池袋時代のKさんがいないと、蕎麦打ちをやっていなかった。
Kさんの友達の建築家の白井さんが、広島の達磨の建築をやって、
そのご縁で、達磨の蕎麦打ち道場にいくことになった。不思議なえにし。
昨日は、愛媛の宇和島から大学時代の恩人のKさんの奥さまが蕎麦を手繰りにこられた。
Kさんは、ぼくが入学した時に、5回生やった。そのころ立命館の広小路校舎には法学部と
文学部が残っていて、ぼくたちは法学部だったけど、ELSに所属していて、シェクスピアやロレンス
なんかを原書で読んでいた。自分では苦学生と思っていなかったけど、大学の近くの荒神口に
「安兵衛」といううらぶれたおでんやがあり、そこでほぼ毎日のように、豆腐とうすあげで名誉冠という
伏見の酒を10本くらい飲んでいたので、下宿代がたまり、時計やオーディオが質屋をいったりきたりし、学食では
メニューにない「ごはんと卵」を注文して、食堂のおばちゃんが、てんぷらのあまったんとか、野菜のたいたん
なんかを、こそっとくれたりした。在る日、K先輩が「明日の朝三条京阪の駅にこいや」と誘ってくれた。伏見の
酒蔵でもいくのかいな?と思っていたら、淀の京都競馬場だった。臨時厩務員として、京都で開催される日に、
厩舎にはりつく仕事だった。京都大学、立命、同志社の乗馬クラブの人たちがほとんどで、そのアルバイト代
が、クラブの馬さんたちの「かいば料」になる、という日本競馬界の計らいだった。
その他に特別枠があって、「貧乏な苦学生を救う」意味で京都大学、立命館のワクが数席あった。
K先輩が、卒業していった先輩の空席を、ぼくにゆづってくれた。そのころ立命館の授業料が一年198000円だった。
競馬場から40万円もらうことになったので、まるで乗馬を趣味にするおぼっちゃんみたいに裕福になった。
最初に給与をもらった時に、Kさんが大宮通下立売下る(シモダチュウーリ、と読めれば京都通)にある
ライブハウスに連れていってくれた。coffee housu 拾得 と看板にあった。「しゅうとく」と読んだら
K先輩が「じゅっとくというんや。かんざんじゅっとく知らへんのか」と言われ、説明を聞いた。その日聴いた
音楽よりも、その寒山拾得の世界のほうが印象に残った。それから先、京都のお寺の屏風絵なんかに、
寒山拾得の絵を発見するたびに、田舎の学問より京の昼寝やと思った。時がめぐり、縁あって、愛媛の
南條先生と出会い寒山拾得のギャラリーを始めた。その直後にK先輩が仕事で上京され、天真庵にきて
寒山拾得の絵を見ながら、酒を酌み交わした。在る日、京都のKさんが下宿していたMさんから電話が
あって「Kさんが死にはった」とのこと。48歳やった。そして、息子さんたちが時々天真庵に蕎麦を手繰りにきては、
若かりしころの自分のおやじKのことを聞きたがった。昨日はふたりの息子と還暦を迎えた奥さんの「ちゃんちゃんこの蕎麦会」
になった。帰り際に南條先生の「寒山拾得」の短冊を持ってかえってもらった。まさに、里帰りみたいな話だ。
人は裸ひとつで産まれてきて、何ももたずに、ひとりで帰っていく。だから、お金も、財産も、恋人やつれあいや家族
もみんな借り物、神さまが必要な時に貸してくださる。だから必要がなくなれば、「ありがとうございました」と感謝して
かえす。そんなことを、粗衣粗食で生き暮らした寒山と拾得が教えてくれる。
「居」 今こうして、ここに、生かされていることに、感謝しない人は、日本人、人間ではない。