tetujin's blog

映画の「ネタバレの場合があります。健康のため、読み過ぎにご注意ください。」

ヨコハマ大道芸

2008-04-26 21:54:35 | プチ放浪 都会編

小さかった頃、夕方遅くまで遊んでいると「サーカスにさらわれる」と脅されたものだった。サーカスにさらわれると鞭で打たれ、一生、旅をしなといけないと本気で信じていた時期があった。だから、大道芸も含めて、旅芸人を見ると切ない複雑な気持ちになってしまう。あの笑いを誘う道化の陰には、悲しい生活があり、サーカスに連れてこられた幼い頃のつらい過去があるのだと。
フェデリコ・フェリーニとニーノ・ロータが残したイタリア芸術が煌く『道』。ここにも、旅に生きるしかなかった切ない人々の苦悩が描かれていて、その悲しく切ない映像とメロディーに涙が溢れてくる。

 「旅」と「芸」はつながりやすいのだろう。何らかの理由で住んでいた地を離れることを余儀なくされ、あてのない場所で稼ぐ方法としての芸。だが、大昔のジプシーも含めて放浪芸人は、西洋でも東洋でも差別される立場にあった。定住者にとって、流れてきた余所者は自らを脅かす厄介な存在に感じられるからなのだろう。こうした差別に傷ついた芸人が、自らの芸によって自分自身が癒されることもあったのかもしれない。

日本にも、道の芸・街の芸とよばれるものがある。浅草の見世物や手品(てづま)、新潟地方の瞽女(ごぜ)、津軽地方のボサマ、人集めの手段としての香具師芸もそうだろう。こうした日本の古き大道芸を小沢正一が精力的に学究的な研究を行っている。彼によれば、流しの歌手も旅芸人だ。たしかに、娯楽が少なかったその昔、はやり歌が庶民の娯楽を支えていた時期があったことは間違いない。

旅への憧れはむしろ定住する者が、鳥のように大空に憧れるのと同じ気持ちで生み出した幻想なのかもしれない。旅に出ると、毎回、新しい何かに出会う。そして、その度に古い自分が壊されてゆく。ぼくには何にも芸はないけど、せめて稚拙でも文章を。・・・・・・これが新しい自分との出会い。