「無縁社会」の深刻さを考え続けている、『人はひとりで死ぬ』を読んだ
今日は本当に寒かった。しかし、大震災で被災された方々のことを思うと、黙って絶えた。
そうした中で寒さに震えながら、島田裕巳著『人はひとりで死ぬ 「無縁社会」を生きるために』(NHK出版新書)を読んだ。
この本の「はじめに」に書かれた次の一文を読み、「無縁社会」の深刻さを考え続けている身として、読んでみなければと思った次第だ。
「この本において考えてみようとするのは、無縁社会における生のあり方である。私たちは、無縁社会の到来をどうとらえるのか。その上で、どういった生き方を模索するのか。それは、日本の社会に生きる私たちにとって、極めて重要で、その解決策が求められている喫緊の課題である」(「はじめに」より)。
この著者は、私たちは「村落共同体」の「有縁社会」と自らの意志で決別して、「無縁社会」を求めてきたと規定する。そして、「たんに自由が実現されるだけでなく、可能性が拡大した。だからこそ、無縁になることが強く求められる時代が訪れた」とも書いている。
この著者の「無縁社会」のとらえ方や認識は、私とはずいぶんと違っている。例えば「孤独死の恐れ」について、「果たして、十分な葬式をあげてもらえるのか。墓は用意してもらえるのか。死後の不安は尽きない」と書いている。「孤独死」について、私を含めてそのような不安を持っている方は少ないと思う。「孤独死への不安」とは、「無縁社会」の中に放り出されて、一人寂しく死んでいくことへの不安であると私は考える。
ただ、「人は死ねば、もう戻ってはこない。蘇ってくることなどあり得ない。そして、その死は誰にも守られない孤独なものだ。だからといってそれを嘆く必要はない。なぜなら、死は避けがたいもので、人間は死を打ち負かすことはできないからだ」という記述には同感する。
本を読む場合、どうしても同じような考え方の本ばかり読む傾向にあるが、今回のように異なる認識の本を読むことも意味あることと思った。その意味では、読んでよかったと思える本であった。
「日常」を過ごすことができた。当たり前のことだがとても嬉しく思った
今日は私の誕生だ。いよいよ今日から「前期高齢者」の仲間入りをした。すいぶんと「老人力」は身につけてきたが、気分だけは老いることなく、いつまでもミーハー心を持ち続けて元気で生きてきたいと考える。このブログも、そうした日々をもう少しだけ書き綴っていきたいと考えるので、それこそもう少しだけお付き合いをお願いする。
さてそんな誕生日の今日は、昨日に続いて寒くなりそうだ。昨晩の天気予報では、今朝は氷点下となっていた。今日は勤務日であり、昼間はあまり寒くならないことを願う。
ところで昨日は、実は東公民館「あかれんがクラブ」のみなさんにご一緒させていただいて、「青春18切符」を使って、「京都・北野天満宮の梅見物」と洒落る予定としていた。
しかし、ご案内の東日本大震災の犠牲が余りに多く、今なお多くの行方不明の方がおられ、かつ50万人を超える方々が避難生活を余儀なくされていることを考えると、「あかれんがクラブ」の行事としては自粛との結論となったようだ。
そこで、私はぽっかりと空いた昨日を、懸案となっていた所用を済ませるべく、終日走り回る事態となったわけだ。
そんな忙しい時間の中でも、昨日も書いたが久しぶりの友人と「野菜食堂こやま」で、ランチをともにし語り合った。いつものことだが、「毎日が日曜日」の身となってからは、友人とのひとときを過ごす場合には、ランチをともにすることが多くなっている。
今日利用させてもらった「野菜食堂こやま」の小山津希枝さんにはずいぶんと長くお世話になり続けており、私の現職時代や公民館時代には幾度か講師をお願いもした。
今回、小山さんが『野菜食堂こやま -幸せつなぐ毎日の食卓-』(吉備人出版刊)のご本を出版されて以来、初めてなのでお祝いのご挨拶を思ったが、あいにく出かけておられた。
ともあれ、昨日は忙しく走り回ったり、友人と会うなどの「日常」を過ごすことができた。当たり前のことだが、とても嬉しく思う。
ただ、この寒空に家を流され、暖房も食料も物資もなく寒空を過ごされている40万を超える避難された方々がいらっしゃることを思うと心が痛む。そしてまた、福島原発の事故による放射能汚染は、岡山は平常値だがいよいよ大阪にまで拡がってきているとの報道がある。原爆を経験した日本国民は、再度の恐怖に晒されている。なんとか、くい止めて欲しい。今は祈るのみだ。
米メディア、「なぜ略奪ないの? 」=被災地の秩序、驚きと称賛
ネットで見たのだが、「時事通信」が昨日 配信したニュースには、少しだけ嬉しくなった。書き留めておきたい。
「【ワシントン時事】東日本大震災の被害や福島第1原発事故が連日、トップニュースで伝えられている米国で、被災者の忍耐強さと秩序立った様子に驚きと称賛の声が上がっている。『なぜ日本では略奪が起きないのか』―。米メディアは相次いで、議論のテーマに取り上げている。
CNNテレビは、2005年に米国で起きたハリケーン・カトリーナ災害や10年のハイチ大地震を例に『災害に付き物の略奪と無法状態が日本で見られないのはなぜか』として意見を募集。視聴者からは『敬意と品格に基づく文化だから』『愛国的な誇り』との分析や、『自立のチャンスを最大限に活用する人々で、進んで助けたくなる』とのエールも寄せられた」(16時9分 配信)。
昨日の天皇陛下の会見でも、海外からの寄せられるお見舞いの中で、日本人の「非常事態での秩序だった行動」について、賞賛の声があると語られていた。
ところが、その一方では、既に岡山県下でも「津山市役所職員」の名をかたって、「義援金呼びかけ詐欺」行為も発生している(結果は、未遂に終わったが)。また、ここは書けないような、心配の声も聞いたりもする。どうか千年に一度の国民の非常事態であるので、以前もお願いしたが「一切の悪行はなし」ということで、心して欲しいと願う。心を一つにして、切り抜けようではないか。