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1995年作のダスティン・ホフマン、レネ・ルッソ主演の映画「アウトブレイク」は衝撃的なシーンから始まる。
アフリカのザイールに原因不明の致死性感染症が発生して猛威をふるい解決が見込めない。
その病気の拡散を防ぐため米軍がとった措置が驚くべきものなのであった。
感染者を収容しているキャンプに核爆弾に次ぐ破壊力を持つという燃料気化爆弾を投下。
治療施設、患者、研究者もろとも爆弾によって処理してしまったのだった。

感染症というのはこれほどまで極端ではないにしろ、非常に危険性をはらんでいる恐ろしい災害だ。
米国のCDCや日本の国立感染症研究所のバイオセキュリティレベルを考えると、その重要度がわかるというもの。
とりわけ新型であったり、その原因がわからない謎の感染症が発生したら人類そのものを守るために極端な政策も必要なわけだ。
初期のエイズもその一つだった。
実際には映画のようなことは無いにせよ、衝撃的であるに違いない。

ハンセン病の隔離政策に対して政府が補償をすると言い出したのは小泉純一郎政権のとき。
今はハンセン病は原因がわかっている感染力の弱い病気で、適切に対処すれば隔離は必要ないとのこと。
だから過去に患者を隔離したのは憲法に定められた人権に反するのだというのがその論拠だ。
裁判も補償をするようにという判決を出したが、これっておかしくないだろうか。
あくまでも個人的意見だが、この判決は生命の安全確保を逸脱させる常軌を逸した判決であり政策ということが言えるのではないかと考えている。
ハンセン病は当時は解決策のない伝染病の一つだったのだから。

例えばわけのわからない伝染病が蔓延したときにこのルールでいくと発症者を隔離することができない。
隔離すると後日補償を求められる可能性があるからだ。
健常者を守るために感染症患者を隔離することは最大の防御策である。
この方法を取れないとなると、政府はどのようにして国民の安全を守るのか疑問になってくる。
ましてハンセン病は家族ですら忌避して感染者を見せない、存在を言わない、差別するという対象だったのではないか。
ハンセン病が出ると結婚にも影響がでる。
就職にも出る。
その他様々な社会的影響に囚われて、それが科学知識の不足であったにせよ、感染症から身を守る生物としての基本的な反応でもあったということはできないのか。
その家族も当時差別をした補償対象に含めるのだという。
言ったもの勝ちの様相だ。

ハンセン病患者隔離政策。
そもそも患者の人権を守るための意味もあって施設をつくって隔離して生活を補償した政策だ。
今の科学技術と価値観で見ると悲しい歴史だが当時の医療エベルや健常者保護の観点から政策が間違っていたということは言えないように思えてならない。
補償するにせよ方法や対象の選定にせよ、もっと納得の行く説明がない限りいくら裁判といっても税金を払っている方からすると「?」が出てくるのも否めないのだ。



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