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国連障害者権利条約、日本ようやく批准へ 国内法令整う

2013-12-04 09:34:41 | ダイバーシティ
(以下、朝日新聞から転載)
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国連障害者権利条約、日本ようやく批准へ 国内法令整う
2013年12月4日03時01分

 障害者の差別禁止や社会参加を促す国連の障害者権利条約の承認案が3日、参院外交防衛委員会で全会一致で可決された。4日の参院本会議で可決され、国会で正式に承認される見通しとなった。条約発効から5年余りでようやく日本の批准が実現する。

 条約は2006年12月に国連総会で採択され、08年5月に発効した。「障害に基づくあらゆる差別」の禁止や、障害者の権利・尊厳を守ることをうたう。締結国は、公共施設を使いやすくするなど、さまざまな分野で対応を求められる。主要8カ国(G8)のうち日米以外の国や中国、韓国など、計137カ国と欧州連合が締結済みだ。

 日本政府は早期締結をめざしたが、障害者団体が「国内対策を充実させた上で批准すべきだ」と要望。政府は12年に障害者総合支援法を、今年6月には障害者差別解消法を成立させるなど、批准に向けて国内法令を整備してきた。

 障害者関係団体でつくる日本障害フォーラムの藤井克徳・幹事会議長は「批准は日本の障害者施策の夜明けになる。条約を活用し、取り組みをさらに充実させていくことが大事だ」と話している。

「学ぶ権利守り続ける」 在日外国人支援の信愛塾で35周年つどい/横浜

2013-12-02 12:20:02 | 多文化共生
(以下、カナロコから転載)
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「学ぶ権利守り続ける」 在日外国人支援の信愛塾で35周年つどい/横浜

2013年12月1日

手話付きで合唱する子どもたち=ワークピア横浜

 在日外国人の生活と学習を支援するNPO法人「在日外国人教育生活相談センター・信愛塾」が30日、横浜市中区山下町のワークピア横浜で設立35周年のつどいを開いた。あいさつで久保新一理事長は、「ヘイトスピーチ(憎悪表現)が公然と行われる世情だが、私たちは外国籍の子どもの学ぶ権利を守り続ける」と共生への思いを述べた。

 つどいには利用者ら約120人が参加。竹川真理子センター長が活動を報告し、「行政や学校、地域社会の協力なくして多文化共生への課題は解決しない」と支援を訴えた。その後の懇親会では、利用者の子どもら14人が合唱を披露した。

 信愛塾は同市南区中村町に拠点を置き、1978年10月設立。約60人の会員やボランティアに支えられ、中国籍など12カ国約100人の子どもが学校の補習や日本語、母語の学習をしたり居場所として過ごしたりする場となっている。

 中学2年生の時から塾を利用し、現在はスタッフとして活動する中国・上海出身の朱晨亮さん(20)は、「もっと多くの子どもを受け入れ、日本語が母語ではないことを踏まえた学習指導などができるよう今後も活動していきたい」と話していた。

鳥取で初の条例 広めたい「手話は言語」

2013-12-02 12:19:05 | ダイバーシティ
(以下、東京新聞から転載)
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鳥取で初の条例 広めたい「手話は言語」

2013年12月2日


 手話を独自の言語と認め、その普及を促す初の条例を鳥取県がつくった。周りの無理解で、肩身の狭い思いに悩む人は今も多い。これをきっかけに、手話の“市民権”が、どんどん広まるといい。
 きっと勇気づけられたことだろう。国内で約三十万人といわれる聴覚言語障害の人たちだ。
 「この条例が先駆けとなって全国に広がってくれれば…」
 鳥取県議会が十月に「手話言語条例」を可決したとき、全日本ろうあ連盟の幹部らはそう期待した。
 北海道の石狩市が早速、先週開会した十二月議会で同様の条例案を上程したのは、広がりを加速させる動きとして歓迎したい。
 「法廷で聴覚障害者が傍聴するとき、手話通訳者の位置を制限する裁判長がいる」。これは、さいたま市で最近報告された一種の差別ともいえる事例の一つだ。
 彼らが、はなから企業に採用を拒まれたり、日ごろ好奇の目にさらされる例は少なくない。災害時に避難指示が的確に伝わらず命にかかわることも。障害や手話への偏見、無理解からくるものだ。
 鳥取県条例は、これを正そうとしている。手話を「独自の言語体系をもつ文化的所産」と定めた。県と市町村に手話が使いやすい環境づくりを義務づけ、県民向け講座や小中学校での手話教育に取り組む。事業者には聴覚障害者が働きやすい環境整備を求めた。
 障害者に手を差し伸べる県民運動を四年前から始めた鳥取県。もともと条例制定の先端を行く土壌があった。「県民の理解に、より大きな役割を果たす」と、手話に詳しい筑波技術大学の大杉豊准教授(言語学)は条例を評価する。
 日本の手話には方言がある。世界に目を移すと、音声言語と同じく各国手話があり、その数は百三十を超え共通の国際手話もある。明らかに言語そのものである。
 オーストリアやウガンダなどは憲法に、チェコやハンガリーなどは個別法に、手話を言語と定める国も多い。日本では、二〇一一年に改正障害者基本法に「言語(手話を含む)」との表現が盛り込まれたが、まだ不十分だ。
 条例化の動きは東海や関東にもあり各地に波及しそうだが、本来は国による法の制定が望ましい。
 手話を「文化的所産」である言語に定めるとは、同じ社会に生きる「私たちの文化」として共有するということだ。点字の問題なども含め、彼らが尊厳を持って暮らせる社会にしたい。

障害者といじめ問題

2013-12-02 12:17:43 | ダイバーシティ
(以下、朝日新聞から転載)
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障害者といじめ問題

エッセイ
立石芳樹 (たていし・よしき)
2013年12月 2日

 本格的に寒い季節となりました。皆さん、体調はいかがでしょうか。今年は強い寒気が日本列島に舞い降り、いちだんと厳しい冬になるという予報なので、健康には充分気をつけていきましょう。

 先々週のコラムで、進路選びでの注意点について書きました。さんざん悩んだ末にようやく進路を決め、無事、希望通りの学校に入学できたとしても、そこがすべてのゴールというわけではありませんよね。学校生活はつねに、予想もつかないトラブルととなり合わせです。

 その中でも特に親御さんの頭を悩ませる大きな問題が……「いじめ」です。

 文科省発表のデータによると、小中学校でのいじめ発生件数は近年増加傾向にあり、今や、いじめのないクラスはない、とまで言われています。障害の有無にかかわらず、多くの子どもがいじめに苦しんでいるという現状は、この20年あまりの間で変わっていないようです。

(障害者はいじめの対象になるか)

 これが、今回のメインテーマです。もっと正確な表現で言えば、(障害者であるという理由だけで、いじめの標的にされる可能性があるか)というかたちになるでしょうか。

 この問いにイエス、つまり、障害の有無がいじめに遭うリスクを左右するとこたえる人は、障害者は弱い存在だ、というのをその根拠としています。障害を持っているといじめによる暴力をはねかえす力が弱まるのだから、結果として継続的なターゲットにされてしまう。また、いじめる側も障害という弱さにつけこんで、さらなる悪質な暴力をはたらくのではないか……。

 これに対する反論としては、「いじめ無差別説」というものがあります。現代のいじめはほぼ無差別に行われており、障害のない子もターゲットにされているのだから、障害があるというだけではいじめの理由にならない。

 どちらの意見にもそれなりの根拠と正当性があるように思えますが、僕の実感としては、「いじめ無差別説」のほうが現状に近いような気がします。年齢的に、昔のいじめについてあまり深く語ることはできませんが、今のいじめの構造を見ていると、どうも、その本質自体が少しずつ変わっているように見えるのです。

 いじめの原因として一般的に思いつくのは、(○○ができない)とか、(××がまわりよりも下手)というような、いわゆる具体的な理由ですが、現実には、はっきりとした理由のないいじめも多く、それがこの問題の根深さを物語っています。

 いじめられる側はもちろん、いじめる側でさえも、(なぜいじめるのか)がわからない。いじめの問題をいつまでも、のび太君とジャイアンのような牧歌的な関係によってとらえていると、事の本質を見失ってしまいます。

 僕自身、小学校から高校まで地域の普通学校に通っていましたが、一度もいじめらしいいじめに遭ったことはありません。どのクラスでも年度の早い段階からわりとスムーズにとけこむことができましたし、それぞれの年代で心の許せる友人もいたので、少なくとも人間関係でのトラブルに巻き込まれることはありませんでした。

 けれど、同じ時期に普通学校に進学したリハビリセンター時代の知り合いに聞くと、中学時代はしょっちゅう、歩く時に使うクラッチ(松葉杖のようなもの)を隠されたり、ノートをゴミ箱に捨てられたりと、クラスメイトからのしつこいいじめに遭っていたようです。

 他の知り合いからも同じようないじめの体験談を聞くこともあり、そうした話を耳にするにつれ、いつしか、(僕はたまたま運がよかったのかな)と思うようになりました。

 いじめ問題は、進路選びにも影響します。普通学校だといじめのリスクが高いだろうから、安全に思える特別支援学校を選ぶ。けれど、本当にそれで良いのでしょうか?

 確かに、支援学校は生徒の人数も少なく、先生の目も行き届きやすいので、いじめが起こるリスクは低いと言えるでしょう。ただし、それは決して、(支援学校にはいじめがまったくない)ということを意味するものではありません。先生方がどんなに努力なさったとしても、人間と人間が同じ空間で過ごすかぎり、いじめのリスクはつねに生じるものです。

 (いじめがないだろうから)という消極的な理由だけで支援学校を選ぶことに、僕は反対です。

 いじめに近い言葉として、からかい、というのがあります。いじめとからかいの違いは何かと聞かれると、僕もすぐにはこたえが出せないのですが、直感的なイメージとして、からかいのほうがいじめよりも軽く、親しみやすい印象があります。

 いじめと、からかい。このふたつの線引きは、意外に難しいんですよね。片方は単にからかっているつもりでも、受け取る側はいじめとして、深刻に考えてしまう。あるいは、はじめのうちは軽いからかいだったのが、だんだんに本格的ないじめに発展してしまう。どちらのケースでも、当人同士で最後まで解決するのは限界があるので、どこかのタイミングで親や教師の介入が必要となるでしょう。

 誤解を恐れずに言えば、障害者をからかいたくなる気持ち自体は、僕も理解できるんですよね。特に、小学校低学年のうちは物事をまっすぐにとらえる時期ですから、同じクラスに自分と違った格好の友達がいれば、何だろうと興味を持つのが自然です。

 僕は障害の特性上、極端に緊張したり興奮したりするとよだれが垂れてしまいます。今はある程度自分の力でコントロールできるようになったのですが、小学校ぐらいまではその傾向が特にひどくて、教科書もよくよだれで濡らしてしまうほどでした。

 ある日の休憩時間。僕のよだれが今まさに机の一点に落ちようとしたその時、近くで見ていた友達がすかさず言ったのです。

「あっ、よだれ爆弾だ!」

 これも、大人の基準をあてはめれば、いじめの範囲に入るのかもしれません。けれど、その時の僕は、いじめられたという感覚はまったくありませんでした。むしろ、話題の中心になれたことですごくうれしい気分になったのを覚えています。

 もしもこれが、

(よだれが垂れてて気持ち悪い)

 などと言われたら、さすがの僕も傷ついたかもしれませんが、何しろ(よだれ爆弾)ですからね。こんなユーモラスな表現は、小学生にしかできません。ちょっとした一言によって、笑いのあるコミュニケーションが成立する。人間関係の楽しさというのは、その部分にあるのではないでしょうか。

 いじめとからかいの違い。最後に僕なりのこたえを出すとすれば、一方的か双方向か、ということだと思っています。いじめは、相手の気持ちや反応に関係なく行われる一方的なものですが、からかいは本来、双方向的なものです。(よだれ爆弾)というフレーズに心から笑うことができた時点で、僕とそのクラスメイトとのコミュニケーションは成立しているのです。

 個々の関係性を一切考慮することなく、(いじめもからかいもすべて悪いことだ)という建前を教師の側が押しつけてしまうと、健全なかたちでのコミュニケーションも阻害してしまい、かえって本人を孤立させてしまうことにつながりかねません。ただ、最初は軽いからかいから始まったものがだんだんに深刻ないじめへと発展するケースは考えられるので、大人の目による適切なチェックはもちろん必要ですけれど。

 教育現場からいじめをなくそうと努力することは、もちろん大切です。けれどその一方で、障害の有無に関係なくいじめへの免疫というか、(万一いじめに遭ったらこういうプロセスで対処をする)というマニュアルを事前に持っておくことも、自衛策としては必要なのではないでしょうか。

 悲しいことですが、現代において、学校でいじめに遭うというのはもはや、特別な現象ではなくなっています。それは、障害があろうとなかろうと関係ないことです。皮肉なことに、いじめ問題では、障害児も健常児も(平等)なのです。