山形の森 保守醒論

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加藤紘一の盟友工作員・張香山元中共対外連絡副部長が死去した。

2009-10-14 18:28:30 | Weblog
10.10、加藤紘一が盟友として公言憚らない張香山元中共対外連絡副部長が死去した。
戦前の日本留学経験から、1949.10の建国以来、知日派として(公然・非公然の)対日工作を指揮してきた張香山。
朝鮮戦争勃発(1950.6.25)では、前日までに日本共産党に対して(北朝鮮の南進に合わせ、進駐米軍足止め撹乱に)武装蜂起の指令文書を書き、地下潜行した徳田球一書記長らの中国亡命を支援、「(日共)北京機関」とともに、共産革命対日工作に深く係わってきた中心人物である。
張死去の報に訪中した河野洋平前衆院議長は北京で「非常に重要な人だった。訪中のたびに長い講義(張の工作)を受けたことを思い出す」と呆れたコメントを述べている。
張香山の経歴から中共による対日工作の推移が見えてくる。
鳩山一郎首相の中ソとの国交回復方針の「招き鳩」表明に呼応した、中共政治局で(第一次)対日工作要綱が採択された1955.に中央対外連絡部秘書長に就く。
田中内閣の日中国交正常化(1972.9)を受けた後の「第二次対日工作要綱」に応じて、1973.に中央対外連絡部副部長に昇進(中日友好協会副会長)。
(1976.10文化大革命の終焉、小平復権で4つの近代化政策決定、日中平和友好条約締結で円借款・対中投資策狙いで)1977.中央宣伝部副部長就任と続く。
1992年宮沢内閣(加藤紘一官房長官)で、日中関係の発展への貢献が評価されたとして、日本政府から勲一等瑞宝章が贈られた。
中国の国益を求めた工作外交官・張香山を批難するものではなく、日本人(の国家益)を捨てたような売国振舞いの河野洋平や加藤紘一にこそ矛先を向けたい。
1964.9.9、東京オリンピックの直前に、池田首相は喉頭がんで国立がんセンターに入院、10.25に辞意を表明する。
後継首相が取り沙汰されるなか、吉田茂元首相は池田に「河野のような容共政治家を許すな。(後継首相に河野一郎はダメだぞ)」との書簡を送り、さらにがんセンターを見舞って、後継に佐藤栄作指名を決定付けている。
吉田にとって反吉田の行動よりも、(日本として)中ソ両国との容共関係(売国利権)を深める河野一郎を首相に戴くわけには行かぬ、との判断とされる。
張香山元中共対外連絡副部長が死去したことで、盟友関係の加藤紘一工作員も10.16の葬儀参列に訪中することだろう。
2007.6に中曽根元首相が訪中した際に、首相在任中に親交のあった故胡耀邦元総書記の墓参(1989.4.15没、江西省共青城)を希望したが、(胡耀邦・小平に抜擢されてきた)胡錦涛政権さえにも受け入れて貰えなかった中共政府の対応姿勢。
日本ではどこの誰の墓参をしようが(たとえ犯罪者の墓でも)誰からも問われることなどはない。
いつもながら中国を見るときに、お隣さんの(地勢上の)中国大陸、中華思想・易姓革命の中国人、中国共産党支配体制の現中国、の三つの視点を持たなければと感じてしまう。
先の連休(10.11)に“山形の森(県民の森)”でも散策にとドライブ、ついでに作谷沢(山形市隣の山辺町)に足を伸ばし、「上海ガニ」の養殖池を見てきた。
目視で稚ガニは確認できなかったが、どうも(繁殖力は旺盛だが)共食いが激しく、出荷できる「上海ガニ」までに成長するのはごく一部で、採算性に問題ありと聞く。
なんとなく中国共産党の権力闘争(中国4千年の残虐な粛清史)の歴史に似たものを感じてしまう。
張香山の武装蜂起指令を受けながらも、日本共産党は朝鮮戦争の先制攻撃を(北朝鮮の先制南進ではなく)、南朝鮮(韓国)が侵略戦争を仕掛けたもの、とする党決定を38年間も言い続けてきた訳で(1988.9.8、やっと見直し見解発表)、なんとも頭が狂っているとしか思えないもんだ。
もっとも、共産党以上に狂っているのが(1970.8)日本社会党第3次訪朝(成田知巳委員長)で、金日成主席に「友党的関係締結」(日本共産党に代わって社会党と付き合うから)と言われて、「(朝鮮戦争は)北朝鮮の南進ではなく、韓国軍の北進侵略でございます」と(世界中普遍の)歴史的事実を変えたわけであるから、なんとも呆れて言いようがない。
これらのDNAを持った狂人議員どもが、民主党の仮面を被り(?)国民の支持を得て鳩山政権に就いているのだから・・・。
これこそ“アっと驚く、タメゴ~ロー”って言うんだろうな。
コメント
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