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玉川大学での研修会のこと、院生の参加者が発言した。 「リーディング教材で本文がない場合、どうしますか? |
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授業は教科書を使う。少なくとも、何かマテリアルを用いる。可視化できるもの(文字で表された教材・素材)の存在が前提だ。
昔から教科書を教えるのではなく、教科書を使って教えるという。だから、英語の教科書には、少なくとも読み物教材であれば、必ず本文(マテリアル)がある。先生の立場からすると、当たり前である。本文のない教科書なんて、検定通らんだろうとも思う。発言を聞いた時、そんなふうに考えた。でも、その院生は、「もしも(本文が)ない場合」と言ったのだ。「なかったら」ではなく、「ない場合」である。その院生にとっては、「ない」ということも、可能性として否定し得ないということなのである。その時に、
「そういう授業を受けた経験があるの?
と、尋ねるべきだったと、後で思った。でも、まさに想定外、盲点だった。僕は本文のないリーディング教材というものに、お目にかかったことはない。考えたこともなかった。本文の存在意義について、かなり熱いディスカッションになった。いい勉強になった。
どんな職業でも当てはまるとは言い切れないが、経験を積めばその分、その職業(人)の常識にとらわれる。とらわれていること自体に気がつかなくなる。「常識外」のことにぶつかれるのは、同じ立場の人だけで過ごしてはダメだとということを、再認識できた。
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一部脚色を含みます。