山形の森 保守醒論

山形から発信する内外の時評ブログ!

鳩山政権の麻生・補正予算停止措置の政治的思惑では景気浮揚のアダになる。

2009-10-05 17:46:48 | Weblog
1954.12、吉田内閣の総辞職を受けて鳩山一郎内閣が発足した。
吉田内閣の社会主義陣営を除く親米・(資本主義陣営)多数講和路線に対抗して、(反吉田の)鳩山は中ソ両国との国交回復を目指すことを表明する。
この「招き鳩」の声明に呼応するかのように、翌年初の1.7に共同通信記者の手引きでソ連駐日代表部のドムツキーが文京区音羽の鳩山邸に勝手口から来訪、日ソ間の懸案解決と国交回復の意思表明を述べ交渉開始の端緒となる。
1.10、鳩山首相は会見で「私の内閣では中ソとの国交回復と憲法改正に取り組みたい」との方針を語る。
3.1、中共政治局は王稼祥・対外連絡部長起草の「対日政策並びに対日活動方針及び計画」を採択、「日本解放第1期工作要綱」として日中国交回復に向けた対日工作に入る。
(日中共同声明調印の1972年から「日本解放第2期工作要綱」に基づく工作に切換え)脳梗塞を抱えた病後の鳩山には、先に呼応したソ連との国交回復が在任中の最大目的化となり病状との戦いでもあった。
1956.8.10、鳩山首相は党幹部を招集、日ソ交渉妥結の決意と妥結後の引退意向を表明。
9.6には石坂経団連会長・藤山日商会頭ら財界有志が、自民三役に鳩山訪ソの取止めと政界引退を申入れる。
(交渉内容より)訪ソ調印することが政治家鳩山の(政界人生終焉の)個人的面子と化してしまった感がある。
親ソに走る河野一郎農相は漁業交渉と絡め(河野の北方漁業利権)、北方領土問題を棚上げしての、10.19鳩山訪ソ、「日ソ国交回復に関する共同宣言」となった。
たしかに前進ではあるが、平和条約締結は継続協議となり、半世紀を経ていまだに領土問題の解決をみていない。
政権の政治的思惑と病状から急がざるを得なかった日ソ交渉の調印劇、このたびの鳩山民主党政権にも同様のきらい(政権党の面子優先)が見えてくる。
鳩山政権の前麻生内閣策定の補正予算執行停止の政治的思惑では景気浮揚のアダになる。
ムダを省くことはもっともだが、緊急性があるかないかの議論は景気対策の(自民党の)補正予算か(民主党の)明年度本予算かの違いだけで、(民主党政権による予算策定のための執行先送りで)ただの引き揚げ停止措置では前倒しの実行計画と浮揚期待のマインドを損ねるばかりだ。
いま国民に応える必要なことは景気対策によるより早い雇用の安定確保であり、永田町の縄張り争いを見守るほどの余裕はない。
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中川昭一の訃報を聞き一瞬、「まさか、親父(一郎)と同じか!」と過ぎる。

2009-10-05 12:06:22 | Weblog
中川昭一の訃報を聞き一瞬、「まさか、親父(一郎)と同じか!」との思いが過ぎった。
1983.1.9の中川一郎死去の報は、某新年会の最中で日曜日だったと記憶している。
親子ともどもに、けれんみのない保守派議員として期待していただけに残念でならない。
中川の祖母は東根市神町(小関家)から北海道開拓に赴いたもので、1/4は山形県の血を引く関係になる。
小泉政権5年間の政治的評価は(一定の年次範囲を踏まえて)後世明らかにされるだろうが、中川昭一を始めとして、安倍晋三・麻生太郎・谷垣禎一・平沼赳夫を重用、後継育成に努めたことは事実で、谷垣を除く4人は歴史文化を尊重する結党本流の伝統保守派と言えよう。
歴史観・国家観が決してバランスされているとは言えない小泉元首相ではあるが、中川に次代を担う政治家として期待していたことは強くうかがえる。
自民党再生にあたって、保守の理念構築がいまさらながら叫ばれているが、あえて考えるまでもなく基本は「国家の自立」であり、「国民の安全確保」であろう。
北朝鮮による拉致問題で、自然と反射的に「国家の安全保障問題」を一義に感じ取れる、中川昭一のような安全保障感覚こそ「真の保守DNA」ではなかろうか。
自民党が新総裁に選出した谷垣禎一は、小泉が育てた5人のなかでもっとも「保守DNA」が希薄な人物。左翼民主党との違いを比較できないリベラル派に、積極的な自民党再建策が見いだせるわけはなく、ただ敵失を待つだけである。
安倍・麻生はすでに首相(総裁)経験者、平沼は党外にある。
それだけに中川昭一の黄泉への旅立ちは、腐敗侵攻中の日本にとって大きな痛手である。憂国に暮れまどう“おくりびと”の合掌。
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