いつも朝の通勤電車で、斜め向かいの座席に座る魔女。気温が高いこの時期は、モノトーン系のTシャツに、美脚のジーンズ姿。斜め掛けのバッグに小さなトートバッグ。トートバッグからはサーモスがのぞいてる。
バッグに黒猫はどうやら入ってはなさそう。
いつも朝、会えるのに、今日は電車に乗らなかった。今朝は不思議とキャスターバッグを転がしている人が多かったから、世間は連休なんだ・・・と勘違いしたが、よく考えたら3連休は来週。涼しくなって行楽シーズン到来と思いきや、週末にはファクサイというラオス語で女性の名前の台風がやってきそう。
最近、遊びに行くことばかり考えてるから、朝乗らなかった女性はどこか旅行へと思ってしまうが、寝坊して電車に乗り遅れた可能性もあるよね。週末は元気でね。
おっしゃぁ・・・ではなくて。。
キルギスの首都、ビシュケクの庶民の台所。ゆえにお買い得。いろいろ味見とかさせてくれるし、最後にオマケもしてくれる。
ビシュケク市街の西部、キエフスカヤ通り沿い。活気がある広いバザール内には生鮮食料品はもちろん、雑貨、衣料雑貨など多種多様なものが売られている。
物見遊山を終えて、バザールの周辺道路で車を待ってたら、地元のおっちゃんに話しかけられた。100%わからないキルギス語。こちらの英語も全く通じない。
なにを話しているのか必死になって応答していると、それが延々と続く。
結局、おっちゃんも、こちらも、自分の言いたいことを勝手にしゃべりつつ、なんとなく会話が成立しているもよう。なんとも不思議な掛け合いだ。
後でそばで見ていた人に、おっちゃんと何を話してたのかと聞かれたが、なにを話してたんだろうね・・・自分( ^ω^)・・・
古くから遊牧民として生き、イスラム教徒の多い国、キルギス。70年にわたるソ連時代に、ロシア文化の影響を受けながらも、彼らの伝統的な食卓は中国の西域やモンゴルからシルクロードを通って伝わった遊牧民の料理だ。
中国西域も、そして、モンゴルも、それらの影響を受けたキルギスも、インスタ映えする料理ではない。今ではいろんな料理があるのだろうけど、アジア各国にある「包(パオ)」料理のキルギス版、「マントゥ」も代表例。小麦粉で作った皮で細かくした肉と玉ねぎ、ジャガイモを包んで蒸した料理。日本の小さなおにぎりほどの大きさ。2個も食べれば、中に詰まったヒツジの肉でお腹いっぱいになる。さらに乗って出てくるのはその2倍。
インスタ映えするカラフルな料理って、基本的に添加物やら化学調味料やらの産物だと思ってる。これに対し、色彩的にさえない、インドや、モンゴル、キルギスあたりの茶色系の料理はスローフード。愛情をこめて時間をかけて作った料理だ。まずいはずはない。
「手は一切使えない。歯を使ってラクダに結んだロープの結び目をほどいたら女の勝ち。ラクダは女のもの。ほどく前に男が性交できれば男の勝ち。ラクダは男のもの」
・・・映画のこのシーン。中国人たちは好色に目を光らせ、日本人たちは描かれてるのが日本人じゃなくて良かったと安心し、キルギス人たちはやるせない思いをしながら見ることだろう。
ひところの日本人たちはエコノミック・アニマルとして、世界のいろんな場所で顰蹙をかっていた。今はそれが中国の男たちにとって代わってる。
「明かりを灯す人」の主人公は、たまたま居合わせた中国のビジネスマンたちに対するこの接待の場面で、見るに堪えかねずつかみかかっていく。袋叩きに合い追い出された男は、電線をショートさせ、あたり一帯を停電させる。
『明りを灯す人』(原題: Svet-Ake(明り屋さん))は、アクタン・アリム・クバト監督の2010年の作品。なお、アクタン・アリム・クバト監督は、姓をこれまでのロシア名「アブディカリコフ」からキルギス人の名前である「アリム・クバト」に変更。
明かりを灯す人は、電気を盗む人でもあった。高い電気代を払えない山奥の寒村の村人たちのために彼は電気を盗んでいた。彼の夢は高台を風車で埋め尽くして、村全体の電力を作り、村人たちに電気を供給すること。
彼の夢は村の実力者に知れることとなり、中国マネーを引き出すための算段が行われる。でもキルギスの歴史は、中国の略奪との戦いの歴史でもある。ロシアやソビエトに併合されてもなお、民族の伝統を守り続けてきた国だ。今でも同族結婚や、キルギス民族同士の結婚をよしとしている。
今後、村では明かりは少しづつ灯っていくのだろう。そんなことを感じさせるラスト。
キルギスの文化にもっと触れたくて借りたDVD。「馬を放つ」。国際的に高く評価されるキルギスのアクタン・アリム・クバト監督の2017年の作品。
「馬は人間の翼」。キルギスの伝説を信じて馬を盗み野に放っている男の姿が描かれていた。・・・人々は翼も心も失い、昔とはまったく違う物になってしまった。
遊牧民を祖先にもつ彼ら。かつて彼らは馬と共に生き、助け合って生きてきた。それこそ、馬が体に一部であるかのように。
いつしか家族同然だった馬は、その価値が忘れられ、愛情や敬意も失われつつある。馬は単なる家畜に、そして競走させて大金を賭ける道具となってしまった。馬を盗んで隣国に肉として売る輩も出てきた。
馬とともに生きてきた、キルギスの人々のアイデンティティーが次第に失われていく現代。そして男は馬を盗み野に放つ。
野良の馬として寿命を全うできる可能性があるのなら、飢えたオオカミに襲われる危険があっても、自由に野を駆けさせる方が馬たちにとって幸せなのかもしれない。人と馬のきずなが薄れた今となっては。。
・・・ならばこそ、これぞという馬と人とのからみを観たかったのだが、映画にはそれはなかった。彼らにとって、馬はあくまでも馬であり、どこかの国のペットのように安っぽい愛情を注ぐ相手ではない。