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キリスト教、イスラム教、仏教を世界三大宗教という、と習ったのは中高生の時。
でも21世紀の現在では、世界三大宗教はキリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教。
仏教はヒンドゥー教よりも信者数は少なく、仏教を根幹として信仰する国も日本、ベトナム、タイ、ミャンマー、カンボジア、ラオス、スリランカなど数えるほどしか無い。
ヒンドゥーはインドが中心だが、インドの人口はバカでかく、日本や東南アジアの国々が束になっても追っつかないくらいの信者数だ。

しかも仏教はもしかすると宗教ではなくて哲学の一種にも分類されそうな、そんな宗教でもある。
なんぜなら、宗教において唯一「神様」が存在せず、絶対なものは何もない。
これ世界に変わらないものはなく、常に大きく動き続け、形あるものはどんなものでもやがて滅びる。
そういう「宇宙」を中心とした宗教は他には存在しないわけで、
「なぜ人は生き、喜び、あるいは苦しまなければならないのか?」
というよくある問いにも、他の宗教であれば、
「それは神様の思し召し。すべて神様が決めていらっしゃること」
となるかもしれないが、仏教は誰のせいにもすることはできない。
それはすべての生きとし生けるものが受け入れねばならない事柄であり、どのように生きるのかによって混沌とした複雑な時空の流れによって、なんとでも変わっていく。
そこに介在できるものは存在せず、人は常にどのように生き、どのように他の人々をいたわり、社会のあり方や生き様を考えていかなければならない。
答えは他人が与えるものではなく、自ら導き考えるものである。
僧侶はその手助けをする人なのである。

というような、まあ、かなり変わった宗教なのだ。

日本やタイ、ミャンマーでは仏教を信仰しているが、神様についても仏教には存在しないが、別枠でとっていることがあり、それが日本では神道であり、タイやミャンマーでは精霊信仰という形で現れている。
いずれも絶対の唯一神は存在せず、数々の神様が専門分野ごとに存在するという、どこかの大学の研究機関のような宗教なのである。

こういう宗教を背景とした文化で育つと、唯一神を信仰する他の宗教を理解することが難しくなる。
だから神様の名のもとにおいて戦争をする、などということはもっと不可思議で分からないことなのだ。

イスラム教は世界三大宗教の中でも最も大きな信者数を誇る宗教である。
アラブ人のマホメッドが説き始めたこの宗教は東はインドネシアから、西は太平洋を超えアメリカ合衆国まで幅広く伝播していて、その国際的影響力はもはやキリスト教さえ及ばぬレベルに達しているのではないだろうか。
宗派も数多い。
優しく温和なものから過激で恐ろしいものまで様々だ、
例えばインドネシアやマレーシアはイスラム教が国教だが、イラクやイランのように過激ではない。
実に柔和で女性にも優しく、教育も熱心。
何よりも我が国とは真のパートナーシップを持っている国々だ。
一方、イラクやイラン、サウジアラビアなどの中東諸国のイスラム教は我々から見ると過激で時に理不尽なもの見えてしまう。
ISに至ってはフィクションの世界のようでさえある。

このイスラム教。
最近はマレーシアやインドネシアから渡航してくる観光客や留学生、ビジネスマンも多く、東京や大阪では髪の毛をベールで隠した女性の姿をみかけることも珍しくなくなってしまった。
大阪のショッピングモールなんばCityには、イスラム教徒のためのお祈りの部屋まで用意されているくらいである。

ところが、私も含めて日本人にとってイスラム教という宗教ほど日常的に接することが難しい宗教はない。
近所に教会はあってもモスクがあるわけでもない。
イスラム教徒の人が大学や街にいても、宗教について話すことはほとんどない。
モルモン教のように勧誘されることもない。
知っているのはテレビや新聞で聞き知った中東で展開される戦国時代のような宗教世界なのだ。

日本にとってもっとも重要なパートナーである隣国米国のイスラム教徒数ももはやキリスト教徒とあまり変わらなくなってきているという。
キリスト教とイスラム教による宗教対立は中東を中心に欧州、北米などで繰り広げられ、その負の影響力は全世界に広がりもはや無視できないレベルに達している。

そこでイスラム教を理解するには何らかの書籍を読まなければなるまいと思いつつ、今日まで来てしまっていた。
そんな時、書店で見つけたのが「イスラームの生誕」(井筒俊彦著 中公文庫)なのであった。

この著者は日本におけるイスラム研究の第一人者のような学者ですでに鬼籍にはいってらっしゃるのだが、そのイスラムに関する知識や記述は素晴らしく、私のような全く知識のない人にも分かりやすくイスラムとそれを開いたマホメッドのことを教えてくれたのであった。

前半はマホメッドの生涯について。
彼が生まれ、ごく平凡な人として生活している間にキリスト教の教義ややり方に疑問を持ち、それに対して平和裏に改革をしようと動き始めた。
そしてキリスト教社会の利権にまみれた矛盾した世界へ失望し、自ら神様の掲示としてイスラムの教義を説き始めた。
このような細かな点、とりわけキリスト教徒の関係を十二分に説明。
マホメッドが生涯を閉じるまで、どのように活躍したのか。
その普通の人がいかにして世界最大の宗教の礎を作ったのかが簡潔に語られており大いに歴史好奇心をそそられたのであった。

後半はイスラムとは何かということに焦点を絞り解説されていて、これも十分に興味の持てるものであった。
イスラム教が説かれ始めたのは610年頃で、日本では聖徳太子が法隆寺を建立した頃なのだ。
そう考えると、歴史の時空が一挙に縮まり、身近になるように感じられた。

尤も、読んだところでその核心について理解できたとは言えず、まだまだ自分の中のイスラムに対する印象が劇的に変わった、ということはなかった。
それでもイスラムの概観でも知ったことは、今後イスラム教の人々と接するときに大いに役立つに違いないと思った。

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