<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
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2007年11月初旬。
朝。
ミャンマーのミンガラドン国際空港。
空港ターミナルから出てくると南国の太陽が燦々と輝き、果実の香りがのする爽やかさで満ちていた。

空港前の道はともかく、一般幹線道路はアスファルトが強い熱射に照らされ補修設けずガタガタ。
そんな道路を日本の中古車がそこかしこに走り回っていた。
そう、ミンガラドン国際空港からヤンゴン市内中心部に向かう道はいつと変わらない風景だ。
会田雄次著「アーロン収容所」の舞台となったアーロン地区はミンガラドン空港からスーレーパゴダのあるヤンゴン中心部のちょうど真ん中あたりにあるのだが、道路沿いに並ぶ古びたアパートもいつもと変わらない表情を見せていた。

私はミャンマーという国の雰囲気が大好きだ。
林立している建物はボロボロだが、緑豊かのこの国に到着すると何かしらホッとした気分にさせてくれる。
でも、この時はすこしばかり雰囲気が違っていた。
少なくとも日本を出発する時は。

「あんた本気でミャンマー行くの?」

旅に出発する直前。
多くの人からそう質問を問いかけられた。
つい最近までミャンマーはデモの嵐が吹き荒れていたのだ。
デモの規模は大きく、世界のメディアがこぞって取り上げていた。いつもはアウン・サン・スー・チー女史ばかり取り上げるメディアも、この時ほぼ初めてそれ以外の顔にも向け始めた。
デモはミャンマーに似つかわしくない暴力へと発展して多くの人びとが逮捕され、あるいは命を失った。
普段は大人しいミャンマーの人々が怒りを露わにしたデモは停滞していた軍政の民主化構想への遅れと、逆行に対する反発の表れではなかったのだろうか。
少なくともテレビではそう見えていた。

「危険だから行かないで」

とその時言われたのは私ではない。
デモが展開されていた時に観光ビザで入国し、シェダゴンパゴダ近くの中級ホテルに宿泊していた日本人ジャーナリストにホテルのスタッフの言葉だ。
その日本人は押しとどめるホテルのスタッフやガイドの注意に耳も貸さず、ハンディカム片手にデモの中心部へ乗り込んでいった。
やがて彼がどうなったかは多くの日本人の知るところとなった。

メディアはそのジャーナリストの行動を讃え、惜しみ、そしてミャンマー政府を非難した。

「アホちゃうか」
と私のように感じた人の意見はついぞ出てこなかった。
しかしミャンマーをよく知る人にとっては、その行動は「アホちゃうか」そのものなのであった。

メディアの政府非難は当然だが、現地の普通の人々に多大な迷惑をかけたことは報じられなかった。
メディアにとっては報じてはいけない都合の悪い出来事だったのだろう。
法に触れるようなことをして亡くなった外国人に関係していた、ということがどのくらい大きな罪になるのか。
メディアは考えない。

迷惑をかけ、現地の皆も悲しんだ、ということをミャンマーに着いた時、ミャンマー人お友人から聞かされた。
身勝手というかなんというか。
私がミャンマーの好きなところは日本人のメンタリティによく似ているところだ。
しかも昔の日本人によく似ている。
だから迷惑をかけることを大いに警戒し、自制し、行動する。
あまりに自制しすぎて経済面や外交面での立ち居振る舞いが下手くそで、国際社会ではかなりの不利益を被っているようにも見えるが、それはそれ。
恐らく仏教という哲学的要素の強い宗教のなせる文化なのかもしれない。

戦場ジャーナリストという言葉がある。

マグナムのカメラマンをイメージするこの言葉は、インターネット時代の今、大きく変わってきてしまっているのではないかと思われてならない。
ロバート・キャパや沢田教一、一ノ瀬泰造のように戦場に消えたカメラマンは少なくない。
安易に彼らのように紛争地へ赴き危険を題材に売名する。
プロであるとかないとかは関係ない。

先日イスラム国で人質となって殺害されたジャーナリストも、旅券を没収されたと憤っていたカメラマンも、誰もかしこも報道という仕事が持っている価値以外の何かしら欲のようなものが感じられてならないのだ。

「人道支援の取材をしていた」

とメディアは褒めそやすが、なんとなくそれも知名度向上の手段でしかなく、

「責任は全部自分で取りますから」

と言ったあとの顛末が言行不一致な感じがして「戦場ジャーナリスト」ではないんじゃないか、と思われてならないのだ。

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