彦四郎の中国生活

中国滞在記

昭和の名曲、「雪椿」と「天城越え」―この唄の歌詞は文学賞ものだろうとも思う‥

2023-03-17 07:58:23 | 滞在記

   1926年12月から1989年までの約60年間以上も続いた「昭和時代」。時代を映す昭和の歌謡曲には、多くの名曲というものがある。そして、それらの名曲の中には、「この唄の歌詞はもう文学賞ものだろう」とも思われる歌謡曲がいくつもある。例えば、今回取り上げる「雪椿」と「天城越え」。

 「雪椿(ゆきつばき)」の作詞者は星野哲郎、作曲したのは遠藤実。そしてこの歌を歌ったのは新潟県(越後)生まれの小林幸子だった。

「雪椿」 一、やさしさと かいしょのなさが 裏と表についてくる そんな男に惚れたのだから 私がその分がんばりますと 背(せな)をかがめて 微笑み返す 花は越後の 花は越後の 雪椿  二、夢にみた 乙女の頃の 玉の輿(こし)には 遠いけど まるで苦労を楽しむように 寝顔を誰にも 見せないあなた 雪の谷間に 紅さす母は 愛は越後の 愛は越後の 雪椿  三、つらくとも がまんをすれば きっと来ますよ 春の日が 命なげすて 育ててくれた あなたの口癖 あなたの涙 子供ごころに 香りを残す 花は越後の 花は越後の 雪椿

 上記のような「雪椿」の歌詞だが、この歌の歌詞は、夫を想う妻の気持ちや、苦労して育ててもらった子供たちから見た母への想いが書かれている情歌だ。惚れた男と結婚し、苦労も重ねながらも子供を育てる女性の一生が、この歌詞に雪椿」に重ね合わせて見事に詩が綴られている。遠藤実のメロディもまたこの詩に情感を添えている。「雪椿」は1987年に発表された。昭和時代が終わる2年前となる‥。
 

 この歌の女性の生き方に重ね合わせて唄われる「椿」は、日本の固有種で、日本が原産地の花であり、『万葉集』にも9首に椿が詠われてもいる。九州から東北にかけて自生しているが、自生の北限は青森県。日本以外では、朝鮮半島南部、台湾などでも見られる花となっている。この「雪椿」の歌詞にもある越後(新潟県)の県歌は「椿」。

 韓国の女性歌手・桂銀淑(ケイ・ウンスク)が唄った「釜山港へ帰れ」という歌にも椿は歌われる。歌詞は、「椿咲く 春なのに あなたは帰らない たたずむ釜山港(プサンハン)に 涙の雨がふる‥‥」。この歌にもあるように、日本でも椿の花は主に春の3月に咲く種類が多い。(2月~3月に咲く種類と4月~5月に咲く種類とが主にある。)

 日本で自生している椿の中で最も多いのは藪椿(ヤブツバキ)。このヤブツバキは太平洋側に自生している。「雪椿」で歌われている「雪椿」は、雪の多い、東北地方から北陸及び山陰地方の日本海側に自生する椿の品種。名前の由来は、「冬の雪に耐えて育つ」ことにある。枝がしなやかで、花は真紅でヤブツバキよりも小さい。また葉は、ヤブツバキよりもギザギザがはっきりしている特徴ももつ。太平洋側のヤブツバキ種が日本海側の気候に応じて変化して自生したという説が有力だ。雪椿の花が開花するのは、雪解けが始まる3月~4月頃。

■歌手の小林幸子さんは、1953年生まれで現在は69歳となった。彼女は57歳の時に、8歳年下の男性と結婚した。(初婚だった)

 3月中旬の京都市内(太平洋側)は今、ヤブツバキやその他のいろいろな種類の椿の花が最も開花している季節となっていて、椿の見ごろを迎えている。

 「これは、もう 季節感や情感を表現する言葉の豊かな言語である日本語でも、秀逸な歌」だと、思えるのが「天城越え」の歌詞。『万葉集』から始まる日本の文学史上、男女の恋についてのさまざまな歌が短歌や詩などでも詠まれてきた日本であるが、歌謡曲というジャンルを超えて、これを詩という観点から見ても「天城越え」は秀逸だ。

 この2月に、東京テレビ系列のBS放送番組「昭和歌謡―ヒット曲にかける作家たちの情熱!―作詞家・吉岡治と"天城越え"」が放送された。「名曲はどのようにして誕生したのか」‥のテレップ。

 この歌謡曲「天城越え」は1986年に発表された。作詞は吉岡治、作曲は弦哲也、歌うのは石川さゆり。石川さゆりは1958年生まれなので、この「天城越え」が発表されていた時は28歳となっていた。アイドル歌手として出発したが、1977年に「津軽海峡冬景色」を発表し、大ヒットとなり、国民的な演歌歌手ともなっていた。そして、1981年に結婚し、84年には女の子(佐保里)を出産し、一児の母ともなっていた。

 前出の番組「昭和歌謡」で吉岡や弦によって語られていたが、この「天城越え」は、彼らにとって石川さゆりに歌ってもらうための歌だった。しかし、歌ができて、石川にこの歌を歌うことを頼むことになるのだが、石川はこれを歌うことをためらった。歌詞の内容が「これは不倫の歌‥歌詞の言葉が"あなたを殺してもいいですか…"など激しすぎる‥私には歌えない‥」という思いだろうか、二人からの依頼をなかなか引き受けなかった‥。

 吉岡治と弦哲哉は、この「天城越え」を、天城峠ちかくの「湯ヶ島温泉」にある「白壁荘」という温泉旅館で宿泊し作りあげた。吉岡と弦の説得により、とうとう石川はこの歌を歌うことを了承した。

 「天城越え」

 一、隠しきれない 移り香(が)が いつしかあなたに 浸(し)みついた  誰かに盗られるくらいなら あなたを殺してもいいですか 寝乱れて 隠れ宿 九十九(つづら)折り 浄蓮'じょうれん)の滝    舞い上がり 揺れ墜(お)ちる  肩のむこうに あなた― 山が燃える 何があっても もういいの くらくら燃える 火をくぐり あなたと越えたい 天城越え

 二、口を開けば 別れると‥‥‥‥恨んでも 恨んでも 躯(からだ)うらはら あなた―山が燃える‥‥‥‥‥‥‥‥

走り水 迷い恋 ‥‥戻れなくても もういいの くらくら燃える 地を這(は)って あたなと越えたい 天城越え

■なんというすごい歌詞なのだろう。日本語の豊かさをもって完璧なまでに表現している、この情感の歌詞。私は、いつだっただろうか、伊豆半島を巡り、天城峠隧道や浄蓮の滝、湯ヶ島温泉や下田にも行ったことがあった。文学者の川端康成はこの伊豆半島を舞台にした小説『伊豆の踊子』を創作した。のちにノーベル文学賞を受賞することとなる。中国の大学で、4回生を対象とした「日本文学名編選読」の授業(全15回)の中では、川端康成のこの『伊豆の踊子』なども取り上げている。

『伊豆の踊子』の冒頭文は、「道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思う頃、雨あしが杉の密林を白く染めながら、すざましい早さで麓から私を追ってきた。‥‥」この冒頭文の表現もさすがだが、それに匹敵するぐらい、いや、情念の表現としては、それをはるかに越す詩の物語が「天城越え」だ。   

 どんな気持ちで、それなりの心の整理をつけて、この「天城越え」を歌うことの覚悟を石川はもったのだろうか。やはり、この「天城越え」の歌詞やメロディに強く惹きつけられ、「やはり歌ってみたい‥」と思い至ったのかと思われる。

 石川さゆりさんは、この「天城越え」発表後から3年後の1989年に離婚し、5歳の娘を育てるシングルマザーとなった。離婚の原因はよくわからないが、一説には、石川さゆりさんと喜多嶋修さん(女優・喜多嶋舞さんの父親)とのW不倫が原因とも‥。「天城越え」を歌うかどうか迷っていた時、すでに喜多嶋さんとの付き合いがあったのかもしれない‥。人に言えぬ「忍ぶ恋」だ‥。しかも、まだ我が子は幼い‥。

 石川さゆりさん(現在65歳)の一人娘である石川佐保里さんも、現在は38歳となっている。母である石川さゆりと祖母の女性三人で暮らしているそうだ。佐保里さんは、若い時にイギリスに留学したが、その留学先で対人恐怖症の精神の病にかかり、その後、日本に帰国し、現在は病気も治癒したようで、石川さゆりさんの芸能事務所を手伝っているようだ。

 作詞家の吉岡治さんは1934年の生まれ。2010年の5月に76歳で死去した。通夜に参列した石川さゆりさんは、「気持ちの整理がつきません‥」と語っていた。この通夜には、歌手の島倉千代子さんなど、たくさんの歌謡界の人たちなど500人余りが墓前を弔った。吉岡さんは、1953年に詩人のサトウ・ハチロー門下生となり、童謡曲では、「おもちゃのチャチャチャ」(野坂昭如と共同作詞)や、「あわてんぼうのサンタクロース」なども作詞している。

 作曲家の弦哲哉さんは、1947年生まれで、現在75歳となる。私の故郷(福井県)の近くにある越前水仙が咲き誇る越前岬には、弦さんが作曲した「越前有情」の歌碑があり、ボタンを押すと歌が流れる。(五木ひろしが唄う)  福井県の県歌は「越前水仙」だが、この花もまた、雪の中で花を咲かせる。ここ越前海岸には、雪の中、水仙と雪椿が咲く。弦さんが作曲した曲では、私が時々カラオケで歌う「古都逍遥」(都はるみが唄う)もある。

 昭和の女性歌手たちの中で、私にとって島倉千代子さんと石川さゆりさんは、もっとも憧れる二人だ。島倉さんが「ジーパン大賞を受賞した1999年の頃、初めて「島倉千代子歌謡ショー」を見に行った。場所は大阪府枚方市の市民文化センターでのコンサートだった。まだ、石川さゆりさんのコンサートには行ったことがないので、機会があれば、ぜひ行ってみたい。

 島倉千代子さんは1938年生まれで、1955年の17歳のときに「この世の花」でデビューした。以来、亡き私の祖父母・私の父母とともに、親子三代にわたり島倉さんのファンだった。島倉千代子さんは、数々の名曲を歌った人だが、人生においても、結婚・離婚、そして何人かの人の借金の保証人になったために、総額16億円もの借金を背負わされ、それをこつこつと返済し、完済し終わった50歳代には、癌などの病気にたびたびかかったり、姉が自殺をしたりと、たくさんの苦労もした人だった。

 人からの度重なる裏切りに会い、多額の借金も背負わされ、自身も睡眠薬自殺を図ったりと、人生のどん底にあった1981年、吉岡治作詞・市川昭介作曲の「鳳仙花(ほうせんか)」を歌うことになり、この歌に救われたと語ってもいる。その後、1987年には「人生いろいろ」が大ヒットした。2013年、75歳で死去した。小林幸子さんは、10歳の頃から島倉千代子さんに憧れ、成人となり、歌手を目指し、その後、島倉を母のように慕うこととなった。

 島倉千代子、小林幸子、石川さゆり、三人とも昭和から平成にかけての素晴らしい歌姫たちだ。

 

 


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