2月22日(月)、福井県南越前町の今庄地区を経由して京都の自宅に向かう。平成の大合併で3つの町村合併で誕生した南越前町は、海・山・里の町である。私の故郷の自宅がある河野地区は海、今庄地区は山、南条地区は里となる。
今庄地区は奥越地方(大野・勝山)と並び、福井県屈指の豪雪地域だ。冬、京都からJR列車で敦賀まで来て雪がなくても、敦賀から長い北陸トンネルを抜けて今庄地区が見えた瞬間、雪が積もっているという白い世界の光景はもう何度となく見てきた。川端康成の小説『雪国』の冒頭、「国境の長いトンネルを越えると、そこは雪国であった。」と書かれているが、ここ今庄もまた、北陸の地「雪国」に入ったという感のある地区だ。
河野地区から、7年ほど前にできた長いホノケ山トンネルを抜けて南条地区に入る。そこからさらに敦賀方面の今庄地区に入ると雪がけっこう残っている。清流の日野川の河原にも白い雪が残り、春が近いのか、川面が陽光を浴びてキラキラ光っていた。宿場町の風情が色濃い今庄宿に入ると雪はさらに多く残る。今は町の駐車場となっている旧今庄小学校跡地となりの寺院には、除雪された雪が城の土塁のように置かれていた。
今も3軒もの酒造会社がある今庄の宿場町から孫谷集落を経て、国道365号線(北国街道)をさらに木ノ芽峠方面に進むと雪がかなり多く残っている。このあたりが、北陸トンネルの出入り口となり、あの『雪国』の冒頭を彷彿させるところだ。中世になって今庄宿場町はつくられ、幕末頃には、240戸、人口1300人、旅籠55軒、茶屋15軒、酒屋15軒、問屋3軒もあった大宿場町だった今庄。豪雪地帯だけに、最近では平成23年(2010)に2m50cm余りの降雪を記録している。おそらくこれよりもっと奥にある板取宿跡では3mをゆうに越していたのではないかと思う。
木ノ芽峠の麓に「板取宿」がある。かなり雪が残っていて残雪がまだ深い。越前市(旧・武生市)や今庄宿場町から側の冠木(かぶらき)門を通りしばらく進むともう進めなくなった。雪が除雪されていなくて進めない。祠や家屋も周囲はけっこう深い雪景色が残る。
ここ「板取宿」は、近江(滋賀県)や若狭(福井県)から越前(福井県)に至る2大ルートである、「北国街道」(栃ノ木峠越)と「湖西路街道」(木ノ芽峠越)が合流する場所にある。だから江戸時代初期には宿場ができて関所も作られた。1600年の関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、次男である結城秀康を、かって朝倉氏や柴田勝家などが領した越前国68万石の領主として配置した。「越前・北ノ庄藩」である。この時、秀康は板取に宿場と関所としての口留め番所をつくり警戒し、往還の旅人を取り締まった。
その後、江戸時代を通じて「越前・北ノ庄藩」は、「福井藩32万石・丸岡藩5万石・大野藩4万石・勝山藩2.3万石・鯖江藩4万石」などに分割されていく。幕末の福井藩の藩主は英俊の呼び名のあった松平春嶽であった。幕末頃の板取宿は、旅籠(旅館)7戸、茶屋3戸、問屋3戸などがあり、全部で53戸、300人あまりが暮らしていた。
私の記憶では10歳のころに三・八大豪雪(昭和38年・1963年)というのがあって、冬でも海沿いのため雪の少ない河野地区の私の家でも1階は雪に埋もれ、2階の窓から出入りしたことがあった。おそらく、ここ板取宿の家々はすっぽりと雪に家全体が覆われて家が見えなくなっていたのではないかと推測する。このころから板取では離村が増えてきたようだ。1981年に板取は住む人がほぼ移住し廃村となった。
県内に移住したかっての板取の住民が定期的に墓参りにきたりして、茅葺の家々を修繕したり保存してきていたが、2000年代に入り7〜8戸を残すのみとなる。歴史的な宿場の面影をそのまま残す、江戸時代にタイムスリップしたような石畳の道とかやぶき屋根の家々が残る旧板取宿を残そうとの保存の動きがあり、NPO法人を立ち上げて現在の家々の修繕・保存に努めている。
敦賀方面からの板取宿の番所跡に行くと、雪上を足跡があって、ここから宿場の茅葺屋根家屋に向かう。誰も今は住んでいないはずなのが、番所に最も近い家の軒先に行き、玄関の戸を開けようとしたが鍵が閉まっていた。と、その後、玄関が突然に開いて、わりと若い40代の女性がでてきたので「あっ!」と驚いた。人が住んでいた。表札があって「南」と書かれていた。最近、この家に夫と二人で住み始めたのだという。
宿場を流れる水路に、雪解けの水が陽光を受けてキラキラ光ってほとばしるように流れていた。春近しの光景だった。
この板取宿跡から木ノ芽峠に向かう広い道路がある。山腹から峠にかけて「今庄365スキー場」と「今庄365温泉ゆすらぎ」があるからだ。平日でスキーシーズンも終わりかけなのかコロナのためなのか、7〜8人の家族連れがスキーやソリ遊びを楽しんでいただけだった。雪はまだたくさん積もっていた。
温泉の建物付近からは高峰の雪山が見えた。石川県・福井県・岐阜県の三県にまたがる霊峰の「白山かな!?」と思った。温泉の従業員のおばさんに「あれは白山ですか?」と聞くと、「あれはあ~白山でないんやわね~、部子(へこ)山やわね~。お客さんはほとんど間違えるんやわねえ‥。白山はあの部子山の左の方の奥に白い山が見えるでしょう~、あれが白山連峰やわね~」とのことだった。なるほど奥まったところに白い高峰が見える。ここから間違いなく白山が見えた。そうか、故郷の南越前町からは白山が見えるのかと思った。木ノ芽峠まで登れば、もっと白山連峰がよく見えるのだろう。
福井県と岐阜県の県境の山々は、能郷白山(1617m)・部子山(1464m)・冠岳(1257m)・三周ケ岳(1292m)などけっこうな高峰が多い。南越前町の三周ケ岳の山頂付近には「夜叉ケ池」という神秘的な池がある。ちなみに白山連峰の最高峰・別山の標高は2399m。27年ほど前の1994年に、この白山の山頂付近で「恐竜発掘調査団」の一員として調査にあたり、恐竜の足跡化石を何箇所か見つけた。熊にも遭遇した。猛毒のトリカブトも自生していて、紫の花を咲かせていた。白山連峰も恐竜絶滅後の数千万年前に、地殻変動で隆起してできた山々なのだ。福井県勝山市には世界的にも有名な「福井県立恐竜博物館」がある。
国道365号線の木ノ芽トンネルを通り、敦賀市側に出ると、「木ノ芽峠1.6km」の➡看板が雪の中から見える。ここから峠道を登ると木ノ芽峠に至る。この峠道は平安時代初期の830年につくられた古道。紫式部、平安時代末期の武将・木曽義仲、宗教家の親鸞や道元や蓮如、鎌倉時代末期の武将・新田義貞、そして戦国武将の朝倉義景や織田信長、明智光秀、羽柴秀吉、江戸時代の芭蕉、幕末の水戸天狗党などなど、みんなこの峠を越えていった。
この日、琵琶湖の東岸を久しぶりに通り、東近江市永源寺町にある娘の夫の実家に、敦賀の日本海市場で買った魚やエビ、カニなどを届けて、京都の自宅に戻った。
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