近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

天皇あれこれー奈良県宝来町の安康天皇とは!そのⅠ

2011年12月16日 | 歴史
ここからは、歴代天皇のうち、話題の多い天皇を取上げる。

奈良市宝来町の安康天皇陵は、宝来山古墳・第11代・垂仁天皇の御陵を過ぎて西に1kmほどの住宅地の小高い丘の上にある。

第20代・安康天皇(穴穂命 あなほのみこと)は、第19代・允恭天皇の第二皇子で、仁徳天皇の孫にあたる。

また、弟には第21代・雄略天皇(大泊瀬皇子 おおはつせのみこと)がいる。









写真は、奈良市宝来町の安康天皇陵が所在する周辺環境、同天皇陵正面入口の光景、同天皇陵が無理して造られた正面サイドの狭い周濠光景、同天皇陵と隣り合わせの民家。

安康天皇陵・菅原伏見西陵(すがはらのふしみのにしのみささぎ)は、近年の調査結果から、古墳ではなく中世の山城とする見方が強いが、写真のように後付で造られたような、狭い方形周濠が巡らされている。

在位は允恭天皇42年(453)~ 安康天皇3年(456)まで、中国の『宋書』・『梁書』に記される「倭の五王」中の倭王興に比定されている。

456年、安康天皇は皇后・中蒂姫(なかしひめ)の連れ子・眉輪王(まよわのおおきみ)により暗殺されたと伝えられている。

安康天皇の家臣の虚偽報告をまともに受けて、身内の皇子を間違って誅殺してしまったと云うように、いわば謀反の犠牲になったという意味で、恥じらいを招くような出来事であった。

応神⇒仁徳 ⇒履中⇒反正⇒允恭 ⇒安康⇒継体と続く一連の「河内王朝」と呼ばれる系譜に含まれる一人で、他の6人の陵はいずれも、巨大な前方後円墳に治定されているのに比べると、安康天皇陵はあまりにも小さくて不自然。





写真は、安康天皇陵の形式的な門扉の様子と同天皇陵の土塁のような小丘陵。

1998年に発掘したところ、発掘現場からは古墳と確認できる陶磁器片・葺石・埴輪などの資料は、出土されなかったことからも、「古墳ではなく中世の山城ではないか、元来小領主の館であったものを大阪の陣で徳川方がその拠点として改修した砦の跡ではないか」との見方が出ている。

地名も“字古城”ということで、天皇陵というのは誤りと考えられる。

『記・紀』ともに菅原の伏見(奈良市菅原町伏見)にあるとしているが、現実には、それらしいものさえない。

天皇在任期間がわずか2年余りで、際立った功績もなく、むしろ恥らうべき最期を自ら招いてしまったことから、忘れられて欲しい天皇の烙印を押されたことから、天皇陵も造営されなかったかもしれない。

一説に寄れば、允恭と安康はもともと一人の天皇であることから、允恭天皇陵(市野山古墳或いは恵我長野北陵とも呼ばれる)がある以上、さらに安康陵があれば、それこそ不思議であるとの説であるが・・・。

現に父・允恭天皇陵及び弟・雄略天皇陵とも、藤井寺市に所在しているのに対して、20km以上も離れた、奈良市宝来町に現存する安康天皇陵はその真実性が疑われても仕方がない。