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1964年に開催された東京オリンピックはアジアで初めてオリンピックで、現在のオリンピックスタイルの素朴な部分。
世界中の選手が平等に、そして互いの文化を交換し、友好と理解を深めるというスタイルが東京大会。
それに1984年のロサンゼルスオリンピックのコマーシャリズムが融合して現在の拝金オリンピックが完成しているのだ。

以来、アジアでは北京とソウルで開催されいているがソウルはともかく北京は東京大会で成立した自然形式の国際大会が、国家の威信と、金のためならはなんでもするという詰まらないオリンピックに堕落させてしまったのが現状といるだろう。

クーベルタン男爵の想いを他所に、オリンピックはますますコマーシャリズム的に進化しているとともに、進化すればするほど純粋にスポーツを楽しんでいる人たちからは「オモロない」という烙印を徐々に押されつつあり、人気は正直下降傾向にある。

またコマーシャリズムのなせる技か、テレビ放送の使用権を購入できない途上国の中にはオリンピックの中継すら鑑賞することの出来ない国もあり、一体誰のための何を目的にした国際大会なのかわからなくなってもいるのだ。
例えば、私が好んで旅するミャンマーではオリンピック中継は無く、新聞や海外メディアやお隣りのタイの放送を受信して知るしかないのである。

そんな、オリンピック。
東京で再開催する必要があるのものか。
甚だ疑問だ。
東京という世界のファッションや経済やアートをリードするトップ都市の一つが、わざわざオリンピックを開催する必要があるのだろうか。
そんな予算があれば、もっと創造的な国際イベントを企画する力があるのではないか、と思えるのだ。
オリンピックをアジアで開催するのならシンガポールやタイのバンコク、マレーシアのクアラルンプール、台湾の台北のほうが、よっぽどふさわしい。

1964年のノスタルジーを再現したいのか石原知事は真剣そのもの。
でも実際のところ都民はもちろん国民はシラケているに違いない。
オリンピックをするくらいなら、前回韓国と共同開催という残念な形になってしまったサッカーワールドカップを単独開催するほうが、日本全国を巻き込んでよほど盛り上がるに違いない。

オリンピック開催を目指すことそのものよりも、オリンピックをしようという、その発想自体がチープな感じがしてならないのが、昨日のニュースだった。

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