龍神伝説が伝承される、大沼 (西村山郡西川町沼山)
私が、「おしん」に魅せられた、もう一つの理由とは!。 知り合いにA紙のK記者がいる(現本社論説委員)。
14年前のことになるが、K記者と会った際に、「先頃、脚本家・橋田壽賀子女史に取材した。」と言う。
話を聞きながら、取材メモから話題が進んだ。
橋田が、終戦直後(1945年10月頃)に、約一ヶ月ほど山形県に疎開したときの記憶違いを解き明かしたとされる。
疎開の滞在先が西村山郡大江町左沢との記憶が、実際は隣町の西川町間沢であったこと。 (そのことから、NHKは大江町左沢を前提にシナリオハンティングに入った)
最上川だと(記憶)されたのが、西川町沼山の大沼(長沼)であった記憶違いにあることなど興味を引くものであった(西川町は最上川支流の寒河江川)。
西川町大井沢はロケ地のひとつで、(泉ピン子の)堕胎入水シーンなどが寒河江川上流で撮影された。
K記者の取材過程で、橋田の50年余の前の微かな(真実の)記憶を呼び起こしたのだ。
(1983年)朝ドラ「おしん」放映から16年余経過してブームも去り、忘れかけた頃の20世紀を振り返る社会変遷の世紀末取材だったようである。
A紙面に掲載された取材記文はほんのわずかだが、余りある「おしん」執筆のエピソード、橋田の身上書的なものについても関心を持たずにはいられなかった。
そのなかでブログ子個人として魅せられたのは、(沼である)大沼を大河最上川と記憶違いしてきたことである。
半世紀も前の、わずか一ヶ月ほどの初征疎開先での微かな記憶のなかであるから、誤りがあっても至極当然なことでもある。
実は、この大沼(西川町沼山)を舞台とする地元伝わる龍神伝説として、母の実家(菊地家の先祖伝説)に伝わる「雨池藤五郎伝説」なるものがある。
1596年(慶長元)に先祖菊池藤五郎が、大沼を荒らし回る大蛇の目を矢で狙い打ち退治して、下流域が水利に恵まれることになったと語り継がれてきているのだ。
地元の歴史書にも伝承説として記されてきている。
さらには、藤五郎の祖先を遡ると、940年「平将門の乱」に出てくる琵琶湖で大ムカデを退治した伝説の藤原秀郷(俵藤太)であると、実しやかに関連歴史書に載っているものだから、末裔の一人に擬されるものとしては心中穏やかではない。
藤原秀郷から1100年余の流れを、山形在の今日までつながっているなどとは信じられようないことであるが、伝承説記載の末端にあることは事実のようである。
明治時代の建立であるが、母の実家(寒河江市松川)には伝説碑もある。 (ブログ子は実家の初孫で、ここから寒河江高校に通った)
橋田壽賀子女史が、最上川と記憶違いされた大沼(西川町沼山)がK氏取材で明らかにされ、ブログ子が「おしん」に魅せられ深入りするに至ったもう一つの大きな私的な理由である。
K記者との「おしん(橋田取材)」談から14年余り、「おしん」を私的関心の中で追い続けてきた。
なによりも「おしん」世代を忠実に投影する20世紀の史実に深い関心を以って、自らの歴史観を自分責任で見つめようとしている。
あれは何時だったかとか、あの本の何処に記載していたかなど、記憶力の悪い者と自認している。
だからこそ、パソコンを得てから気になることをメモすることにした。
いまでは1900ページになんなんとする。朝起きてからメールチェック、ネットで新聞各紙閲覧、雑誌・書籍などで気になる項目メモを記入する。
気になるキーワードは検索してメモとして残す。 年内には2000ページに近づくことになるだろう。
私的な、終わりの無い関心事に「おしん」探究テーマがある。
自称「山形阿信研究会」代表を名乗るおしんマニアの「山形の森」です。