『蜘蛛巣城』(くものすじょう)は、1957年に公開された日本映画である。監督は黒澤明、主演は三船敏郎と山田五十鈴。
シェイクスピアの戯曲『マクベス』を日本の戦国時代に置き換えた作品。
ラストに三船の演じる主人公が無数の矢を浴びるシーンで知られる。
これくらいしか知らない。それが鑑賞できる。このために期末考査の採点をがんばった。。。
戦国時代。武将・鷲津武時(三船敏郎)と三木義明(千秋実)は謀反を鎮圧し、主君が待つ蜘蛛巣城へと馬を走らせていた。雷鳴轟く中、「蜘蛛手の森」で道に迷った二人は、不気味な妖婆(浪花千栄子)に出くわす。妖婆は、武時はやがて北の館の主に、そして蜘蛛巣城の城主になる、そして義明は一の砦の大将となり、やがて子が蜘蛛巣城の城主になると告げ、宙に消えた。二人は一笑に付したが、予言はその後、一つずつ現実のものになっていく。
基本的にはシェイクスピアのマクベスのものがたりを読んでいれば、わかりやすいと思う。モノクロ、65年前の作品である。10日に「こうのすシネマ」で見ることができた。同劇場初訪問である。
なお、筋書きについては以下を参考にされたい。
蜘蛛巣城(Wikipedia日本版)
マクベス(Wikipedia日本版)
モノクロ映画
出だし数分で慣れた。これはゴジラ第1作を見たときと同じである。
ものがたりは先述のとおり、W・シェイクスピアのマクベスを戦国の世に舞台を変えて描いているもの。だが、無骨な侍である主人公の鷲津武時が、妖婆(物の怪)に「未来」とも「単なるそそのかし」ともわからないことを告げられる。そのことから彼の運命が狂い、最後には破滅するものがたりだ。わかりやすいものだが、それを映像化するとこうなるのかと感じたこと。
時間のかけ方が、現在と違う
これはエデンの東を見たときにも感じたことだが、現在ではあり得ない時間のかけ方をするシーンがある。本作ならば、鷲津武時と三木義明が雷鳴轟く中、「蜘蛛手の森」を走るシーンはかなり長い。妖婆が二人に語りかけるシーンも、現在ならばあそこまで時間は取らない。見ていてそれが苦痛かというと、そうではない。時間のかけ方、観客をものがたり世界に引き込む手間のかけ方が、現在とは違うことが印象的。特に「蜘蛛手の森」を二人がさまよう部分は、もしも21世紀に作るならば... そんなことを考えた。
人が多い・セットが巨大
とにかく人馬(騎馬武者、足軽、馬)の数が多い。一つのシーンで「同時」に画面にたくさん出ている。ラストシーン近く、城内の兵たちの数はおびただしい。マットペインティングでも、CGでもない。隅から隅まで動いている生身の人間がでている。その数が生み出す迫力は、圧巻である。
その人が右往左往する蜘蛛巣城のオープンセットは、富士山2合目に建設された。とにかく巨大である。門の内側は砧の東宝撮影所(世田谷区)近くの農場にオープンセットを組んだとのことだが、セットとはいえ4階建て(4層)のお城である。
・・・住所だと世田谷区成城である。農場あったんだ。
あれだけの「舞台」があれば、お芝居をする側も、ものがたりの世界に演者は没頭できるだろう。
有名な弓矢のシーン
Wikipedia日本版の記事で撮影方法がわかる。わかってから見ても恐ろしい場面である。
黒澤監督、むちゃくちゃである。
ほぼ男性しかセリフがある役がない。例外は武時の妻の浅茅(山田五十鈴)だけである。所々セリフが聞き取りにくい部分がある。
OPとEDに 蜘蛛巣城址 の碑が出てくる。最終的には蜘蛛巣城はなくなった、滅びたことを示している。無情である。
(文中一部敬称略)