<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
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映画「舞子Haaaan!」はとってもバカバカしい映画で京都の文化を茶化しすぎていたから失礼だと思った。
ただ、私はその失礼な映画を迂闊なことに楽しんでしまったのだ。
大いに反省すべき点ではある。

というのも、京都の文化はイコール日本の伝統文化といっても過言ではないからだ。
今でこそ、京都は「旧都」や「古都」などと呼ばれ、単なる観光地に成り下がっている気配はあるものの、そこに生活を構える生粋の京都人からしてみると、
「天皇さんは東京へ行幸してはるだけで、いつか御所に帰って来はるんどす。」
と信じていることもなくはなく、(実際に宮中における遷都の儀は実施されていない、と思う)そういう意味において京都にはある種歴史の缶詰め的な様相が詰め込まれているのだ。
畢竟、京都の文化は日本の伝統そのものであり、それを茶化すことは日本自体を茶化すことになるのだと思う。

実際京都には他の地方にはない長い歴史を持つ首都としての不可解なシステムが数多く息づいている。
東京がちょっとやそっとでは持つことのできない、ある種の重厚さが存在しているのだ。

読売新聞社京都総局が編集した講談社+α文庫「京都 影の権力者たち」は、そういう不可解なもの(の一部)を果敢にも取材し、まとめられたものである。
その代表のひとつが映画「舞子Haaaaan!」でも取り上げられた祇園の茶屋遊びだ。
その独特の閉鎖性と、その閉鎖性を裏付ける納得の論理は、「お金になれば」なんでも歓迎の今日の私たちの商習慣に大きな衝撃をもたらす。
知的で、それでいて嫌みがなく、非常にスマートな客のあしらいは見習わねばならないだろう。

京都仏教会の力もまた、無宗教的日本においてかなり強烈である。
観光産業を質に取った京都駅前ビル建設反対デモンストレーションは今もなお記憶に新しい。

伝統の中に、それを否定するような存在も忘れていないのが本書の面白いところで、京都における日本共産党の存在にかなりのページ数を割いているのが印象的だ。
京都という伝統の街だからこそ、過去一千年以上もの間、自由な空気の首都として現在の日本をつくり出してきた街だからこそ存在する政治文化にユニークさを感じた。

考えてみれば京都は伝統の街ではあるけれどもハイテクの街でもあることを忘れてはならない。
京セラ、任天堂、オムロン、ローム、タキイ、ワコール、日本電産などなど、各市場のトップ企業がさりげなく本拠を置く街でもある。

「影の権力者たち」の存在こそ首都京都の貫録なのだ。

~「京都 影の権力者たち」読売新聞京都総局編 講談社+α文庫~

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