明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(121) 福島出身原発作業員から相次いで内部被ばく発見・・・

2011年05月21日 11時00分00秒 | 明日に向けて5月1日~31日
守田です。(20110521 11:00)

原発のウォッチに戻ります。
非常に重要なニュースが毎日新聞に掲載されました。

「東京電力福島第1原発の事故後、福島県外で働く同県出身の原発作業員から、
通常ならめったにない内部被ばくが見つかるケースが相次いでいる。大半は事故
後に福島県に立ち寄っており、水素爆発で飛散した放射性物質を吸い込むなど
したとみられる。周辺住民も同様に内部被ばくした可能性もあり、福島県内の
一部自治体は独自に検査を検討している。」
というものです。

これらの方々は、福島第一原発近くに自宅があり、事故後に避難などで自宅に
戻ったことがあったり、福島第一、第二原発から他の原発に移った人とみられて
います。

ここから重要なことが二つ指摘できます。
一つに、事故当初、水素爆発によって飛散した大量の放射性物質により
非常に多くの内部被ばくが発生しているという事実です。

つまりこれは原発内の労働で起こったというより、事故による放射能漏れを
原因とするものであり、たまたまこれらの人々が、その後に他の原発で
働いて、ホールボティーカウンターでの計測を受けれたことから表面化
してきたものだということです。

しかも記事は次のようにも述べています。
「3月11日以降、福島第1原発を除いた全国の原子力施設で、作業員から
内部被ばくが見つかったケースが4956件あり、うち4766件はその作業員
が事故発生後に福島県内に立ち寄っていた。」

その中には、「3月13日に福島県川内村の自宅に戻り、数時間滞在して
家族と共に郡山市に1泊して県外に出た」方も含まれている。
わずか数時間の立ち寄りで被ばくした可能性が高いのです。

となるとすれば、その間、原発の近くにいた住民の方々の間で、内部被ばくが、
かなり広範に起こっている可能性があります。この調査が速やかに行われる
必要があります。

すでに放射性物質による汚染が、各地の牧草やお茶、汚泥などから見つかって
いて、放射能が私たちの身の回りから現れてきていることを、これまで
取りあげてきましたが、とうとう、人体への被害の一端が浮上してきてわけで、
とても胸が痛みます。


さらに二つ目に大事なこととして、記事からは、福島第一原発の収束作業の
現場でも、かなり深刻な内部被ばくが起こっていることがうかがわれます。

記事には次のように書かれています。
「福島第1原発で作業拠点となっている免震重要棟は、3月に起きた1、3号機の
水素爆発で扉がゆがみ、放射性物質が一時入り込みやすくなっていたという。
40代の作業員男性は「そこで食事しているから(放射性物質は)体に入っている
でしょう」とあきらめ顔だ」。

この時期には多くの作業者の方たちが、線量計すらつけずに働いていました。
そうした方たちの被ばくの実態はほとんど伝わってきていません。ここでも多くの
情報が隠されているか、調べられていないように思えます。

私たちは、被ばく労働の実態についても、注意を最大限に注いでいく必要が
あります。もやは市民の監視の目のみが、作業されている方たち、周辺に
おられる方たち、そしてまた私たち自身を守るのであるからです。

内部被ばく問題について、続けて考察を行っていきたいと思います・・・。

*****************

内部被ばく:県外原発で働く福島出身作業員から相次ぎ発見

毎日新聞 2011年5月21日 2時36分
 東京電力福島第1原発の事故後、福島県外で働く同県出身の原発作業員から、
通常ならめったにない内部被ばくが見つかるケースが相次いでいる。大半は事故
後に福島県に立ち寄っており、水素爆発で飛散した放射性物質を吸い込むなど
したとみられる。周辺住民も同様に内部被ばくした可能性もあり、福島県内の
一部自治体は独自に検査を検討している。
【日下部聡、石川淳一、町田徳丈、袴田貴行、池田知広】

 ◇事故後立ち寄り…内部被ばく4766件
 経済産業省原子力安全・保安院の寺坂信昭院長が16日の衆院予算委員会で
明らかにしたデータによると、3月11日以降、福島第1原発を除いた全国の
原子力施設で、作業員から内部被ばくが見つかったケースが4956件あり、
うち4766件はその作業員が事故発生後に福島県内に立ち寄っていた。
柿沢未途議員(みんなの党)の質問に答えた。

 保安院によると、体内からの放射線を測定できる機器「ホールボディーカウ
ンター」による検査で、東電が内部被ばくの目安としている1500cpm(cpmは
1分当たりに検出された放射線量を示す単位)を上回った件数を電力各社から
聞き取った。1人で複数回検査を受けるケースがあるため、件数で集計した。
1万cpmを超えたケースも1193件にのぼった。

 いずれも福島第1原発近くに自宅があり、事故後に家族の避難などのために
帰宅したり、福島第1、第2両原発から他原発に移った人たちとみられる。

 柿沢氏によると、北陸電力志賀原発(石川県)で働いていた作業員は、3月
13日に福島県川内村の自宅に戻り、数時間滞在して家族と共に郡山市に
1泊して県外に出た。同23日、志賀原発で検査を受けたところ5000cpmで、
待機を指示された。2日後には1500cpmを下回ったため、作業に戻ったという。

 取材に応じた福島第2原発の40代の作業員男性は第1原発での水素爆発
以降、自宅のある約30キロ離れたいわき市で待機していた。その後、検査を
受けると2500cpmだった。「大半が(半減期の短い)ヨウ素で数値は(時間の
経過で)下がると思うが、不安だ」と男性は話す。

 同県二本松市には「市民から内部被ばくを心配する声が寄せられ」(市民部)、
市は乳幼児や屋外作業の多い人などを選び、県外のホールボディーカウンター
で内部被ばくの有無を測定することを検討している。

 ◇内部被ばく
 呼吸や飲食などで放射性物質を体内に取り込み、体内から放射線を浴びる
こと。体外からの外部被ばくに比べ継続的で危険が高い。体表から10万cpmを
超す線量を検出すれば放射性物質を洗い落とす「除染」が必要とされるが、
東電は内部被ばくの恐れがあるとする目安を、ホールボディーカウンターで
1500cpm超の場合としている。大量の内部被ばくはがんになるリスクを
高める一方、時間と共に排せつされ、排せつも含めた「半減期」は成人では
ヨウ素131で約7日、セシウム137で約90日。

 ◇扉ゆがむ棟「そこで食事すれば体に入って当然」…福島第1の作業員
 福島第1原発で作業拠点となっている免震重要棟は、3月に起きた1、3号機の
水素爆発で扉がゆがみ、放射性物質が一時入り込みやすくなっていたという。
40代の作業員男性は「そこで食事しているから(放射性物質は)体に入っている
でしょう」とあきらめ顔だ。「『ビール飲んで(尿で体外に)出しゃいいよ』って
感じですよ」

 ◇空気中線量高く機器測定不能に
 今月現場に入った作業員男性(34)は内部被ばくの検査態勢の不十分さを
懸念する。「周りのほとんどは検査を受けていない。特に20代の若手が不安
がっている」。東電は3カ月に1回の定期検査のほか、恐れのある時の随時検査
を定める。だが今月16日現在、検査したのは全作業員の2割程度の約1400人、
このうち結果が確定したのは40人にとどまる。最も高い線量を浴びた作業員は
240・8ミリシーベルトで、うち39ミリシーベルトは内部被ばくだった。

 東電によると、同原発のホールボディーカウンター4台は空気中の放射線量が
高すぎて正確に測定できず、使えるのは福島第2原発といわき市の東電施設、
柏崎刈羽原発の3カ所のみ。今後増設するとしているが、内部被ばくした場合、
作業に従事できないのが通例だ。県内のある下請け会社社長は「このままでは
福島の作業員が大量に失業する可能性がある」とも懸念する。
http://mainichi.jp/select/jiken/news/20110521k0000m040151000c.html
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明日に向けて(120) パレスチナとチェルノブイリ、そしてフクシマ

2011年05月21日 09時00分00秒 | 明日に向けて5月1日~31日
守田です。(20110521 09:00)

みなさま。当日、今日の午後の案内になってしまって大変、恐縮ですが、
午後1時30分より、京都大学で、日本中東学会年次大会初日が行われます。

一般公開イベントとして、〈ガザ〉をテーマにした朗読劇「The Message from
Gaza~ガザ、希望のメッセージ~」が上演され、そのあとシンポジウム「抵抗の
文学~世界文学の中のパレスチナ~」が開催されます。

朗読劇を行う「国境なき朗読者たち」を率いているのは、京都大学の岡真理さん。
自転車を送るプロジェクトなどで活躍してくれている先生です。僕の大事な友だち
の1人でもあります。「国境なき朗読者たち」も多くが僕の友だちで、わが連れ
あいの浅井桐子さんも参加します。

僕にはこのガザのこと、パレスチナのことと、チェルノブイリやフクシマのことが
非常に強く結びついていると感じているのですが、みなさんにどう紹介しようかと
考えあぐねているうちに今日になってしまいました。

一度だけ、練習を見に行ったことがあります。もの凄い迫力です。ガザに
加えられた攻撃の様子が、危機にさらされた命のうめきが、朗読によって
再現されていきます。

それを目をつぶって聞いていると、僕の中には、福島原発事故のシーンが
リアルに浮かんできました。結局、つながりは命の問題なのだと思います。
それが理不尽に危機にさらされていることへの憤り、告発が、パレスチナの
ことと、原発事故のことを僕の中で重ねあわさせます。

もし今からでも行ける方があれば、どうか朗読劇にお越しください。
僕もじっくりと聴いてきます・・・。

以下、ご案内です。

*****************

ガザ朗読劇&シンポジウムのご案内
5月21日(土)@京都大学
*******************************************
来る5月21日(土)、22日(日)、京都大学を会場に、日本中東学会第27回年次
大会が開催されます。
初日の一般公開イベントとして、〈ガザ〉をテーマにした朗読劇「The Message from
Gaza~ガザ、希望のメッセージ~」を上演、そのあとシンポジウム「抵抗の文学~
世界文学の中のパレスチナ~」を開催いたします。
入場無料、どなたでもご参加になれます。以下詳細です。

■日本中東学会第27回年次大会 一般公開イベント
[日時]2011年5月21日(土)
    13:30‐17:00(13:00開場)
[会場]京都大学 吉田南キャンパス 人間・環境学研究科棟地下講義室
キャンパスマップ:http://www.h.kyoto-u.ac.jp/access/
*東大路通りに面した西門から入って、グラウンドを左手に見ながら直進、
右手にある5階建ての建物の地下です。

■プログラム
□第1部 朗読劇
「The Message from Gaza~ガザ、希望のメッセージ~」
上演時間:90分
脚本・演出:岡真理(京都大学)
出演:国境なき朗読者たち(京都大学学生・京滋市民有志)

□第2部 シンポジウム
「抵抗の文学~世界文学の中のパレスチナ~」
パネリスト:
鵜飼 哲(一橋大学、フランス文学)
太田昌国(編集者、民族問題)
岡 真理(京都大学、現代アラブ文学)
細見和之(大阪府立大学、詩人・ドイツ思想)
司会:山本 薫(東京外国語大学)

■企画趣旨
「ナクバ」、すなわちパレスチナ人の民族浄化からこの5月14日で63年。イスラエル
では、パレスチナ系市民がこの日、「ナクバ」を記念することを禁じる法案が
先日、国会で可決されました。
2008年12月から翌年1月にかけてイスラエルによる一方的な破壊と殺戮に
見舞われ、依然、封鎖の続くガザは4月、再び大規模な攻撃に見舞われました。
ナクバは終わっていません。パレスチナの民族浄化は、形を変えて、現在なお
進行中です。

第1部では、「ガザ」をテーマにした朗読劇を上演します。
これは、ガザから外の世界に向けて発信された3つのテクスト(1.2008年‐2009
年のガザ戦争のさなかに、今そこで起きている破壊と殺戮の実態をメールで
証言したサイード・アブデルワーヘド教授の『ガザ通信』、2.パレスチナ人作家
ガッサーン・カナファーニーの短編小説「ガザからの手紙」(1956年)、3.2003年、
ガザでパレスチナ人の人権擁護活動中に殺されたアメリカ人女子大生レイチェル
・コリーさんのメール)をコラージュしたものです。
出演は昨年3月の広島公演に続いて「国境なき朗読者たち」。京都大学で
アラビア語を学ぶ学生有志と、京滋市民有志が熱演します。

第2部では、文学・映画・舞台など芸術表現にかかわりながら、現代世界と人間に
ついて深い思想的考察を展開されてきた3氏(ボリビアのウカマウ集団による
先住民をテーマにした映画制作にかかわってこられたラテンアメリカ研究の太田
昌国氏、ジャン・ジュネのルポルタージュ「シャティーラの4時間」の翻訳者でも
ある鵜飼哲氏、アドルノ研究者であり詩人でもある細見和之氏)をゲストに
お迎えし、文学的想像力を導きの糸としながら「パレスチナ」を「世界」に思想的に
接続します。
――――――――――――――――――――――――――――
[主催]日本中東学会
    京都大学大学院 人間・環境学研究科 岡真理研究室
[問合せ]075-753-9621(中東学会年次大会事務局、長岡)
     090-3948-5261(当日のみ)
――――――――――――――――――――――――――――
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明日に向けて(119)津波を泳いで生きのびた”ちだ原人” 東北の旅番外編

2011年05月20日 22時30分00秒 | 明日に向けて5月1日~31日
守田です。(20110520 22:30)

みなさま。今日はちょっと東北の旅、番外編をお送りします。

実は今回の秋田から大崎、気仙沼、仙台、角田と廻った旅の間、僕をずっと
取り巻くものがありました。なんであろう、音楽です!

中心に流れているのは、なんたってレゲエ。それからブルースとかあれや
これや。アビスさんは自分で太鼓を作って叩くし、ギターも弾けば、ベースも弾く。
自宅にはドラムセットまである。

そこにやってくるアビスさんの仲間たちも、やれギターを持っていたり、ドラムが
叩けたり、みんななにがしかをやっている。
それで僕がパソコンにむかって、カチャカチャと入力をしていると、隣の部屋から、
ウンチャ♪ウンチャ♪なんて音が聞こえてくる。

僕は旅の途中も、この「明日に向けて」を書いていて、「プルトニウムの飛散の
可能性あり」とか「1号機メルトダウンの意味するもの」とか、結構、シビアで
ディープなリサーチと考察を行っていたのですが、その向こうから、ウンチャ♪
ウンチャ♪が聞こえてくる。

もういけない。やってられなくなる。部屋を出ていって、思わず演奏に聴き惚れて
しまう。そうすると、僕の頭の中を高速で飛んでいたプルトニウムが、シュルシュル
と音をたててしぼんでいってしまいます。それで、ま、いっか・・・という気持ちに
なる。

あるいはメルトダウンのことを考えていて、頭の中で高熱で溶けた燃料ペレットが
ドロドロと溶けだしているときにも、ウンチャ♪ウンチャ♪が始まる。そうすると
もういけない。燃料ではなくて、僕の目の方がメルトダウンしてきて、そのまま
安らかな眠りに襲われてしまう。眠りにおちつつ僕は、ま、いっかと思うのです。

そんなことが何度もあるうちに、僕の中に芽生えてきたフレーズは、
「レゲエは放射能に効く!」でした。


ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れ。それは本当に深刻で残酷なことです。
しかしもはや漏れ出た放射能と僕らは共存していくしかない。それならそれで
能動的に立ち向かおうじゃないかというのが、最近の僕の持論です。

この中で、能動的な生き方を切り開こうじゃないか。放射能汚染を除去して
除去して、俺らの可能性を作っていこうじゃないかとか思う。

しかしそのためには、カリカリモードだけじゃ持たない。楽しくなくっちゃ
能動的じゃない。結局、愛に溢れ、友に囲まれているのが一番強い。
そしてそれをつなくのはレゲエだ・・・となんだか芽生えてしまったわけです。


そんな僕の微妙な変化を察してか否か、15日の仙台の夜を迎えた時、
アビスさんからあるライブハウスによらないかとお誘いを受けました。
なんでも4周年のパーティーがあるとかで、友だちが集まっていると言う。

アビスさんは僕の疲れも気にしてくれたのですが、僕としてはそれはもう
顔を出すしかないと思い、連れて行ってもらいました。そしたらそこに
なんと、東北の伝説的シンガー、ちだ原人と、バンドのお仲間たちが
出演していたのでした。

これはもう、本当に凄かった!
ちだ原人の歌う姿は、筆舌に尽くしがたいので、とにかくそのかっこいい
姿をご覧ください。

ちなみにこれは、福島原発直近の、双葉郡川内村の「漠原人村」での
祭りの風景です。
http://www.youtube.com/watch?v=9VyhRLFk4mA
http://www.youtube.com/watch?v=VszE64hFjrM&NR=1


さて、この「ちだ原人」こと、ちださん。実は被災者なのです。
なんと、寝泊まりしていた車ごと、波に飲まれてしまった。それで九死に
一生を得て、避難所に辿り着いた。

心配したのはバンドの仲間たち。ちださんのことを必死になってあちこち
探し回った。そうしたら、どこからか「××の避難所に、神様と言われている
人がいる」という情報が入ってきた。

ちだ原人に違いない!
・・・ということで、仲間たちがかけつけたら、そこにちださんがいたのでした。
そんなちださんの生存確認を告げる映像がこれです。
http://www.youtube.com/watch?v=R45OKUPv8DQ&feature=related

さらに、避難所前で、即興のライブなんかをやっちゃってる。
周りにいるのはお仲間たちです。
http://www.youtube.com/watch?v=eJ3SQwlTjHM&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=iY6qg0DD_JY&feature=related


そんなちださん。多くの人に迎えられて、盛岡の居酒屋?でライブを行った。
それが次のタイトルでアップされています。

「ちだ原人津波被災を語る。第1部~第3部」
http://www.youtube.com/watch?v=CUMr4g9nG9U&NR=1
http://www.youtube.com/watch?v=6uhLYVALSps&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=xmhTV3B0Jms&feature=related


ちださんはこの中で、被災した時の事の顛末を語っています。
お時間のある方は、ぜひ直接見て頂きたいところですが、
僕がさわりを紹介するとこんな感じです。

ちださんはこのとき、遠くまでライブに行った帰りで、車に愛用のギターや
写真など、大切なものを乗せて、マクドナルドにいたのでした。

コーヒーを飲んでいて、「おかわりをする前に」地震が起こった! 
みんな慌てて外に飛び出した。でも津波のことはまったく意識になかった。

むしろ建物が倒れてくるのが怖かった。それでどこか安全なところに
行こうと車に乗った。そしてエンジンをかけたとき、遠くの方から、津波で
車がどんどん流されてくるのが見えた。

さすがに大変だ、逃げようとちださんは思った。そして車の背を海側に
向け、走りだしたのです。しかしその後ろから波が追い付いてきた。

ちださんはこれはいけないと、窓をあけ、ドアも半開きにした。でも車は
波によって浮き上がってしまいました。それでちださん、すぐに車から
這い出し、屋根に登った。そこでよつんばいになりました。

でももうどうすることもできない。そのまま、よつんばいのまま、車ごと
流されていったのです。周りには油も流れていた。

波の高さは建物の一階がすっぽり埋まるぐらい。そうしたらあるアパートの
住人が流れてくるちださんをみて、おーいと声をかけて、何かのひもを
投げてくれた。

ちださん、もうそれにすがるしかないと考え、車の上から流れの中に
飛び込んだ。足を何かにしこたまぶつけたそうですが、痛くははかったそうです。
そして必死で平泳ぎで泳いだ。アップアップしながら、必死で泳いだ。

それでアパートの下までたどり着いてひもをにぎった。なんとそれは
電気コードだったそうです。ちださんは必死になってコードを手繰りよせる。
そうしたら、その人が助けようとして近づいてきてしまう。そのため手繰っても、
手繰っても、水から出れなかったそうですが、必死の奮闘ののちに
ようやく這い上がることができた。

・・・そんな風にしてちださんは助かったのでした。


そんな思いを込めて、ちださんは「人生の宝物」という歌をこの居酒屋?ライブ
でも歌っています。最初に紹介した漠原人村のライブでも歌っていますが、
居酒屋ライブや、仙台の夜のライブでは、津波に飲まれた体験が新たな
歌詞として付け加えられました。

ここに映像から拾った歌詞を紹介します。一部、不明なところがあるので
お許しください。この歌はもともと、ちださんのお友達の娘さんが亡くなったときに
作られたものだそうです。なおこれは「ちだ原人津波被災を語る。第二部」の
2分すぎぐらいから歌われています。

・・・ちなみにお仲間が、正確な歌詞をたしかめてくれているのですが、現在、
ちださんは電話を持っていないため、彼からの電話まちの状態だそうです!
連絡を取っていただけたら、ちださんの他の曲の歌詞も紹介します・・・。


*****

人生の宝物  by ちだ原人

石巻に生まれ、育ったオラ
今、こうして盛岡で歌う

こんな俺でも他人を羨み
生きることすらやめたいと思った

でもいいことあるさ、生きてりゃ
ほら、こうして、あなたと会えるし

××のこの歌、聞いてもらえる
生きている意味が、ここにもある


自ら命、捨てさること
それはそれで、自分の生き方

追い詰められれば、リタイヤしたくなる
選ぶのはあなたの、自由だけど

でもいいこと、あるさ、生きてりゃ
ほらこうして、あたなと会えるし

笑顔、涙、いっぱいもらって
ちょっとは得した、おまけの人生


みつけよう 
忘れていた
宝物を
探しにいこう

みつけよう
忘れていた
宝物を


髪の毛がかたまり、後ろ指刺されて
臭い、あやしいと、避けて通られ

そんな俺でも、過去をひきずり
人並みに悩み、苦しみ、もがく

でもいいこと、あるさ、生きてりゃ
ほらこうして、あなたと会えるし

愛してみませんか、気持ち通じる
生きてる意味が、ここにもある


津波に飲まれ、車ごと流され
泥の水を飲み、油の川を泳いだ

そんな俺でも、何度も死にかけ
寒さのあまり、おしっこをもらす

でもいいこと、あるさ生きてりゃ
ほらこうして、あなたとも会えるし

守られてたのかな、とうさん、かあさんに
命の意義、あらためて感謝

みつけよう
忘れていた
宝物を
探しにいこう

みつけよう
忘れていた
宝物を

泣いたっていい、泣いたっていい
うたを××

・・・生きてて、良かった

*****

どうかみなさま、この歌をぜひ、愛しい人か、愉快な仲間と一緒に
お聞きくださいませ!

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明日に向けて(118)気仙沼の渡辺さんのこと3・・・東北の旅第9信

2011年05月19日 22時30分00秒 | 明日に向けて5月1日~31日
守田です。(20110519 22:30)

明日に向けて(117)気仙沼の渡辺さんのこと2・・・東北の旅第8信の続きです。

*******

今後の方向性について伺いました。渡辺さんは、ある程度、みんなが満足でき
ればボランティアをやめて、自分の現金収入を得ようとも考えていたそうです。
しかしまだまだ必要なことがある。食べ物を配っているだけではなくてです。

特に大事なのは、ただ食べ物を配っていてばかりでは、被災者がかえって動か
なくなることにあることでした。そのため状況を把握して、量を制限し始めたそう
です。むやみに渡すだけでは、かえって被災者によくないというのです。

そのため配給する物資も、自立に役立つものに切り替え始めました。例えば
作業服や、道具などです。それがあれば、作業やアルバイトにも出てくれる
のではないかとの期待を込めたそうです。

しかしある程度、落ち着いてしまっている人は何をしても動かないといいます。
被災手当や失業手当をあてにしている。渡辺さんも何カ月後には失業保険は
出ます。しかしその後にどうしても継続的な現金収入が必要になってくる。

そのためにはやはり仕事を探し始める必要があります。仕事はけしてないこと
はない。だから動くのだったらすぐに動いた方がいい。しかし動く気になれない
人たちがいる。その人たちが、次の日から片づけに出た人と差がでてきている。

このため、時間が経ったら経ってで、いろいろな弊害がでてきて、歯がゆい
部分が多いと渡辺さんはいいます。これからは、自立への手助けがどれだけ
できるかだといいます。


しかし自分たちは個人のチームのボランティアなので、できることが限られて
きてしまう。それで渡辺さんは、気仙沼の中で、積極的に動いている他の
ボランティア団体との連携を模索し始めました。

その中で、渡辺さんが知り合ったのが、NPO法人「森は海の恋人」の畠山さん
でした。気仙沼湾で牡蠣の養殖を行う中で、海を守るには森を守らなければ
ならないことに気づいてきた方で、僕自身も注目してきたNPOです。
http://www.mori-umi.org/

同会の養殖の場も、津波によって激しい被害を受けてしまいましたが、今は
気仙沼の復興のために立ちあがり、渡辺さんとの接点ができたのです。
その方が声をかけてくださって、各地で動いている人の集まりが行われた。

そこに参加してきた大きい団体に、ネットワークオレンジというグループが
あります。その人たちの活動を渡辺さんたちも一緒にやらないかと呼びかけ
られ、前向きに考えているそうです。
http://blog.canpan.info/orange-orange/

「報道はもう原発のことにばかり集中していますが、気仙沼はまだまだこれ
からやらなければならないことがたくさんあります。そのためにこうした人たち
とまだまだ活動していこうと思います」と渡辺さん。


最後に、京都から乗ってきたランドローバーの使い道をうかがいました。
渡辺さんがこれまで使ってきたのは、自宅の黒いシビック(ホンダの乗用車)
でした。通勤用の車ですが、段ボール箱が6個ぐらいしかつめない。

使えない車だなと思って、屋根にキャリアでもつけようかなと思っていた時に
アビスさんからこういう車があるという話がきたそうです。4駆自動車など
乗ったことがありませんでしたが、写真を見たら、荷物がかなり載せられる。

それまで軽トラックも考えたそうですが、雨だと使えないし、人がそれほど
乗れない。それでも経費のことなど不安もあったそうですが、今から新しい
車を買う事などとてもできない。

また所有者のNさんが、もし使えなければ処分して現金にしてもいいと言って
くださったことも伝わって、つぶす気は全くないのだけれど、気が楽になった
そうです。ディーゼルの2500CCなので、燃費も稼げそうな気がした。

何よりとにかく荷物が載ることが魅力的で、それでアビスさんにはほとんど
即決で答えを返したそうです。何とかしてくださいと、アビスさんに伝わり、
それが僕に伝わり、京都のNさんに伝わったというわけです。


こうしたことを経る中で、渡辺さんは、アビスさんにはいろいろと世話になってき
たけれど、この人のネットワークは凄いなと思ったといいます。自分は足元にも
及ばないけれど、今からそんなネットワークを自分も作りたいと思ったとか。

そのために、今まで、インターネットを使ったことがなかったけれど、ネット環境
を整えようと思い立ったそうです。オレンジネットワークからも参加の条件
として、ネット環境を整えて欲しいとの話があったそうです。

そうは言っても、現金収入が途絶えている中で、新しくパソコンを調達するには
困難がありますが、今後のことを考えて、何とかしたいと思っているそうです。
そのために、さしあたっては、土木の仕事のアルバイトも考えているとか。

それで軍資金を稼ぎながら、長く活動を続けたいと渡辺さん。自分たちには
公的義援金はこないし、補償もない。しかしゆくゆく自分たちは、パスポートも
とって、他国で何かあったときに、かけつけられるぐらいになりたい。

そんな資金力を持つことも考えようと話しだしているのだそうです。もちろん今は
絶対無理で、まずは気仙沼の復興を見届けてからだと渡辺さんはいいます。
でもモチベーションをあげるために、まずパスポートだけはとるつもりだとも。


この活動をしていると、何だか話がまわりまわってつながってくることを感じる
そうです。いろいろなつながりがでてくる。「面白いですよ。楽しいんですよ、
毎日、毎日」と渡辺さん。「自分が動けば笑ってくれる人が1人でもいる」。

いろいろな状況も見えてくる。何をどうしてあげれば人が喜ぶかが分かる。最近
だと、暑くなってきだしたから、避難所ではタオルケットが欲しいという声が
上がりだしてる。渡辺さんはすでに前から用意していてすぐに配ったそうです。

行政はなかなかこうしたことを把握できない。いまだに毛布しか配布していない。
季節の変わり目すら行政は分からない。先を見据えて動かないと、災害対策
本部は、苦情処理の場になってしまう。それではいけないと渡辺さん。

そのためには、ある程度の権力を持たせてほしいと切望しているそうです。
もっと即決で動ける態勢が欲しい。それでこの日は、このインタビューの前に
気仙沼市長にも会見をしてきたそうです。

短い時間でしたが、幾つか話を聞いてくれて、すぐに実行を移すことに
なったとのことです。具体的には今ある避難所は、横の連絡がない。それを
ネットでつなげば、物資がどこにあるかなど、すぐに分かるようになる。

気仙沼地域に、今、避難所は50前後あり、大きいところはまだ700人いるそう
ですが、物資の流れがとまってしまっている。だから避難所同士のネット
ワークがうまく機能すれば、ある程度のものはそこでまわしていける。

あらためて入れると、先に入ったものを眠らせてしまう。それはもらった人に
非常に失礼なことになる。なので、避難所でもっと物資を有効に動かし、
あまったスペースに米を蓄えていく。そうした提案をしたそうです。


最後に、今後の課題としては、何よりも運営資金をどうするかだそうです。外部
の方たちがそれぞれに義援金の応募をして、それを回してくれてもきたそう
ですが、自分たちはゆくゆくは地元の商店から物資を手に入れたい。

そのための資金力を持ったボランティアへと発展していきたい。いつまでも
人から物をもらって配るだけではいけないのではないかとも思うのだそうです。
渡辺さんもアルバイトをして、運営資金を稼ぐつもりでいるそうです。

そう言いつつ、最後に渡辺さんは、快活に笑いました。
そばにいたアビスさんとポンポン冗談を飛ばし合っている渡辺さん目の
楽しそうな光が印象的でした・・・。

****

以上、3回にわたりましたが、渡辺さんについての報告はこれで終わります。
渡辺さんは、今後、ランドローバーを使った活動の様子を写真に撮って送って
下さるそうです。とても楽しみです。

それにしても、僕自身、自分が乗っていったランドローバーが、本当に
うってつけの人に渡ったことがとても喜ばしく思えました。いやそれだけでなく
実は渡辺さんの活動があったからこそ、僕は東北まで行けたのだと思いました。

もちろん、それには、自転車を被災地に送っている京都OHANAプロジェクト
の面々、それを聞いて、自転車の集積場所を提供するとともに、自転車提供
の呼びかけをしてくれた京都大学の岡真理さんの努力のおかげもありました。

その呼びかけをまわしてくださった京都弁護士会のS弁護士、それを聞いて、
車を提供して下さったNさんと、人の思いが次々と連鎖して、今回の車の譲渡
が実現したのです。それこそ本当に面白い人のつながりです。

ちなみに車を提供して下さったNさんは、すでに僕の2回の報告を読んで下さり
ました。お仲間のSさんともいつもの飲み屋でこの話に花を咲かせたそうです。
そんなNさんは次のようなコメントを寄せてくださっています。

「渡辺さんの活躍、ほんとに頭が下がります。私の京都ナンバーの車が、そんな
渡辺さんに運転されて活躍している姿を想像するだけで痛快です。ほんとに
いい人に使っていただいてありがたいです」

みなさんが、ありがたい、ありがたいという。これは本当に楽しいことです。
僕も最後に、みなさん、ありがとうと言わせていただいて、この回を閉じます。
・・・東北の旅の報告はまだ続きますので、みまさま、お覚悟のほどを(笑)

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明日に向けて(117)気仙沼の渡辺さんのこと2・・・東北の旅第8信

2011年05月18日 23時30分00秒 | 明日に向けて5月1日~31日
守田です。(20110518 23:30)

明日に向けて(116)気仙沼の渡辺さんのこと・・・東北の旅第8信の続きです。

*******

渡辺さんの住まいは大通りにありました。鹿折地区の人が一番、逃げて
来る位置にあり、ハイパーレスキューが来たように外部から車が入ってくる
位置にもありました。

そこにボランティアの人たちが、物資をもって来てくれていた。 初めに来た
人たちは、宛てもないままに、とにかく物資を運んで入ってくれました。それ
が被災地にとっては非常に助けになったのでした。

渡辺さんは、そんな人たちとたまたま話をする機会を持ちました。すると配
る宛てを探しているのだけれど、どこかないかという。それはらば自分の
ところに置いてくれと渡辺さんは名乗り出た。

はじめは食べ物オンリーを4トン車一台に載せてきたそうです。水がどんと
きて、すぐに食べられるカンパンなどが入っていた。それをどんどん被災者
に配った。2カ月経った今は、生活物資が中心だそうです。

流れで言うと、1か月ぐらいから避難所には物資が満ちていきました。しか
し一般家庭にものがまわっていない。それで渡辺さんたちは、その少し前
から物資の配給を一般家庭向けに振り替えました。

その頃、一般家庭はそれぞれに避難民をかかえていました。親戚や知り
合いをかかえて4人家族に15人などという状況でした。そういう家庭では
米は3週間ぐらいしか持たないだろうと渡辺さんは判断されました。

また今でも車に寝ている人がいるそうです。渡辺さんは軽トラの運転席で
寝ている人も見たそうです。そういう人はパーキングにいることが多い。
そこを拠点にしています。トイレや水があるからです。

渡辺さんは、そういう人たちに、運びこまれたおにぎりを配るようにしてき
ました。そのために、渡辺さんが行動するときは、食料と水を多く持つよう
にしているそうです。出会った先々で、渡せるようにです。


このように渡辺さんたちは、物資の配布所のテントを設けて配ることと、
車で配ることを一緒に行ってきました。多くの方が車がなくて歩いて物資を
取りに来たからです。陸前高田の山間部から何時間もかけてきた人もいた。

届ける先は、物資を受け取りに来る人との話の中からみつけました。「何軒
あるの。何人分必要なの」と聞くとだいたい様子が分かるそうです。それで
その人の家に届けて、そこから配ってもらうようにしました。

渡辺さんのグループのスタッフは十人以上。みんな近所の人たちですが、
会社が流されて、解雇になった人が多いそうです。その人たちも収入はない。
でも自分たちは家が残っているからましだ、人を助けたいと頑張っています。

ゲットバックスとい名まえは4月になってからつけられました。最初のころは
個人名でやっていたそうです。「全品無料」という看板を高校生が書いて出
した。スタッフは小学生から48歳まで。大変、明るく運営してます。

男女比は半々で、渡辺さんの小6と小4の娘さんもスタッフとして参加してい
ます。娘さんたちは初めは家にこもりがちでした。そのうち退屈したのか喧
嘩を始めた。それで渡辺さんが被災地を見るかと車で連れだしました。

娘さんたちに、まだ燃えている町を見せて、今は喧嘩しているときではないよ
と教えたそうです。状況を分かって欲しかったのです。そうしたら、もう喧嘩は
しなくなり、お父さんのやっていることを手伝うよといいだしたといいます。

それで配布所に行くようになったら、安否の知れなかった友達と会うことが
できました。先生にも会えて安心してもらえました。そのことが子どもたちに
とってとても大きかったようです。

これは子どもたちのことだけではなく、他の方にとってもそうでした。それぞれ
が誰かのことを心配していましたが、配布所が人の集う場所になったことで、
ある程度の安否情報の確認ができました。


渡辺さんはとにかく無我夢中だったそうです。普通の状態ではなかった。
渡辺さんは、「自分は普通のサラリーマンで会社にしがみついていた男です。
でもこういうことに携わるようになって、自分でも変わったと思います」という。

子どもさんからも、「お父さん、変わったね」と言われたそうです。「お父さんが
こんなに人のためにいろんなことをする人だとは思わなかった。お父さん
かっこ良くなったよ」とも言われたのだそうです。

渡辺さんは、「こんなイモみたいな顔なんですけれども」と照れて、恥ずかし
そうに笑いました。「それで俺ももっと助けられる人を助けようと思って、
ここまでこれたのだと思います」とも。

ここまでの二カ月、途中でしんどくなったこともあったそうです。眠気を通り
越して、わけがわからなくなって、日付も曜日も分からなくなってしまいました。
そのまま40日間はほとんど休まずに活動を続けた。

しかしその頃、ある人に何も毎日、配布所をやらなくていいと言われて、なる
ほどと気付き、今は曜日指定にして、火木土日にしていて、その間に別のこと
をしたり、身体を休めるようにしているそうです。余裕が持てるようになった。


行政との関係では、最初はもう無視して進めたそうです。おうかがいをたてて
も、判断をしてくれない。暫くして学校が始まったとき、通学路にがれきが散乱
している。ある子が、「危ないので、おじちゃん、なんとかしてと」言ってきました。

それで役所に問い合わせたら、そこまで手が回らないという。いつになるか分
からないとも。自分たちは男5人いるので、やらせてくれと言ったら、いいとも
言えない、悪いとも言えないという。それで、じゃあやるとよ始めることにした。

一日かかってやったそうです。軽トラックを借りて、手で車に運んで、捨てにい
きました。それで道ができて、市に連絡をして、車が通るには危ない通りなの
で車両通行止めにして欲しいと伝えると、それもできないと言う。

ところが次の日にみたら、気仙沼市の車両通行止めの看板が立っていたそう
です。ところが自分たちには、御苦労さんの一言もない。すぐそばにいたのに
です。そういう対応に、渡辺さんは疑問を持ったそうです。  


渡辺さんたちが取り組んだ、地元の鹿折小学校の掃除もそうでした。学校の
校庭には、流されてきた車が30台ぐらいありました。学校が始まったのに、
校庭はヘドロで泥だらけだし、車が転がっているばかりです。

それで市の方に対処を聞いたら6月末になるという。なぜかと聞いたら、車は
所有権があるというのだそうです。「あれ、ガソリンが入っているし、バッテリー
がつながっているから爆発するよ。どうするの」と渡辺さんは言いました。

でも方向性が決まってないと言う。それで校長先生に「全部俺が責任を取る
から黙認してくれ」と言ってやったそうです。ヘドロも重機を借りてきて、地面を
すくって、どける作業をした。やってみれば簡単で、半日ですんだとか。

それまで子どもたちは、校庭で遊ぶなと言われていたそうです。危険だったら、
危険なものを取り除けばよいのに。遊べる校庭があるのに遊べないのは、
子どもたちにとって酷なことだと考えて、渡辺さんは作業を実行しました。

そうこうしているうちに渡辺さんは湊富士親方の相撲部屋と出会いました。
おかみさんがネットで渡辺さんの活動を知って、連絡して来てくれたのだそう
です。その方たちが、気仙沼で炊き出しをしたいという。

それならば鹿折小学校でやろうとなりました。そうしたら子どもたちが凄く
喜んでくれたそうです。400人ぐらいの人が集まった。また今月末にもやろうと
いうことで、そのために何度も電話をし、何が必要か考えてくれているそうです。


ゴールデンウィークを過ぎて炊き出しなどはめっきり減ったそうです。タレント
の支援もゴールデンウィークに集中した。またそのときは車がいっぱいで
自分たちの活動ができなかったそうで、渡辺さんは夜に移動していました。

この頃は、ボランティアだけでなく観光客が多かったといいます。写真を撮って
くれといわれて、ふざけんなと思ったことも。被災地をバックにピースをする人が
いるから、「そこから亡くなった人が見つかったよ」と事実を告げたといいます。

「写真に何が写っても俺のせいではないよとも言いました。だって写るのだもの。
そういうところに遊び半分で来る気持ちが悲しすぎる。被災している人が
見ているのだから、もっとこそっとやれと言いたかったですね」

続く
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明日に向けて(116)気仙沼の渡辺さんのこと・・・東北の旅第7信

2011年05月17日 23時30分00秒 | 明日に向けて5月1日~31日
守田です。(20110517 23:30)

みなさま。本日午前11時半に京都に戻りました。
9日から17日までの東北の旅が終わりました。お世話になったみなさま、
本当にありがとうございました。

東北の最後の夜の昨夜は、これまでの旅で原発に最も近い地域である
宮城県角田市のピースファームでのお話会になりました。近隣の方を
中心に25名ぐらいが集まってくださいました。

中には原発直近の双葉町から避難をしているご夫婦や、南相馬町から
避難しているお坊さん、浪江町にいたことがあり、双葉高校を母校と
する方などもおられました。原発事故への当事者性が濃い集まりでした。

その昨日の夜も、大変、深くて感動的なことが多かったのですが、その
報告は少し待っていただいて、もう少し気仙沼での話の続きを書かせて
いただきたいと思います。


今回、ご紹介したいのは、渡辺道徳さん(43)のことです。僕が届けたランド
ローバーを使われる方です。現在、ゲットバックス気仙沼というグループを
立ち上げて、被災者支援のボランティが活動をしています。

渡辺さん自身も、気仙沼市の鹿折地区のご出身です。ここの海側は、前回の
報告でも書いた大きな船が乗り上げているところです。渡辺さんの家はその
地区を流れる川の上流沿いにあり、津波の被害は受けられませんでした。

311までコンクリートミキサーの運転手をされてきました。地震当日は、
いつもは一番忙しく配達で稼働している時間ながら、なぜかこの日は
会社におられました。

地震が起こった時は、会社の外にいましたが、すぐに収まると思った
ものの揺れがなかなか止まらず、会社のプラントが倒れるのではと
思ったそうです。

実際には会社は致命的な被害は免れましたが、電気がこなくなったことも
あり、3週間くらいはストップしてしまいました。その時点で休業状態に
なり、すぐに自宅に戻りました。

その途中に娘さん二人が通う小学校があるので、助けに行きました。しかし
学校には娘さんたちはいませんでした。もう先生たちが高台に避難させて
くれていたのです。親が来れば渡すということなので、車で迎えにいきました。

そうしたら、自宅のそばの川まで津波があがってきました。その下流の方に
ご両親がおられたので、助けにいかなければならない。でも車ではとても
無理だということで、原付バイクで救助に向かいました。

お父さんは寝たきりで気管切開を行っており、痰取りの機械をつけている
そうです。それが停電で動かせないとのお母さんからの連絡があり、車から
電気を取れる電気コンバーターを探しました。

それをたまたま近くにいた車から分けてもらって、ご両親の家に急ぎ、車に
つないで機械を動かしました。ほとんど呼吸が止まっている状態でした。
普通だったらダメだったそうで、実際に5名ぐらいが亡くなったそうです。

それで一安心しましたが、知り合いが波に飲まれたと聞き、またおじさんの
家が火事の中にあったそうで、助けに向かいました。そうするとおじいさんが
倒れていました。波をかぶったのでしょう。真っ青になって震えていたそうです。

さらに助けに行こうと最もひどい現場に向かおうとすると、もう警察や消防が
ラインを張っていて入ることができない。それで自分に出来ることは何かを
考えて、どんどん逃げて来る人たちを助けだしたといいます。

逃げてきた人が水をくれといいます。渡辺さんの地域は市街と水源が別で
水道も止まらなかったのでそれをペットボトルに入れて振る舞い、冷蔵庫の
中のものを避難してきた人に食べさせました。

そうすると二晩過ぎた朝方の4時にごそごそと音がする。外をみたら45人ぐらい
の人が焼け出されて避難しているのです。お年寄りが多かった。その人たちは
渡辺さんの父親の里の人たちでした。それで近くの避難所に送り込みました。

その人たちはもう限界でした。寒さと空腹で。しかし避難所ももう限界だと
言われてしまいました。それでひとまずおいてくれといって、家に帰り、近所に
呼びかけて毛布や服を集めて、2トン車で2台分ほど運んだそうです。

その中で他の地域からトラックで入ってくる人との出会いができました。困った
人に配ってくれとどんどんと置いていってくれます。それを配る生活が始まり
今日にいたりますが、渡辺さんたちはみんな自腹でやってきました。

車の油代だけで2カ月で20万円はかかった。当初は会社が給料を出してくれた
のでそれを活動資金にしていましたが、渡辺さんは3月31日に仕事を辞めてし
まいました。焼け出されている人もいるので、仕事には戻れなかったのです。

「自分はまた平気な顔をして気仙沼市内を走れない」と感じたと渡辺さん。
こうした現実を見ない人は「何をやっているの、生活の保障はどうなる」と聞いて
くるそうです。「でも自分が今、動けば10人や20人は助けられます」。

「だから自分はやる。収入がなくてもいい。市民のみなさんが、ある程度復帰
できるまでやると決めました。それで会社を辞めました。みんなびっくりしました
ね。家のものも驚きました。妻には事後報告でした。」


渡辺さんは、その頃は本当に無我夢中だったそうです。アビスさんにもそんな
ときに会いました。もういつ寝ているか起きているか分からない状況で、14キロ
ぐらいやせてしまいました。寝るのも食べるのも忘れてしまったのです。

とくに「あの火事をみたからだ」と渡辺さんは言います。目の前でプロパンが、ボン、
ボンとはじけていたそうです。あの中に人がいるのだろうなと思って見ていた。
恐怖と同時に悲しさもあったそうです。

そのときは東京消防庁のハイパーレスキューの人たちがやってきて、少し高台の
国道沿いから一緒に並んでみていたそうです。レスキュー隊員の中にも悔しいと
泣いている人がいた。もう少し早く来れば、何人かは助けられたのではないかと。


逃げてきた人たちの話を聞くと、悲惨なことがたくさんあったといいます。一つの
例を上げると、ある男性の方は、親御さんを在宅介護をしていた。そこに津波が
迫ってきて、親も自分も首まで水につかってしまった。

これはもう助けられない。そう考えて、その方はひとたび親の手を握ってから
下に置いて、手を合わせ、そのままおいて逃げたそうです。「泣き泣き逃げたと
言っていました。究極の選択ですね。一瞬の判断だったと思います。」

そうしたら川の中を小学生の女の子が生きたまま流されてきた。
その方は、その女の子を必死で助けた。それが救いだと言っていた。
親を捨てたけれども、もう一つの命を救うことができて、救われたと。

そういう人たちが川沿いにはたくさんいたそうです。親子で手をつないで逃げて、
子どもだけが流されてしまった母親もいた。なんで手を離してしまったのだろうと
悔んでいましたが、波の姿がすごくて、すとんと持って行かれてしまったそうです。

それで一晩目は、うめき声が凄かったそうです。助けてーとか、おーいとか、うーと
うなっている声が響いていたそうです。しかしどこにその人がいるか分からない。
そのまま寒さの中で死んでいった人たちがたくさんいたのだと思うと渡辺さん。

山の方に逃げたので、一晩、そこにいて、寒さで亡くなった方もいたそうです。
そうした話を渡辺さんはたくさん聞いたといいます。それぞれにまったく違った
体験をしている。同じ話はない。それぞれがたくさんのことを見てきている。

ただサバイバルの知恵を知っているかどうかが一つの境目だったようです。
キャンプの経験などがある人は、自分で火を起して、流れてきた物資の中から
食料をみつけ炊いたりもした。そうしたことが全くできない人もいたのでした。

続く

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明日に向けて(115) 陸前高田・福伏避難所で・・・東北の旅第6信

2011年05月16日 15時30分00秒 | 明日に向けて5月1日~31日
守田です。(20110516 15:30)

「明日に向けて(113) 気仙沼を訪れて・・・東北の旅第5信」の続きをお送りします。

****

再び、陸前高田・福伏の話をします。ここは家が47戸、人口は約160人の集落です。
その多くの人が高台に逃れましたが、津波が家々を襲い、17戸は完全に流失、
その他の2戸を含む19戸が甚大な被害を受けました。しかも周辺の道路が
津波で寸断され、陸の孤島になってしまった。

その状態で人々は夜を過ごさなければなりませんでした。地域の公民館も
流されてしまったために、少し高台にある街道沿いにあった建物を避難所に
当てました。津波の被害に合わなかった家から布団などが持ち込まれました。
しかしこの夜はとても眠れなかったと言います。

避難民となったのは、集落の人ばかりではありませんでした。道路が寸断されて
どちらの方面にもいけなくなってしまったため、通行中の人も、福伏近辺から
動けなくなってしまいました。すぐに食糧を持ち込んで炊き出しを始めたそうですが、
これはこうした通行人にも配られました。

その日の夜、気仙沼方面の山の上が真っ赤に染まっていることから、気仙沼の
火事が分かったそうです。情報はほとんど入らず、わずかに携帯電話の
ワンセグ機能だけが有効だったとか。電池が切れると車を利用して充電して
情報を取り続けました。

翌日からも活発な活動が始まりました。とにかく生き延びなくてはならない。
気仙沼への道路が通ったのは3日目でした。すぐに行ったのは透析が必要な
方を、病院へ搬送することでした。陸前高田方面への道は、それから数日
経って、開通したそうです。

避難所の指令センターになるテントができたのは4日目。またこのころ、被災地
で泥棒などが発生しているという情報が流れていたために、夜警隊も組織した
そうです。やっと通った道路を、確かにあやしい車も通ったそうですが、目に
見える形で夜警をおこなったせいか、とくに被害はありませんでした。

その頃、やっとのことで物資が供給されはじめました。真っ先に到着したのは
ボランティアの人たちだったそうです。続いて自衛隊が入ってきた。ありがた
かったのは、何よりも水と食料、そして防寒できるもの・・・カイロや着る物、
毛布だったそうです。

多くの家が暖房にファンヒーターを使っているため、暖が取れなくなってしまって
いた。停電で電気製品がまったくダメだったからです。夜もロウソクですごさねば
ならず、情報を得られるのはラジオとワンセグだけでした。そういう状態なので
食糧と防寒具が届けられるのが本当にありがたかったそうです。

早くからかけつけてきてくれたボランティア団体の一つは、RQ市民災害救済
センターでした。この団体は後に、被災者を温泉地までマイクロバスで送迎
までしてくれたといいます。3月いっぱいです。他にもいろいろなボランティア、
自衛隊、警察にとても助けられたと小松さん。

一方で自分たちでも積極的な活動を展開していきました。燃料を集めたり、
物資を分けたり、やることはたくさんあったといいます。もともと地域で
組織していた自主防災組織がとても役に立った。これまで訓練をしてきた
ように、おのずと役割分担ができていって、仕事が割り振られていった。

この点が、大きな都市の避難所との違いではないかと小松さんは語ります。
大きな避難所では、被災者は食べ物や物資を待つ以外にやることがなくなって
しまう。そうすると災害で失ったものへの悲しみと、これからの不安ばかりが
思い浮かび、鬱やノイローゼになってしまう。しかしここはやることがある。

また顔見知りのご近所で避難所を作っているので、メンバーの間の結びつきが
強い。とにかく命をつなぐために、誰もが自分の役割を果たすために必死だった
といいます。そしてやることがあれば、悩んだり、悲しんだりばかりしなくても
いい。とにかく人との結びつきと、自分にやることがあることが大切なのです。

しかし震災から2週間ぐらい経ったころから意識の変化があらわれてきたそう
です。とりあえず命の危機は去った。地域の知り合いの身元の確認も一段落
してきた。そうなるとやはり今度、どう生活していくのかを考えなければいけない。
そうなると家がある、ないという大きな現実が誰の目にも見えてくる。

被災者にとって家があるのかないのかは、本当に大きな差です。それを完全に
平等にすることはできない。しかしその差が、差別になってはいけないと小松
さんは考えたそうです。それで例えば衣服や防寒具は、初めから家が流された
方たち優先で配ったのだそうです。家のある人はその余りを分け合った。

しかし食糧は初めから平等で分け合いました。この中には、家のある人が
持ち込んだものもありました。届けられたものを含めて、自分たちが手にできる
食糧を集めて、平等に分けたのです。他にもいろいろな点で配慮をしたと
いいます。

それでもだんだん仕事のあるなしの問題も浮上してくる。この地域は三分の一
が漁業、三分の一が農業、三分の一が勤め人だそうなのですが、働き口の
ある人と、ない人の差異ができてしまう。それは仕方のないことだけれども、
小松さんはなんとかその差を埋めたいと考え続けてきました。

この頃、ガソリンや灯油も入りだしました。ガソリンがあり、道が通れば、外に
買出しにもいける。そのため物資の必要性もかわってきました。このため
外からの供給への依頼も、全体に必要なものは何かを考え、それを効率よく
分け合っていくことが必要になりました。

このころからボランティアも頻繁に入ってくるようになり、炊き出しサービスなどが
なされ、それへの対応で忙しくなりました。それがゴールデンウィークまで続き、
その後、こうしたイベント的な行事が一段落しました。この間、マスコミの取材も
かなりきました。小松さんは新聞など、文字媒体の取材には積極的に応じました。

ゴールデンウィーク中は、他県ナンバーで、被災地を観光していく方も多くいて
腹立だしい気がしたといいます。避難所の駐車場にも勝手に入ってきて、無神経
に写真を撮っていったそうです。しかしそうしたことも、ゴールデンウィークが
あけて一段落しました。


それでは今後はどうするのか。家のない人が家を持つことが一番大事
だと小松さんは語ります。ではどうするのか。実は近くの高台に、小松さんの
家が持つ畑があるのだそうです。小松さんはその場所を中心に、周りの地権
者に頼んでまわり、避難村・復興村を建てようという構想を立てています。

住むところができたら、第二段階として違う場所に職能ごとに集まって、
共同経営の工場を建てたいと小松さんは考えています。一次産業の漁業は
再開するのは大分、先のことになるだろうし、農業も平野でコメつくりをしていた
ところは先までかかる。なので第二次産業からはじめようというのです。

つまりとりあえずの命をつなぐ段階、その次の生活を徐々に建て直していく
段階を超えて、家のない人が家を得ること、仕事のない人が仕事を得ること、
それをも地域の力でなし遂げようと小松さんは考えている。いや小松さんと
地域の方たちが考えているのです。それが集落の復興の展望です。


ここまでお話を聞いたのちに、原発事故についてのお話を聞きました。
そうすると小松さんは、これまでもここに取材にきたさまざまなマスコミに
ここでも原発のことをとても心配していると伝えてきたことを教えてくれました。
マスコミの側からはこのことは聞かれない。だから自分から言ってきたという。

当初から、ラジオなどで、また電気が使えるようになってからはインターネット
などで情報を懸命に集めたそうです。もともと小松さんはチェルノブイリの
写真展をしたこともあって、原発の事を良く知っていた。原発がアメリカに
押し付けられた経緯などもおさえていました。

小松さんはそんな話を、夜警をしながら、若者たちに教えたそうです。広瀬
隆さんの話をしたり、チェルノブイリの被害などを語って聞かせたとか。
そうしながら原発の情報を集めた。女川原発もとても心配だったといいます。
福島はメルトダウンするのではと話し合ったそうです。

しかし何かあっても、すでに津波から逃げてきている立場で、とても動くことは
できない。物理的にも経済的にも無理なのです。そのため津波で逃げて来て
いて心理的に追い詰められているのに、その上に原発の心配が重なって
ハラハラし、苦しい思いをしてきたそうです。

またそうした中でも東京方面からこちらを心配してボランティアの人がやってくる。
その方たちが福島を通ったり、北陸にまわるなどして、福島を迂回したことなどを
聞けば聞くだけ、被ばくの恐れのあるボランティアの人々に対しても、福島の
人々に対してもとても胸が痛んだそうです。

しかしこうしたことに何らかのアクションが起こしたいとは思うものの、生活再建
に手一杯でとても動けない状態です。沿岸部でも自分と同じように、心配している
人はいっぱいいると思う。しかし今回は自分たちのことで精一杯でそれは
責められないと思うと小松さん。

そうした中で、被災地以外の方々に伝えたいのは、ここの被災地でも、若い方
たちを含めて、本当に原発のことを心配していることだと小松さんは語られました。
被災は、津波だけではなくて、原子力事故もそうなのです。また被災による区別が
差別になっていくこともあちこちでおこっている。それも人災なのです。

被災地にお金を出していただいている方がたくさんおられて、ありがたいこと
ではあるけれど、現地に来て見なければわからないことがある。またきていただい
たら、何か動いて欲しい。原発に対する関わりも似たところがあり、自分で
考えて行動することが一番大切だと思うと小松さんは語ります。

何ミリシーベルトだったら安全だとかいうことではない。そんなものが検出される
こと自身が異常な状態です。「なんでそれを考えないの・・・」ということだと小松
さんは言う。「自然界にも放射性物質はあるけれど、それを凝縮するのがいかに
危険なことか。人間は自然な状態でなければ生きられないのです。」

津波被害に多くの方が善意で心配してくれることは分かる。でも津波だけでは
ない。原発事故もある。それを同じように考えて欲しいと小松さん。「津波が起こ
ることは防げません。しかし原子力事故は防ぐことができます。原子力をやめる
のは簡単なことではないかもしれませんけれど。」

小松さんは最後に次のように語られました。「災害全体を振り返ってとき、行政の
対応などで、批判したい点もあります。しかしそれを今、言うことよりも、この中で
学んだものを生かしていくことが大事だと私は思います。知恵をつけなくてはいけ
ない。それが生き残ったものの使命だと私は思うのです。」

***

福伏の小松さんの話をこれで終わりますが、僕は始終、小松さんの熱い思いに
共感しっぱなしでた。どうか感想がある方はmorita_sccrc@yahoo.co.jpまで
お寄せください。小松さんにお届けしたいと思います・・・。




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明日に向けて(114) 京都で脱原発ウィークが進行中・・・

2011年05月16日 13時00分00秒 | 明日に向けて5月1日~31日
守田です。(20110516 13:00)

仙台から少し南に下がった国道沿いのネットカフェから発信しています。

東北の旅は毎日が大変、刺激的です。たくさんの方から話を聞いたのですが、
文字にする時間が足りない。というよりも、この旅では僕がパソコンに向かって
いると度々、レゲエの音が聞こえてきて、ウンッチャ、ウンッチャというリズムが
あるときは目をとろんとさせ、あるときは心を浮き浮きさせて、パソコンの前から
僕を離してしまうのです。ウーム、レゲエ恐るべし。放射能とどちらが強いの
だろう。・・・この件に関しては、後日、きちんとした考察をお届けします(笑)

さてそんなわけで、今、旅の報告の続きを大急ぎで書いているところですが、
先に、今後の予定をお知らせしておきます。
今日は夕方に、宮城県角田市のピースファームという農場を訪問し、交流の
ひと時を持ちます。この地域一体の放射線量を測っている方も、駆けつけて
くださるとの連絡が入っています。充実した討論の場が作れるといいです。

今宵は角田市で泊めていただき、いよいよ明日、東北を離れて京都に戻ります。
昼には京都駅につく予定です。
その後、出町柳にて午後1時半と午後6時から、お話をします。
すでに案内を出していますが、もう一度、このメールのあとに貼り付けておきます。

京都ではすでに昨日からぶっとおし1週間デモが行われていますが、22日には
原始力の会とピースウォーク京都よびかけのデモが行われます。

またこの時間にかぶることになりますが、山水人たちのイベントも行われます
のでこれも紹介しておきます。僕はがっちりと心でつながったイベントだと
思っています。京都のみなさま、自分のスタイルにあっていると思うものに
お越しください。

この日は「幸せの経済学」も2回上映されます。1回目の上映をみてデモに行く
こともできるし、デモをしてから夜に映画をみることも可能です。もちろんこれに
山水人のイベントをからめることも。(それでは体がもたないかな?)

僕自身は、2回目の上映会に参加して、上映のあとに少しお話させてもらいます。
タイトルは、「不幸せの経済学・・・原子力発電」でいきます。

どうか京都のみなさま、関西のみなさま、今週から22日にかけての京都の
イベントにご参加ください!


************************

「これからどうなるの?どうすればいい?ー守田敏也さんを迎えて」
~明日に向けて  福島原発事故…ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの
中で、私たちはいかにいきればよいのか。共にかんがえましょう。~


今も放射能を出し続ける福島第一原発。
メディアからは今、どういう状態なのかよく分からない。
だんだん危機感も薄れてくる。京都はけっこう離れてるし。
それでも原発では今も決死の作業を続けてくださってる人がいる。
放射能をいっぱいあびながら。

守田さんに、今原発で起こってる現状やこれから起こりうる可能性などに
ついてお話していただいた後、質疑応答、みんなでこれからどうすれば
いいのか、一緒に考えたいと思います。

お子様がいらっしゃる方にもぜひ来ていただきたいので、平日の昼間と
夜の2回、行います。
参加無料。


2011.5.17(火) ①pm1:30~3:00  ②pm6:30~8:00
出町柳アカテレテコベソベサーバ 京都市左京区田中下柳町3-17


*守田敏也(もりたとしや)
同志社大学社会的共通資本研究センター客員フェローなどを経て、現在
フリーライターとして取材活動を続けながら、社会的共通資本に関する
研究を進めている。


問い合わせはこちらまで
sovesahva@sovesahva.org
http://www.sovesahva.org

*************************

◎5月22日(日)
UNIチャリティーフェスティバル

日時・場所・主催者

場所:京都市国際交流会館(蹴上)の前庭
日時:5月22日(日曜日) 11 : 00 ~17 : 00
主催:NPOユニ
後援:浄土宗平和協会・グリーンアクション・MIDIレコード・山水人

本イベントについて

本イベントは、東日本大震災支援チャリティとして開催されます。
イベント内で発生する純益100%が支援金に使われます。

入場無料・小雨決行です。
集計結果およびイベントによる支援活動についてはHP上で公開致します。


イベントスケジュール

11:00  イベント開始
11:30  [講演] アイリーン・美緒子・スミス 
12:30  [LIVE] 岡野 弘幹
13:30  [講演] 平賀 緑
14:30  [LIVE] 三結(みゆ)(Jazz)
15:30  [LIVE] 遠藤りょうきゅう & LAMANI
17:00  イベント終了

http://npouni.net/event/

以上です、皆様のご参加を希望します。

*********************


『幸せの経済学』
http://www.shiawaseno.net/

予告編
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=iqjvmV4qOe0

上映会開催場所と上映時間及びスケジュールについて
http://www.shiawaseno.net/archives/1262


【主催】       Forest Book Store&カルメン 
【日にち】     2011/5/22
【場所】      social kitchen(京都市上京区相国寺北門前町699)
【料金】      1000円
【人数】      40人
【お申し込み】   
fbs.carmen@gmail.com090-6966-9475

【イベント詳細】  
18:30 開場
19:00 上映
20:20 終了+休憩
20:40 スペシャルトーク(守田敏也)
21:10 フリータイム
21:30 閉場
アクセス
京都市上京区相国寺北門前町699 Social Kitchen
地下鉄「鞍馬口」徒歩5分
http://hanareproject.net/

*ご近所に迷惑がかかるので、自転車での来場は御遠慮下さいませ。
お車で来場の際は、近くのコインパーキングを御利用下さい。
なお、会場は2階ですが階段のみです。不便をおかけ致します。


【メッセージ】 
地域の人が年齢、性別、趣味、興味、人種、国籍で溝を作ることなく、お互いが
気持ち良くつながりを持って交流できる社会にしていきましょう。なるべく肩ひじ
張らずゆるく(笑)。
今回の必要経費を差し引いた売り上げは全額「みちのく応援隊」へ寄付します。
みちのく応援隊について
http://sites.google.com/site/michinokuoentai/

だぶるけど上映会会場「ソーシャルキッチン」↓のアクセス
http://hanareproject.net/

************************

『幸せの経済学』上映会
 5月22日(日)13時(12時半開場)、京都市下京いきいき市民活動センター3F
(京都市下京区上之町38。JR「京都」より徒歩10分。周辺に有料Pあり)
TEL075・371・8220。

上映作品=『幸せの経済学』
 人や自然のつながりを取り戻す暮らし方を探るドキュメンタリー。今、問われる
幸せとは? 真の豊かさとは?

 上映後、シェアリングあり。映画鑑賞のみの参加可。
 監督=ヘレナ・ノーバーグ=ホッジ、スティーヴン・ゴアリク、ジョン・ペイジ
 出演=ヘレナ・ノーバーグ=ホッジ、ヴァンダナ・ジヴァ、辻信一 ほか
 (2010年/アメリカ、ニカラグア、フランス、ドイツ、イギリス、オーストラリア、
インド、タイ、日本、中国/68分)

 600円。定員100人。※予約・当日可
 申し込み・問い合わせTEL090・3782・5930/shiawase_kyoto@yahoo.co.jp(「幸せの経済学」プロジェクトin京都:森)。
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明日に向けて(113) 気仙沼を訪れて・・・東北の旅第5信

2011年05月15日 02時00分00秒 | 明日に向けて5月1日~31日
守田です。(20110515 02:00)

みなさま。今、僕は岩手県一関のアビス亭にいてこの通信を書いています。
アビスさん宅から気仙沼までは数十分。もともと気仙沼出身のアビスさんは
各地を回って、この地に戻ってきたときに、山側のこの地に住居を求めた
のでした。

この3日間、ここを拠点にいろいろな場所に行き、いろいろな人と出会い、
いろいろなことを聞いてきました。あまりに密度が濃くて、なかなか文字に
落とせませんでしたが、今宵はできるだけ聞き取った内容を文字にして
おこうと思います。ちなみに明日、早朝にここを出て、仙台に向かいます。

さて僕がここについたのはもう3日前のこと。以降、ちょっと休んでからさっそく
気仙沼に連れていってもらいました。気仙沼は・・・とにかく凄かったです。
津波のもの凄さが表れている。僕は阪神大震災直後の神戸の街を
歩いたことがあるので、それと比較しながら被災状況を見てまわりました。

一番の違いは、阪神大震災にはなかった津波の被害の激しさが表れて
いること、とくに大きな漁船が何艘も、陸地に乗り上げて、そのまま横たわって
いることでした。ひときわ大きな船が水産加工工場の横に今もデンと置かれて
いる。ここはよくテレビにも映るところで、11日には追悼会も開かれたそうです。

アビスさんが船をさして、「実はあの船の下敷きになっている家が、僕の
友人の実家なんですよ。15日に仙台にいったときに泊めて頂く友だちです」
と教えてくれました。津波がきて、船が入ってきて、波が引くと、船は家を
押しつぶしてしまった。そんな場所が幾つかありました。

町の中にはところどころに、津波に現れた建物や家が残っていました。どの
建物も、窓という窓が壊され、ときには壁まで奪われていました。その周りに
小さな船が転がっていたりしています。建物の枠組みだけが残っている
コンビニらしきものなどもありました。

海岸線に出ました。そこには真っ黒になった船が3隻、停泊している。津波が
来たときに重油タンクが流され、船に火をつけたのだそうです。船は燃えた
まま、あちこちを漂流し、火を広げていった。それは数十隻にもなったらしい。
そのため人々は必死でこの漂流する燃える船を消し止めようとしたそうです。

重油タンクそのものも油を流しながらその海岸線まできて、水産加工工場の
壁にぶつかって、ひしゃげて止まっていました。そこから数十メートル離れた
海中にもひしゃげたタンクが浮いている。まだまだ何ら片づけられていない
状態です。

重機が数台、音を立て、トラックが入ってきて、廃材やひしゃげた車を
運び出していましたが、一方で多数の警官たちが、手に手に棒を持って、
各地を捜索していました。まだ遺体を探しているのでしょう。ここにいたのは
福岡県警のおまわりさんたちでした。

秋田から一緒にきた佐藤生美さんと、僕と2人で、暫く無言で写真を撮ったり
ビデオを回したりしていました。アビスさんは特徴的な何か所かに案内して
くれました。町が全体として地盤沈下していること、海も引き波で底がかなり
えぐられているなどの説明も印象的でした。

その後、アビスさんに、ご家族や友人などの被害はなかったのか聞きました。
アビスさんの実家は市内にあり、お母さんが1人でおられますが、幸いにも
津波が手前まできて、家は被災されなかったそうです。しかしアビスさんの
男友だちのお連れ合いが亡くなられてしまいました。

彼女は、親御さんが海岸線の近くに住んでいたため、地震直後に車で助けに
向かったそうです。ところが2人で逃げてくるときに、車ごと、津波に飲まれて
しまった。そのことはずいぶん後になって、車ごと遺体がでてきて分かった
そうです。彼女のように、車で避難中に亡くなった方も多い。


その後、車に乗って、海岸線を北上していきました。少し上り勾配になると
何軒かの無事だった家が見えてくる。ああ、無事だったのだなとホッとして
いると、道が下り勾配になり、いきないたくさんの家が流されたところに
出る。土地の高さ、低さが、被害の分かれ目になっていることを痛感しました。

車は県境を越えて、陸前高田市に入りました。市街地に入る前の気仙町福伏
(ふっぷし)という集落の避難所に立ち寄りました。ここはリアス式海岸の一角で、
道がくねって陸前高田の市街地に下っていくところにあります。家々がそこから
海岸へとはり出すように立っていたところです。

ちなみにフップシとは、アイヌ語なのだそうです。ここ三陸海岸にはアイヌ
由来の地名が多い。それに漢字をあてているのだそうです。気仙沼もその
一つ。美しい港を意味するケセモイが語源だとも、端を意味するケセが
語源だとも言われるようです。

そのフップシの避難所は、ここの集落の人々によって自治的に運営されていま
した。まず僕が乗ってきたランドローバーから物資を下ろしました。特に重要だった
のは祖牛さんが京都で買ってくれた衣装ケース。梅雨に向けて必須の品でした。
この他、女性たちに保湿クリームと化粧水のセットなどを配りました。

その後、避難所のリーダーの小松隆司さんから避難所横に張り出したテント
の中でお話を聞くことができました。このテントの中は、避難所本部であり、
避難所と言うより、福伏災害対策本部と言った方がぴったりする場所でした。
若者を含む、数名の方がつめておられました。

小松さんは今年51歳の方です。地震が起こった時は自宅の2階にいました。
あまり激しい揺れに柱につかまったそうです。1階にお父さんがいたので
危ないから家を出るなと叫び、その後、揺れが収まってから外に出て、すぐに
地域の人々を高台へと誘導し始めた。

揺れが今までとは違ったものだったので、すぐに津波が来ると思ったそうです。
また大津波警報が出たことが、防災無線で告げられた。それで人々を誘導し、
高台に行き、そこのお堂にいた。やがてやってくる津波を、茫然とお堂から
見ていたそうです。

ここで僕が、「ご家族やご友人はご無事でしたか。亡くなられた方はおられますか」
と聞くと、小松さんは、ふっと目線を下に向け、ため息をつかれました。そうして
顔をあげて「同級生を5人失いました。おじさんとおばさんも亡くしました」と語られ
ました。

「特にショックだったのは、毎日、いろいろなことを語り明かしていた知人を
失ったことです。彼とは陸前高田駅前のジャズ喫茶、ジョニーでよく一緒に
コーヒーを飲みました。彼の名は菅野有恒さんといいます。56歳でした。
たかこさんという奥さんと一緒に、波にのまれて、4月4日にでてきました」

「彼は反戦、反原発の活動を行ってきた人でした。そういうことを本当によく
話しあいました。一度は一緒にチェルノブイリの写真展を行いました。
本当に大事な友達で、いろいろなことを教えてくれる先輩でもありました」・・・。
小松さんはとても悲しそうにそう語られました。

ちなみにこのジョニーという店。ジャズ喫茶といっても、日本人の曲しかかけ
ないので、有名だったところだそうです。小松さんも菅野さんもお酒が飲め
ないことがあって、ここに集まってくる仲間たちの話を、2人だけコーヒーを
飲みながら聞いていたのだそうです・・・。

続く

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明日に向けて(112) 放射能汚染が各地に拡大中・・・

2011年05月14日 14時00分00秒 | 明日に向けて5月1日~31日
守田です。(20110514 14:00)

数日前に福島以外の各地から、放射能汚染が発見されだしたことをお知らせ
しましたが、続けて加速度的に、福島からより遠い地方での汚染が確認され
出しています。これらをまとめてお伝えします。

まず神奈川県(小田原市や南足柄市)で、お茶から「基準」を越すセシウムが
発見されました。また静岡県(御前崎市)でも「基準」以下ですがセシウムが
発見されています。御前崎市は、静岡市からさらに西にあります。浜岡原発
周辺での定期的な検査で発見されたようです。

栃木県では県東をのぞく多くの地域で牧草の汚染が確認されています。この
ため広範な地域で放牧ができなくなっています。同じく牧草では、岩手県の
滝沢村でも汚染が確認されています。盛岡の北西で、秋田県の近くにある
村です。

茨城県ではパセリから汚染が発見されました。ただ正確には発見されたのは
入荷先の新潟県上越市の市場です。つまりこれは新潟県側がモニタリングを
したことによって発見されたものです。

一方で汚泥の汚染がかなり広範囲に広がっています。中でも東京都に関する
次の報道はショッキングです。
「東京都内の下水処理施設で3月下旬に採取された汚泥焼却灰から、1キロ
グラム当たり17万ベクレルの高濃度の放射性物質が検出されたことが13日、
都への取材で分かった。焼却灰は既にセメントなど建設資材に再利用されたと
いう。」
・・・既にセメントなど建設資材に再利用された・・・このような形で、放射能汚染
された物質が、他の何かに加工されて、人為的に運ばれだしてしまっている。

汚泥の汚染は、東京都だけでなく、宇都宮市・前橋市・横浜市・茨城市でも
確認されています。茨城市のものは「高濃度」と報道されている。

このように汚染は各地に非常に広範囲で広がっており、その一部はセメントに
混入してさらに遠くへ運ばれてしまっています。


それでは福島県の側はどうなっているのでしょうか。福島県ではこれまでなかった
アユやワカサギなど、淡水魚の「初めて」の汚染が確認されました。

また大気をかなり高いところまで測った結果、放射性物質が6キロから8キロ
上空に漂っていることが確認されました。飛行機でこの地域を通る時は
要注意ですし、今後、雨などでこれが降下してくることに対しても注意が
必要です。

さらに原発サイトに目を移してみると、3号機の再び「高濃度」の汚染水が
海に流出していることが確認されています。今なお、莫大な量の放射能漏れが
続いているわけです。


肝心なことが二つあります。これは氷山の一角である点です。これだけ広範囲
になってくると、計測が本当に大変ですが、関東と東北の本当に広い範囲で
しかも密度の濃い計測が行われる必要があります。

さらに第二点として、この広大な地域にプルトニウムなどもまた飛散している
可能性が高いことです。本当に必死の計測が必要です。どうか行政にも
働きかけて、各地での計測を進めてください。

**************************

小田原産などの茶葉からも基準超す放射性セシウム

2011年5月13日11時59分 朝日新聞
 神奈川県南足柄市でとれた「足柄茶」の茶葉から放射性セシウムが検出された
問題で、県は13日、小田原市など県内3市町村でとれた茶葉からも食品衛生法
に基づく基準値(1キロあたり500ベクレル)を超えるセシウムが検出されたことを
明らかにした。

 県によると、11日に小田原市でとった茶葉から780ベクレルを検出。愛川町
(670ベクレル)、清川村(740ベクレル)でも基準値を超えた。地元農協などでは
すでに11日の段階で、県内すべての「足柄茶」の茶葉の出荷を自粛し、回収も
進めている。
http://www.asahi.com/special/10005/TKY201105130184.html


南足柄の茶葉から基準超えるセシウム 出荷自粛要請

2011年5月12日0時4分 朝日新聞
 神奈川県は11日、同県南足柄市内で採取した茶葉から、食品衛生法に基づく
放射性セシウムの基準(1キロあたり500ベクレル)を超える570ベクレルが
検出されたと発表した。県は、周辺の市町村を含む今年の県内産の「足柄茶」の
茶葉の回収や、当面の間、出荷を自粛するなどの措置を南足柄市や農協に
要請した。

 県は「数回摂取しても健康に影響を与えることはない」(食品衛生課)とみている
が、基準を超えたことが明らかになったため、要請に踏みきったという。

 県環境農政局によると、茶葉のサンプルを採取したのは9日。1回目の検査で
550ベクレルを検出し、別のサンプルで調べても570ベクレルだったという。

 「足柄茶」の今年の新茶は6日に出荷が始まったばかり。同局などによると、
すでに約2600キロを製品化し、半分ほどが販売されたという。農協を中心に
回収を急ぐ方針。
http://www.asahi.com/special/10005/TKY201105110358.html


静岡茶葉からセシウム…健康影響ないレベル

2011年5月12日16時48分 読売新聞
 静岡県は11日、御前崎市の茶葉(生)から、過去10年間の最高値を上回る
放射性物質のセシウムが検出されたと発表した。

 県は「福島第一原発から放出されたと推定されるが、健康への影響を心配する
レベルではない」としている。浜岡原発周辺で実施している定期的な環境放射能
調査で判明した。

 県が御前崎市で5月2日に採取した茶葉から、セシウムが1キロ・グラムあたり
82・9ベクレル検出された。過去10年間の最高値は0・19ベクレルだった。

 県は7日にも菊川市で採取された茶葉(生)を分析したところ、御前崎市の茶葉を
上回るセシウムを111・0ベクレル検出。茶葉10グラムを430ミリ・リットル、
90度の湯で60秒間浸出した「飲用茶」からは4・32ベクレル検出された。

 飲用茶は、厚生労働省の暫定規制値500ベクレルの約115分の1だった。
県茶業農産課の白井満課長は「検出された値が小さく、影響は大きくない」と
述べた。

農家など戸惑い 県の発表を受け、茶業界からは戸惑いの声が広がった。調査
地点となった菊川市内の茶農家の男性(54)は「一番茶の時期に発表があって
驚いたが、あくまでも基準値以下。消費者には安心して茶を飲んでほしい」と
困惑した様子。別の茶農家の男性(55)も「高い数字が出たことはショックだが、
数字がひとり歩きして、消費者が危険だと誤解しないか心配だ」と、不安を隠さない。

 菊川市や御前崎市の一部などを管内とするJA遠州夢咲の中山豊彦茶業部長は
「数値は暫定規制値を下回っており、安全は証明されていると考える。ただ、
消費者がどう受け止めて反応をするのか、風評被害が心配だ。正確な情報
提供で、消費者の安心安全につなげたい」と話した。
http://www.yomiuri.co.jp/feature/20110316-866921/news/20110512-OYT1T00299.htm


県北、県西でも基準値超 県東除く4地域に拡大 放射性物質牧草調査

5月13日05:00下野新聞
飼料用牧草の放射性物質検査を進める県は12日、県北、県西の2地域3地点
で放射性セシウムが乳用牛、肉用牛についての国の暫定基準値(1キロ当たり
300ベクレル)を上回ったと発表した。

追加調査となった県北は、那須塩原市の2地点で860~3600ベクレルを検出。
放射性ヨウ素(基準値70ベクレル)は検出されなかった。初の定点調査となった
県西は、日光市で放射性セシウムが3480ベクレルに達した。放射性ヨウ素は
20ベクレルだった。

県は4月27日、那須、県北、県東、県南の4地域で初の定点調査を実施。那須、
県南で基準値を上回った。基準値を下回った県北、県東に対しては今月3日、
追加調査を実施。牧草が育っていないため調査できなかった県西は、5日に
初の定点調査を行った。

県東は追加調査でも下回ったため、すべての牛について牧草の給餌、放牧が
可能になった。県北、那須、県南は乳用牛、肉用牛への給餌、放牧ができない。

県西は育成牛、繁殖牛の基準値(5千ベクレル)を下回ったが、3千ベクレルを
上回ったため、追加調査で再度5千ベクレル以下が確認されるまで給餌、放牧を
見合わせる。

那須、県南は実施中の2回目の定点調査で基準値を下回った場合、追加調査を
実施。追加調査で3回連続基準値を下回れば給餌、放牧が可能になる。県北は
次回の定点調査で下回った場合、再度、追加調査を実施する。

県畜産振興課は「農家には原発事故以降、現在生えている牧草は与えないよう
徹底している」と説明。さらに「基準値は1日127キロの牧草を食べることを想定
している。実際、そんなに食べるケースはなく、かなり厳しい基準となっている」
とし、流通している牛乳、牛肉の安全性を強調した。
http://www.shimotsuke.co.jp/news/tochigi/top/news/20110512/516790


岩手県でも牧草から規制値上回るセシウム

2011年5月13日19時43分 読売新聞
 岩手県は13日、滝沢村で採取した牧草から、農林水産省の規制値を上回る
放射性セシウムが検出されたと発表した。

 牧草1キロ・グラムあたり359ベクレルで、乳用牛や肥育牛の飼料用牧草の
規制値(300ベクレル)を上回った。同県によると福島県より北で、牧草が
規制値を超えたのは初めて。

 県は同村など北西部12市町村に対し、既に牧草の利用自粛や放牧見合わせを
指導しているという。
http://www.yomiuri.co.jp/feature/20110316-866921/news/20110513-OYT1T01036.htm


茨城産パセリから基準超えセシウム 新潟県発表

2011年5月13日(金)  茨城新聞
新潟県は12日、同県上越市の卸売市場に入荷した茨城県産のパセリから、食品
衛生法の暫定基準値(1キログラム当たり500ベクレル)を超える放射性セシウムを
検出したと発表した。新潟県で流通する野菜から基準値を超える放射性物質が
検出されたのは初めて。小売店には流通していないとしている。

新潟県によると、パセリは行方市の生産者団体が出荷。12日に採取して調べた
結果、セシウム1110ベクレルを検出。放射性ヨウ素も同210ベクレル(暫定基準値
2千ベクレル)が検出された。
http://www.ibaraki-np.co.jp/news/news.php?f_jun=13052156967769


汚泥焼却灰から放射性物質 都下水処理施設で3月採取

2011年5月13日20時53分 共同通信 
 東京都内の下水処理施設で3月下旬に採取された汚泥焼却灰から、1キロ
グラム当たり17万ベクレルの高濃度の放射性物質が検出されたことが13日、
都への取材で分かった。焼却灰は既にセメントなど建設資材に再利用されたと
いう。

 都下水道局によると、検出された施設は「東部スラッジプラント」(江東区)。
同時期に大田区と板橋区の下水処理施設2カ所でも汚泥焼却灰から
10万~14万ベクレルの放射性物質が検出された。

 1カ月後に再調査し、3施設の放射性物質は1万5千~2万4千ベクレルまで
低下したことを確認。物質が放射性セシウムかどうか特定を進めている。

 一方、宇都宮、前橋、横浜の各市も13日、5月に採取した汚泥などから
放射性セシウムを検出したと発表した。

 宇都宮市によると、市の5施設で6日に採取した汚泥焼却灰や汚泥を検査。
川田水再生センターの焼却灰から2万6千ベクレル、下河原水再生センターの
汚泥から4300ベクレルを検出した。

 前橋市によると、前橋水質浄化センターで9日に採取した汚泥焼却灰から
4万1千ベクレルを検出。汚泥は1844ベクレル、高温処理した溶融スラグは
1万7090ベクレルだった。

 横浜市によると、南部下水道センター(金沢区)で6日に採取した汚泥焼却灰
から約5千ベクレル、汚泥から約240ベクレルを検出。北部下水道センター
(鶴見区)の汚泥は約千ベクレルだった。
http://www.47news.jp/CN/201105/CN2011051301000689.html


下水汚泥焼却灰から高濃度セシウム 県3処理場

2011年5月9日(月)  茨城新聞
福島第1原発事故に伴い、県は9日までに、県の3カ所の下水処理場で処理した
脱水汚泥と焼却灰を検査し、焼却灰から高い値の放射性セシウムが検出されたと
発表した。県は残りの処理場についてもできるだけ早く検査を実施するとし、
国に対して早急に基準値や安全な処理方法を示すよう要望した。

県下水道課によると、放射性物質の測定は、県流域下水道の那珂久慈浄化
センター(ひたちなか市)と霞ケ浦浄化センター(土浦市)、さしまアクア
ステーション(境町)でそれぞれ処理した脱水汚泥と焼却灰を採取して実施した。

検出された放射性物質のうちセシウムは、那珂久慈が脱水汚泥1キロ当たり
493ベクレル、焼却灰同1万7020ベクレル▽霞ケ浦が脱水汚泥同716ベクレル、
焼却灰同7545ベクレル▽さしまが脱水汚泥同252ベクレル(焼却処理して
いない)―で、焼却灰の値が高かった。ヨウ素はそれぞれ不検出~300ベクレル
だった。那珂久慈が3日、霞ケ浦、さしまが4日に採取した。

県は、放射性物質を含む雨水が下水道に流れ込んだのが原因とみている。
焼却灰は汚泥の約20分の1のたい積に圧縮されるという。

県は、放射性物質を含む汚泥などの取り扱いに関して国の基準がないことから、
念のため焼却灰の建設資材への利用を休止し、脱水汚泥や焼却灰の保管
場所への立ち入り制限などの措置を取った。

国に対して、下水汚泥などに含まれる放射能量の基準値や安全な処理方法に
ついて早急に方策を示すよう求めている。

県は、残り5カ所の処理場についても早急に検査を実施する方針。県内市町村が
運営する処理場でも検査を実施する動きが出るとみられる。

下水汚泥などの放射性物質の検査をめぐり、福島県は今月に入り、郡山市内の
処理場の脱水汚泥から1キロ当たり2万6400ベクレル、溶融スラグから同33万
4千ベクレル、堀河町内の処理場の脱水汚泥から同44万6千ベクレルの
セシウムが、それぞれ検出されたと発表している。
http://www.ibaraki-np.co.jp/news/news.php?f_jun=13049449607726


福島のアユ基準値超す 淡水魚で初、ワカサギも

2011年5月13日23時46分 共同通信
 福島県は13日、福島県で採取したアユとワカサギ、シラスから食品衛生法の
暫定基準値(1キログラム当たり500ベクレル)を上回る放射性セシウムを
検出したと発表した。魚類で基準値を超えたのはコウナゴに続き、淡水魚では
初めて。

 福島県によると、いわき市のアユから720ベクレル、北塩原村のワカサギから
870ベクレルのセシウムを検出。いわき市沖のシラスからも850ベクレルの
セシウムが出た。

 ヒラメやマコガレイ、ミズダコなどは基準値を下回った。
http://www.47news.jp/CN/201105/CN2011051301001175.html


放射性物質、上空6~8キロに滞留 福島大が観測

2011年5月12日 福島民友ニュース
 福島大は11日、高層気象観測装置「ラジオゾンデ」を使った大気中の放射性
物質の観測結果を公表した。県内の上空6~8キロ付近で毎時5マイクロ
シーベルトが観測され、同大は「通常はこの付近では出ない数値。原発事故の
影響は明らか」としている。同大によると、事故後に大気中の放射性物質の強度
分布を調査したのは初めて。

 観測では、4月15日から15日間、同大から観測装置を搭載した巨大バルーンを
飛ばし、上空25キロまで5メートル刻みでベータ線とガンマ線を調べた。毎日の
観測データを平均したところ、上空6~8キロ付近で最も高い数値が確認された。
http://www.minyu-net.com/news/news/0512/news2.html


3号機の高濃度汚染水流出 海水に1万8千倍セシウム

2011年5月11日20時38分 朝日新聞
 東京電力は11日夕、福島第一原子力発電所3号機で取水口付近の汚染水を
防ぐために設置されたシルトフェンスの外側の海水から、海洋に排出できる国の
基準の濃度の約1万8千倍のセシウム134を検出したと発表した。2号機から
高濃度汚染水が流出したことがあるが、3号機で確認されたのは初めて。
東電は応急の流出防止策を講じた。

 東電によると、11日午前10時半ごろ、作業員が3号機の坑道とつながっている
作業用の穴(ピット)で、電線を通している空洞部分から高濃度の放射能汚染水が
流れ出ているのを確認した。ピットの海側部分にひび割れがあり、海に漏れていた。
東電は空洞をコンクリートでふさぎ、午後6時45分に水の流出を止めた。

 3号機取水口のシルトフェンス外側の海水は、ヨウ素131も1立方センチあたり
96ベクレルで基準の2400倍だった。フェンス内側の海水はヨウ素131が同
190ベクレルで約4800倍、セシウム134は同1900ベクレルで約3万2千倍
だった。ピット内は、ヨウ素131が同3400ベクレルで8万5千倍、セシウム134は
同3万7千ベクレルで62万倍だった。

 3号機のタービン建屋地下には、高濃度の放射能汚染水がたまっている。東電は
その汚染水が流れ込んだとみている。東電原子力・立地本部の松本純一本部長
代理は「汚染水の流出はフェンスである程度は抑えられるが、完全ではない。
最悪の場合は海へ流れ出る可能性もある」としている。

 東電は同日午後、福島県や周辺市町村、近くの漁協に水漏れの事態について
連絡。さらに、政府も米国や周辺諸国、その他の国の在外公館に連絡した。

 2号機の取水口で漏れが見つかった時は、ヨウ素131が30万ベクレルで国の
基準の750万倍、セシウム134が12万ベクレルで200万倍だった。2号機の
流出後、東電は取水口の周囲などをフェンスで覆ったが、今月10日現在、
2号機のフェンスの外側ではヨウ素131は1立方センチあたり2.1ベクレル、
セシウム134が同1.3ベクレルまで下がっている。

 政府・東電統合対策室事務局長の細野豪志首相補佐官は「今回同じような
水漏れが起きたことは、極めて重大な問題と感じている」と話す。(坪谷英紀)
http://www.asahi.com/special/10005/TKY201105110351.html




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