「われもこう」
可憐な花であり、そのままほっとくとドライフラワーになっても風雅な秋を永劫に
集約するような風情がある。昨日は午前中は「卒啄珈琲塾」。
昨日届いたボサノバのCDを聴きながらブラジルやコロンビアを焙煎して、
それを各自が石臼で挽いて、銅の手鍋で抽出する。いたって簡素なもの。
日本語で歌うタクシードライバーのなんやらさんのボサノバを聴きながら飲む
「ほぼぶらじる」は、恋人どうしみたいに息がピッタリとあう。
午後は、今月いっぱいで締める古本屋に走り、本をもてるだけ買う。
紙袋を二重にしてもらって両手に抱え、リュックにも入るだけいれ、表参道の
織田流煎茶道の茶室に向かう途中で雨が強くなった。♪だけれど問題は今日にお雨 傘がない
いや正確にいうと傘をさす手があいてない!
玉露手前のひとつ「ちゃぶ台手前」をお稽古が終わると、瞬間的に雨がやんだ。
みなが秋のお茶会の打ち合わせをしているのを横目に、「逃げるように失礼御免」といって
また本をかかえて押上天真庵へ・・・お店に入ると本の重さで、ばったん、と倒れそうだった。
それから夜のお茶会。昨日はお弟子でお花屋さんをやっている女性が 吾亦紅(われもこう)と日扇(ひおおぎ)をもって
きてくれたので、久保さんの古瀬戸風の花器に投げ入れ、星野村の煎茶を入れた。
日扇・・・葉が貴族のもっている扇に似ているのでそう命名された。
日といえば、夕日。星野村では昔「夕日ぐすりの器」といって茜色の器があり、新茶を
注ぐと砂金のように輝いた幻の陶器があった。それを再興させた陶芸家に源太さんこと、
山本源太さんがいる。この夏のお茶会でご一緒し、窯でもお茶をご馳走になった。
彼は詩人でもある。
彼は自分のことを「土泥棒」という。恋泥棒、花泥棒、土泥棒は素敵などろぼう!
扉は閉ざされた 塗りこめた泥を最後に 窯内の器はもはや
誰のものでもない 小さく願うのではなく まして突き放したわけではない
火を入れて蹲り 火が火の力で熟れるのを待つ
風はやみ想念は消え ただ薪のはぜる音を聞く
火は火をよんで燃え盛り みよ煙は紫にたちのぼる
そのときだ土が柔らむのは
器は火を喰らい 型を崩さず火に溶ける
衣を太古へ脱ごうとして 土が耐えているとき もう内をのぞかない
手にとれそうで犯しがたい
みずからにひきこもる器との なんという透明な感覚 「源太詩集 蛇苺より」
今日の夜は「ダメ中」 ぼくは後楽園ホールに「ハリキリボーイズ」たちの試合の応援。