お待たせしました。
残り2つの自販機もなくなりました。
メーカの人が「なんとか端っこでもいいので、2個は残していただけませんか?」
ということだったけど、やっぱり「ちがう」ので、きっぱりと断らせていただいた。
お茶もそうだけど、ペットボトルで飲めるような便利さとひきかえに、急須のある家が少なくなったし、おいしいお茶を入れられる人がいなくなった。
もう少しいえば、お茶の製法も、最初は名人がいて、「手もみ」でやっていた。
でも、それが人に伝わりにくくなったり、大量生産をさまられて機械化していった。
珈琲も同じ。最初は、生産国も「手摘み」だったし、焙煎するほうも、その豆を大切に選別したり、水で洗ったり、死に豆を排除したりしながら、ていねいに焙煎したし、それを入れるときも、自然に感謝しながら、ゆっくりと抽出していた。
だから、そんな珈琲一杯を大切にするお店では、お客さんも、1日の始まりの区切りだったり、途中の句読点だったり、人生の余白だったり、したんだと思う。
なんか「やさしい時間の連鎖」みたいなものが、あったように思う。
缶コーヒーを飲みながら、八代あきを聴き、涙を流すような人生は、やっぱり無味乾燥
だと思う。
一杯の珈琲が、夢とか出会いとか、の仲立ちになる、そんな時代をもう一度味わえる場所をつくりたいと、つくづく思う。
一杯500円。缶コーヒーの5倍やけど、その価値がわかる人が、きてほしい。
残り2つの自販機もなくなりました。
メーカの人が「なんとか端っこでもいいので、2個は残していただけませんか?」
ということだったけど、やっぱり「ちがう」ので、きっぱりと断らせていただいた。
お茶もそうだけど、ペットボトルで飲めるような便利さとひきかえに、急須のある家が少なくなったし、おいしいお茶を入れられる人がいなくなった。
もう少しいえば、お茶の製法も、最初は名人がいて、「手もみ」でやっていた。
でも、それが人に伝わりにくくなったり、大量生産をさまられて機械化していった。
珈琲も同じ。最初は、生産国も「手摘み」だったし、焙煎するほうも、その豆を大切に選別したり、水で洗ったり、死に豆を排除したりしながら、ていねいに焙煎したし、それを入れるときも、自然に感謝しながら、ゆっくりと抽出していた。
だから、そんな珈琲一杯を大切にするお店では、お客さんも、1日の始まりの区切りだったり、途中の句読点だったり、人生の余白だったり、したんだと思う。
なんか「やさしい時間の連鎖」みたいなものが、あったように思う。
缶コーヒーを飲みながら、八代あきを聴き、涙を流すような人生は、やっぱり無味乾燥
だと思う。
一杯の珈琲が、夢とか出会いとか、の仲立ちになる、そんな時代をもう一度味わえる場所をつくりたいと、つくづく思う。
一杯500円。缶コーヒーの5倍やけど、その価値がわかる人が、きてほしい。