然なことでもある。
実は、この大沼(西川町沼山)を舞台とする地元伝わる龍神伝説として、母の実家(菊地家の先祖伝説)に伝わる「雨池藤五郎伝説」なるものがある。
1596年(慶長元)に先祖菊池藤五郎が、大沼を荒らし回る大蛇の目を矢で狙い打ち退治して、下流域が水利に恵まれることになったと語り継がれてきているのだ。
地元の歴史書にも伝承説として記されてきている。
さらには、藤五郎の祖先を遡ると、940年「平将門の乱」に出てくる琵琶湖で大ムカデを退治した伝説の藤原秀郷(俵藤太)であると、実しやかに関連歴史書に載っているものだから、末裔の一人に擬されるものとしては心中穏やかではない。
藤原秀郷から1100年余の流れを、山形在の今日までつながっているなどとは信じられようないことであるが、伝承説記載の末端にあることは事実のようである。
明治時代の建立であるが、母の実家(寒河江市松川)には伝説碑もある。 (ブログ子は実家の初孫で、ここから寒河江高校に通った)
橋田壽賀子女史が、最上川と記憶違いされた大沼(西川町沼山)がK氏取材で明らかにされ、ブログ子が「おしん」に魅せられ深入りするに至ったもう一つの大きな私的な理由である。
K記者との「おしん(橋田取材)」談から14年余り、「おしん」を私的関心の中で追い続けてきた。
なによりも「おしん」世代を忠実に投影する20世紀の史実に深い関心を以って、自らの歴史観を自分責任で見つめようとしている。
あれは何時だったかとか、あの本の何処に記載していたかなど、記憶力の悪い者と自認している。
だからこそ、パソコンを得てから気になることをメモすることにした。
いまでは1900ページになんなんとする。朝起きてからメールチェック、ネットで新聞各紙閲覧、雑誌・書籍などで気になる項目メモを記入する。
気になるキーワードは検索してメモとして残す。  年内には2000ページに近づくことになるだろう。
私的な、終わりの無い関心事に「おしん」探究テーマがある。
自称「山形阿信研究会」代表を名乗るおしんマニアの「山形の森」です。
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NHK朝ドラ「おしん」、30年前の山形ロケ(1983.1.18~25)

2013-01-21 11:33:37 | Weblog

    白鷹町の旧栃窪集落、廃村前の1960年代撮影

NHK朝ドラ「おしん」の山形ロケは、ちょうど30年前の今頃(1983.1.18~25)に行われた。
雪中ロケは「おしんの生家」とされた中山町大字岩谷に始まり、大江町左沢の筏下り、西川町大井沢、尾花沢市銀山温泉、酒田市などの順で約一週間ほどに亘った。
が、おしん出生のモデル地域は西置賜郡白鷹町の旧栃窪集落とされている。
おしんが三重県伊勢を発ち、山形・銀山温泉「銀山館」に辿りつくのは(ドラマ上で1983.3.15)夕刻のことである。
翌16日に、タクシーを貸切って、孫の圭を伴い出生地を目指す。  乙羽おしんが、最上川に架かる吊り橋(大平橋・白鷹町大滝)から懐かしみ上流を見つめるシーンがある。
この場面右手(左岸)に見える山向こう側に旧栃窪村があった。
この栃窪集落(当時38戸)は、1971年11月に(白鷹)町中央部に集団移転をして廃村となった。
最盛期には57戸の時があり、旅館・商店もあった。
ドラマ上でおしんが学びたかった学校(1892年開校の栃窪尋常小学校、廃村で閉校時・鮎貝小学校栃窪分校)もあり、1889年の市町村制施行(合併で鮎貝村)までは、栃窪村としての行政単位を誇っていた。
廃村からロケ時までの12年余経過のなかで、残存民家は朽果てて撮影に供する対象物が無くなっていたものだろう。
それらのことから「生家」とするロケは、中山町大字岩谷での撮影となったようである(所有者のSさんによると、撮影後5年ぐらいで(積雪などで)自然倒壊したとのこと)。
また、ロケ隊の懸念とされたのが、雪中期的に降雪状況で撮影困難な場所では立ち行かないことだったと述べている(岡本PD)。
昨年秋に栃窪を訪れてみたが、普段に除雪してない廃村での冬季ロケは無理であろうと思えた。
橋田の「おしん」脚本コンセプトとして、(川の)最上川と(山の)月山があり、泉ピン子扮する母ふじが真冬の川に入水し、堕胎しようとするシーンがある。
この設定地として、月山を真正面に眺望でき、寒河江川が流れる西川町大井沢をロケ地としたものである(栃窪・岩谷から月山は見えない)。
ロケ隊が宿泊した旅館の女主人から、後日談として直接聞いたものだが、(NHK側の要請で)お風呂を緊急増設したとのことだった。
雪中山形ロケは一週間ほどで終了したが、(1983)3月に第2次の庄内ロケが行われている。
田中おしんとなり(T5、1916.7)、加賀屋の奉公から暇をいただいて、肺結核で死期を迎える姉はるを看取る。
父作造により新たな奉公先として、山形の料理屋の座敷女中に売られようとするが、姉はるの遺言を頼りに東京(浅草での髪結奉公)への出奔を決意する。
長井線が、まだ長井駅までしか開通していないときである。
おしんは口入れ屋から逃れて、栃窪から長井駅までの約15K超の道のりを歩いて列車に駆け込んだことになる。
シナリオ(1922.12)で母ふじが、長男雄の出産を控えて上京するシーンがある。
実際、この年12月11日(月曜)に長井線は長井~鮎貝間が開通(鮎貝駅開業)となる。
シナリオでは触れていないが、母ふじは鮎貝までの開通を待ち、初孫誕生に喜び勇んで上京したものであろう。
年明けの(1923)1.14、(おしんは)長男雄を出産。  三高・京都帝大と進学する雄だが、1944.9に出征し、(1945.4.18)フィリピン・ルソン島で戦死することになる。
雄は、1942年に京都帝大文科(経済学部)に入学している。
ブログ子の記憶では、本県の美栄子知事の義父(吉村敏夫さん)も同年入学のはずである。  学徒出陣もされたと聞いたことがある。
フィクションドラマ「おしん」の世界ではあるが、吉村敏夫さんが田之倉雄と京大キャンパスで同級だったことになる。  美栄子さんも知ることはないだろうが。
「おしん」に深く魅せられて15年余りになるが、(勝手ながら)推理読みすると実に面白い。
「おしん」こそ山形の知名度アップの切り札だと考えて、数年来各方面に唱えてきたが反応が鈍い。
それならば、自らヤルッキャないなと、弊社で特許庁の商標取得しちゃいました。関心ある方はお寄せください。090-1495-4008(山形の森)
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テレビがキモイ、AKB族(アカ・カマ・バカ)の氾濫事情

2013-01-21 10:09:02 | Weblog
いまさらではあるが、年末年始のテレビは普段に増してキモイ。
反日左翼系、お笑いバカ軍団、ふざけた幼児性を売り物にするAKB族(アカ・カマ・バカ)の氾濫が目に余る。
気に入った番組でも、出演者にAKB(アカ・カマ・バカ)が目に付くと見る気にもなれない。
純な報道番組以外は、ビデオ取りして休日にまとめて見るようにしている。
CMは当然に飛ばす。バカ番組のスポンサー企業は逆に記憶に残り、買い物をするときにはあえて避けるようになった。
ワイドショーでも左翼系のコメンテーターが出演している番組は避ける。
精神衛生上も知識集約にも百害を感じる。特に最近になってこのような傾向を強く感じるようになった。
思い起こせば、かつて同様な感覚にかられたことがある。
煙草をやめたときである。20代の頃は驚くほどのヘビースモーカーであった。
30代になって思いを決して禁煙に走ったのだが、周りで吸っていることに違和感も持たず、受動喫煙的ものにも適度な心地よさを感じるほどであった。
ところが10年ほど経ったころだが、周りの喫煙に対して不快を感じるようになったのである。
いま思えば、禁煙から10年ほどの期間は喫煙時の悪祖(毒素)が体内に残っており、消え去るまでに10年ほどの時間がかかったことによるものなのだろう。
いまテレビがキモイと強く感じることには、インターネット普及により多様な(真実の)情報が容易に得られるようになり、情報操作(印象操作)された新聞・テレビの欺瞞な正体に気付いたからに他ならない。
デジタル化は情報革命をもたらしている。
AKB族(アカ・カマ・バカ)の氾濫で愚民化・幼稚化を企てるテレビメディアは自然陶汰される時にきている感がする。
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