<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
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今回のスター・ウォーズの最もエキサイティングなところは前回も書いたように、懐かしのミレニアムファルコンに乗ってあっちこっち飛び回れることだった。
年老いたハン・ソロ。
以前と全く変わらないチューバッカ。
それぞれファンなら間違いなくお涙モノで、最も悲惨.....修正、時の流れを感じたのはレイア姫のお婆さん化なのであった。
そういう意味では最後にちょこっとだけ出てきたマーク・ハミル演じるルーク・スカイウォーカーが一番渋かったかもしれない。

一方、最も悲惨だったのはストーリーの先がなんとなく読めてしまうところであった。
これはしかし重要な欠点だ。
ハン・ソロが出てきて息子が登場。
そのままでは事は収まりそうになく、
「もしかしたら死ぬのかも」
と思っていたらホントにハン・ソロは死んでしまったのであった。
これではまるで東映のテレビ時代劇シリーズではないか。
水戸黄門、大岡越前とちっとも変わらないのだ。

かつて池波正太郎は読者に不自然さを感じさせてはならないと思って書き進めていると、主人公に準じるようなキャラクターをどうしても死なせ無くてはならない筋書きになってしまった、という話をしていたことがあるそうだ。
これは鬼平犯科帳の「五月闇」というエピソードでなぜ密偵の伊三次が殺されてしまうのかという質問に対する解答であった。
原作者でさえ、筆の進め方いかんによっては意図せぬ展開になり、準レギュラーな密偵でさえも死ななければならないという過酷なエピソードなのだ。

これに対してハン・ソロの死はあまりに単純すぎやしないか。
これは伊三次の亡くなり方とは正反対で、例えばスタートレックの冒頭のシーンで謎の惑星に上陸したピカード艦長以下数人のクルーのうち、脚本には「乗組員A」
と書かれているであろう一人が仲間と逸れてしまったまさにその時にエイリアンに襲われて死んでしまう。
そんなお気楽なシーンを想像してしまう。
なんのひねりもなく、ただただ殺されるために登場する脇役乗組員A。
ハン・ソロの死に方はまさにそんな分かりきった死に方であったような気がしてならない。
つまりハン・ソロというSFにおける絶対的な人気キャラクターが登場人物乗組員Aと全く同じ扱いを受けているというわkであ。
これは理解に苦しむストーリー展開なのであった。

この分かりすぎたストーリー展開は何もハン・ソロだけではない。
ラストのシーンも、かなりわざとらしい。
意外性がまったくない水戸黄門的終わり方なのであった。

今回のスター・ウォーズは物語としては完結しておらず、話の途中で物語は途切れている。
「続きはまた来週」的な終わり方。
連続者になっている・
このような終わり方をしたのは今作が初めてではなく第二作目「帝国の逆襲」が最初だった。
ところが帝国の逆襲は意外性の固まりみたいな作品で今回とはまったく対照的。
その最大のシーンがダースベイダーが瀕死のルークに向かって履くセリフ。
「I am your father.」
だった。

この一言のインパクトがあまりに大きかったために、これはパロディにされる絶好のネタになった。
どのくらいネタ性があったかというと、ゴッドファーザーでベッドの上に馬の首が横たえられていたシーンと同じぐらいインパクトがあったのだ。
このシーンは「オースティン・パワーズ」でも「トイ・ストーリー」でもパクられているのだ。

このセオリーをハン・ソロとその息子カイロ・レンにも同じような意外性を与えようとしたのだろうか。
あまりにも安直な脚本なのである。
しかもカイロ・レンはアナキン・スカイウォーカーことダースベイダーほど徹底した悪役ではなく、どこかヘタレの出来の悪いドラ息子みたいな感じがするのもいただけないのであった。
オヤジが風来坊でオカンは将軍の家庭では、長男はスネルしかないのかも知れない。

ということで、エンドタイトルの脚本にルーカスの名前がなかったこともうなずける。

ディズニー版スターウォーズは連続物を目指す、いわばSF界の寅さん映画と化しているのではないかと、疑われる内容なのであった。

たぶん、多くのファンが物足りなさを感じているに違いないのだ。

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