<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地



刑事コロンボの初期のエピソード「構想の死角」は二人の小説家が仲違いをして一方がもう一方を殺害する、という筋書きだった。
実は殺したほうは小説を殆ど書いておらず、殺されたほうが実際の執筆者。
小説は二人の連名で出版してきたのだが、

「もう、二人別々に行こうや」

と云われた犯人は、焦って恨んで、相方を殺してしまったというわけだ。

子供の頃、このエピソードを見ていて、

「藤子不二雄はこんなんとちゃうんかな」

と密かに心配していたのだが、やがて藤子不二雄の作品のどちらが描いたのかが公表されるようになって、二人のケジメの良さに感激脱帽したことを覚えている。
子供はもちろん、世間の期待を裏切るようなことは無かったのだ。

この「構想の死角」のような事例は少なくないらしく、新聞報道によると全聾の作曲家と言われていた佐村河内守が実は自分では作曲していないばかりか、全聾そのものを偽っていたというのだ。
実際の作曲に携わった桐朋学園大学の非常勤講師の新垣隆という人が公表。

「佐村河内にはゴーストライターがいた」

と、新聞の文化面は大騒ぎをしている。

新聞が大騒ぎをしている割にはツイッターやFacebookの反応がイマイチなのは、きっとこの人たちはかなりマニアックな音楽関係者なのだろう。
私自身、不勉強も有るのかもしれないが佐村河内守なんて知らなかった。

そもそも、今回の件。
何がいけないのか、よくわからない。
普通に契約や約束しておれば、なんでもないことだったのではないか。
全聾がパフォーマンスでも、倫理上いかがなものか、と疑われるだけで犯罪ではない。
が、結局二人の間にはきちんとした取り決めがないままに、おざなりに今日まできてしまった、というわけなのだろう。
いつまでたっても楽曲の作者は佐村河内で自分は日陰の非常勤講師でいるものだから、不満が鬱積し、

「ホントの作者はボクなんだ」

と言ったに過ぎないのではないか、と思う。
要は、

「こいつは全聾を騙る不届き者でっせ」

と暴露して困らせてやろう、というだけのことではなかったのか。
ある意味みみっちい意図が見え見えで、こういう公表の仕方をすると、自分自身も無傷で済まないというのをよく考える必要があったのであはないかと思う。
確かに佐村河内名でリリースした楽曲は、高橋大輔がフィギュアに使用していたり、クラシック音楽では異例のヒットをしていたりと話題に欠くことはないようだ。
だからこそ自分の名前を表に出す、という欲求があったが、相方が認めなかったので強硬手段に訴えたのかもわからない。
しかし、この人も無料でそれをやっていたわけではなく、新聞報道によると報酬を受け取っていたわけで、同情するには少々難がある出来事ではある。

一方の佐村河内は全聾を売りに世間を欺いてきただけに、その罪は小さくない。
別に詐欺罪に問われるというものではないが、音楽ファンの期待を裏切り聾唖者をバカにした創作活動は今後糾弾されてしかるべき行為だ。

「耳が聞こえないけど作曲できます。ね、ベートーヴェンみたいでしょ。」

とほざいて来たわけなので、シュローダーならずとも「馬鹿にするな」と怒りたくなるのも当然の行為だ。

結局得るものは何もない、というのが、今回の「構想の死角」というわけで、殺人事件さえ起こらなかったが、刑事コロンボのエピソードと非常に似通った結末なのであった。

なお、刑事コロンボの「構想の死角」は監督が大学を出たばかりの若き日のあのスティーブン・スピルバーグだけに秀逸な作品に仕上がっているが、こっちの方は明日にも忘れ去られていそうな出来の悪い現実なのであった。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )