<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
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季節はまもなく夏。
そろそろ高校野球の地方予選が始まる。

最近は仕事が忙しくて高校野球をじっくりと観たり聴いたりする時間が取れない。
新聞やニュース、インターネットで結果を知るだけという楽しみになってしまっているのだが、記事から熱戦の様子が伝わってくる試合は少なくない。
中でも夏の甲子園大会は春の選抜と違って全国から勝ち上がってきた実力のチームの闘いということもあり、観ているこちら側も力が入る。
負けたらおしまい。
十代の若者がガチンコで勝負するその姿は逞しくも悲しく、そして美しい。
我々日本人はその姿に感動する。
高校野球があるからこそ、野球はアメリカから伝わった外来スポーツという存在ではなく、国技として定着しているに違いないのだ。
とはいえ、試合後の勝利インタビューを見ていたら、
「なんで東北地方なのに関西弁?」
というようなことも少なくなく、越境入学やスカウト活動が盛んな高校が全国大会出場校を占めたりすると、若干のガッカリがあるのも今の高校野球かも知れない。

高校野球夏の大会は1915年に始り100年の歴史を持つ。
だからといって100回大会が開催されているかというとそうではない。
第二次世界大戦中は公式には甲子園大会は存在していなかった。
戦争遂行のために国家と社会が大会だけではなく、野球をプレイすることそのものを公に認めなかったからだ。
そんな社会環境の中で、実は公式に記録されていない大会が存在した。
その事実はあまり広く知られることはない。
とりわけ戦後世代には。

「幻の甲子園」坂上隆著(文春文庫)は昭和十七年に開催された文部省主催の甲子園大会を取り上げたノンフィクションだ。
この大会は朝日新聞の主催ではなかったため全国高等学校野球選手権大会にはカウントされていない。
開催時に毎夏の大会と同じように注目を集めたものの、公式記録には残されていない大会なのだ。
その記録に残っていない戦時中開催された唯一の大会がどのように開催され、どのような試合が展開され、選手たちのその後がどうなっていってのか。
本書で語られる熱戦の様子と、戦争に巻き込まれていく生徒や先生、家族のその後が心を惹きつける。

すでにこの時、野球部が残っている学校が少ないこともあり、主催が文部省という国になっていたこともあって出場校は当時日本だった台湾を含む全国から8校。
公式記録から外された大会だが、残されたエピソードは試合はもちろん、それを取り巻くものも印象に強く残されるものが多い。

台湾から参加した台北工業は甲子園に出場するに際して「途中撃沈されることがあることを承知した上で本土へ渡航する」旨の許諾書を書かなければならなかった。
突然の年齢制限を設けられたため、たった数日の差で出場を断念。甲子園への夢を諦めなければならなかった学生。
徳島商業は四国勢としての初めての甲子園での優勝だったにも関わらず公式記録として残されず、四国の優勝は約40年後の1982年の蔦監督率いる池田高校の優勝を待たなければならなかった。
多くの生徒がその後学徒動員や予科練などで学生生活だけではなく、人生そのものを奪われてしまったこと。

通常の大会とは違う贖うことがない時代の流れに翻弄されてしまう厳しさ、険しさがそこここに溢れている。
それはプレイする側にも見る側にも当てはまることで、読んでいるうちに今の時代の平穏さとのギャップに思いを深くするのだった。

かといって重々しいことばかりではなく、この大会で活躍した選手たちやそれを支えた学生、OBたちの多くが戦後のプロ野球を隆盛へと導くことになるのも、また見過ごしにできない部分なのだ。

暑い夏。
蝉の声。
厳しかった時代に想いを馳せながら甲子園の歓声を感じる、そんな一冊なのであった。

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