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今回の台風19号による大雨は予想を超える雨量を記録。多くの人々が罹災して今もなお5千人を超える人々が避難生活を送っている。
しかも東日本大震災からやっとのことで店を再開したら今回の災害に見舞わらた、というような報道も耳にすると、被災された方の想いいかほどばかりか、と心を痛めること計り知れない。

ところで、今回の災害で気になるところが一箇所。
もしかすると天災ではなく人災ではないかと思われる災害があった。
それは二子玉川の水害。
それなりのネームバリューで通っている首都圏の住宅エリアだ。
報道によると堤防が決壊した場所はかねてから行政が「危険箇所なので防災対策を実行させてほしい」と地域にお願いしていたところだという。
決壊したというよりも最初から十分な堤防が築かれていなかったのだ。
その理由は、
「景観が壊れる」
「プライバシーの侵害になる」
という理由で建設整備に根強い反対があり対策が遅れに遅れていたのだという。
これって行政の責任ではなく、堤防整備に反対を続けた地元の反対者の責任ではないだろうか。
つまり人災。

日本の行政は治水に関しては昔から多くの対策を行ってきた。
その歴史は大和朝廷の時代にさかのぼる。
私の住む関西であれば古くは仁徳天皇の勅令で施工された茨田堤に始まり江戸期に実施された官民共同事業の大和川の付替、明治初期の新淀川の掘削など数しれず。
地方においても数多くの治水のあれこれを見ることができる。
だから行政が危険箇所について手を抜くことはありえず従来から分けのわからないものがその対策を妨げてきた。

今回の水害を呼び起こしたのは治水工事を阻害する個人の権利だ。
プライバシー。
景観。
どっちが優先されるべきなのか。

ここでまた一つ、思い出すのが周囲の反対を押し切って村長の判断で建設されたという岩手県普代村の高さ15メートルの防潮堤。
明治期の津波被害を想定して「そんなものは必要ない」という声をお仕切り予算を確保して建設。
長らくそんなもの必要ないと揶揄されていたのだが、結果的にこの高層防潮堤が東日本大震災の津波から村を救うことになった。

防災対策は個人の権利と切り離して考える必要があるのだろう。


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