政治、経済、映画、寄席、旅に風俗、なんでもありの個人的オピニオン・サイト
とりがら時事放談『コラム新喜劇』



「今度はちょっくらベトナムへ行って来ます」
と数年前、出かける直前に両親に話したら、
「.......そんな危ないところへ行って大丈夫?」
と心配顔で聞き返された。

私がガキだった頃。
ベトナムは戦場だった。
映画「地獄の黙示録」「プラトーン」「フルメタルジャケット」「ディア・ハンター」で見られるようにベトナム戦争は残酷だった。
私の両親の頭の中は、まだまだ30年以上も前のベトナムの映像が焼き付いていた、というわけだ。

その恐ろしいベトナム戦争で活躍した二人の日本人戦場カメラマンが、このほどサイゴン(ホーチミン市=役人以外の地元民が呼ばない総称)の中心でブロンズ像になって飾られることになった。

ブロンズ像にされる戦場カメラマンは沢田教一と一ノ瀬泰造の二人。
産経新聞の記事によると、上記2氏と共に戦場を駆け巡った元UPIカメラマンで骨董商を営むベトナム人が自分の店の前に二人のブロンズ像を建てるのだと云う。

沢田教一は子供を抱いた親子が爆撃から逃れるために必死で川を泳いで渡る場面を納めた「安全への逃避」と題された写真で知られているカメラマン。
それまで無名だった沢田はこの写真でピューリッツア賞を受賞。
一躍世界的な報道カメラマンの一人となった。

一ノ瀬泰造は「地雷を踏んだらサヨウナラ」で有名なカメラマン。
ベトナム戦争の取材に参加したのは戦争終結直前で、ベトナムを写した写真に特筆すべきものはあまりない。
むしろベトナム戦争後のカンボジアの風景の方が有名だ。

偶然に二人ともベトナムではなくカンボジアで命を落とした。
沢田教一はプノンペンから白人の同僚記者と取材に出かけ、その途中でクメール・ルージュと思われる賊に教われ合い方と共に射殺された。
一ノ瀬泰造はポルポト時代の朽ち果てたアンコールワットを撮影しようと試みて、彼もまたクメール・ルージュに命を奪われた。

「ベトナム戦争を世界に伝え、戦争を終結に導き平和をもたらしてくれた二人に感謝して」
というのが、ブロンズ像建立の理由らしい。
しかし、私には観光やビジネスでサイゴンを訪れる数が急上昇している日本人に当て込んだ「客寄せパンダ」ではないかと思われてならない。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



« 「空港共生宣... ミャンマー大... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。