彦四郎の中国生活

中国滞在記

四国に行く②―種田山頭火の終焉の庵、今治城、そして「瀬戸内しまなみ海道と村上水軍」の島々―

2015-03-03 15:24:33 | 滞在記

 21日(土)の午後には、伊予松山城の見学後、愛媛県大洲市の近くにある内子町の「内子宿」を見学した。古くからの街並みが街道沿いに見事に保存されていた。内子座という芝居小屋も立派だった。そして、夕方に松山市内に戻り道後温泉に到着し、湯につかった。

 翌日22日(日)の早朝、朝風呂に入りに行った。閩江大学で担当している学生(1・2・3回生)100人分の石鹸を買った。1個40円の小さなみかん石鹸だ。朝食を食べた後、道後温泉内にある「道後公園」を散策した。この公園は、「湯築城」という城跡だ。内堀と外堀がある平城だが、その歴史は古い。河野水軍として源平の戦いにも登場してくる河野一族の本拠地だった城跡である。壇ノ浦の戦いの時、この河野水軍が源氏方に味方をしたため、源義経の率いる軍勢が勝利をしたといわれている。永らく栄華を誇った河野氏も、豊臣秀吉の「四国侵攻」で湯築城が陥落した。現在、一部に屋敷跡も再現されている。土塁も見事に残されていた。また、内堀の景色はまるで庭の池のようだった。この内堀を眺めながら宴会などもされたのだろう。一番高い本丸跡の櫓からは、瀬戸内の海や伊予松山城が見えた。

 道後温泉を後にして、愛媛大学や松山東高校(旧松山中学で「坊ちゃん」の舞台)に立ち寄った。そして、「坂の上の雲ミュージアム」に行った。ちょうど車を駐車したコインパーキングは、「旧 夏目漱石寓居跡」だった。
 昼の12時頃にJR松山駅に到着し、特急と新幹線を利用して京都に帰る妻を見送った。

 22日(日)の午後、愛媛大学の近くの山麓にある「一草庵」に行った。ここは、漂泊の自由律俳人・種田山頭火の終焉の地だ。庵跡の敷地に入ると、「濁れる水の ながれつゝ澄む」や「おちついて死ねさうな 草枯るる」などの歌碑が何か所かあった。「濁れる水の----」の句に心感じる。

 庵は、新しく再建されていた。「どうぞ、どうぞ。」と、建物を管理運営している「まつやま山頭火倶楽部」の人達に促されて庵に入る。仏前で拝む。位牌や漂泊托鉢の時に使った頭傘がある。倶楽部の人4人と2時間あまり話し込んだ。中国のことについてもたくさん質問されながら話した。

 とてもいいものをもらった。倶楽部の人が「欲しいだけ持って帰ってください。」と言ってくれた。山頭火の句が書かれた短冊だ。昨年度の「書作(3回生作文)」の授業で、山頭火や尾崎放哉や石川啄木の詩や句を学生達に紹介したことを話したからだ。全部で30種類くらいの短冊をもらった。中国に帰ったら、今年度の「書作」の授業で使いたい。
 一草庵を後にして、一路 愛媛県今治市に向かう。途中で、ホテルの電話予約がとれた。夕方4時半頃今治に着いた。さっそく、今治城に行った。1600年頃に藤堂高虎によって築城された今治城は、三重の堀に海水を引き入れた特異な構造をもつ城だ。日本「三大水城」の一つで、当時は海から内堀まで直接船で入ることができたようだ。海上交通の要所・今治らしく、海を最大限に活用した城だった。

 23日(月)の早朝、今治から来島海峡大橋を通って「瀬戸内しまなみ海道」の島々を巡った。このしまなみ海道の島々は、中世から戦国時代において、日本最大の水軍勢力だった「村上水軍」の古城も多い。

 この村上水軍は、戦国時代に「因島村上・能島村上・来島村上」の3家に独立していた。愛媛松山の河野氏に近い「来島村上」、山口・広島の毛利氏に近い「因島村上」、そして独立性の強かった「能島村上(村上武吉が有名)」だ。能島村上水軍の根拠地である「能島」を見た。小さな島である。そして、島の周りは瀬戸内海の激しい潮流が渦巻いていた。
 大島・伯方島・大三島・生口島・因島・向島をつなぐ大橋を通過して、広島県尾道市に着いた。それから、山陽自動車道ひたすら東に向かう。途中のサービスエリアに自衛隊の装甲車が駐車していた。小型砲が掲載されていた。日暮れ前に京都に着いた。パジェロ・ミニがよく走ってくれた。






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