多文化共生なTOYAMA

多文化共生とは永続的なココロの営み

インドネシア人米沢の病院勤務 EPAでは東北初

2011-04-21 11:54:02 | 多文化共生
(以下、読売新聞【山形】から転載)
============================================
フェブリさん看護師合格

インドネシア人米沢の病院勤務 EPAでは東北初

慣れた手つきで患者に接するフェブリさん(米沢市の舟山病院で)

 EPA(経済連携協定)に基づいて来日し、米沢市の舟山病院で働きながら勉強していたインドネシア人のフェブリ・イェニさん(28)が、今年の看護師国家試験を突破した。厚生労働省によると、EPAによる外国人看護師の合格者は、東北地方では初めて。雪国の寒さに戸惑い、母の死を乗り越え、念願の資格を取得した。東日本大震災の影響を心配し、家族や友人からは帰国を促されているが、震災の避難者も訪れる同病院に残り、「目の前の患者を支えたい」との決意を固めている。

 フェブリさんは2008年8月に来日。半年間、東京で研修した後、同病院で勤務を始めた。常夏の故郷では考えられない大雪に最初は胸が躍ったものの、靴の中まで雪がしみ込み、足の感覚がなくなるなど北国ならではの大変さを思い知った。夏は肌にまとわりつくような暑さに悩まされ、夏場に重なったイスラム教の断食月「ラマダン」の期間中は、「死にそうになった」と振り返る。

 同病院では、介助員として患者の世話をしながら、日本語教室に通学。1年目の試験は来日間もないため受験せず、過去の問題を解くなどして備えた昨年の試験は不合格だった。

 在留資格の関係で、日本で看護師になるには来日から3年以内に合格しなければならず、11年の試験がラストチャンス。心機一転、新たに受験準備をしようとした矢先の昨年5月、入院していた母エルナワティさん(54)の急死を知らされた。

 翌日に手術を控えた母から、電話で「勉強、頑張れ」と言われ、「お母さんこそ、お大事に」と答えたのが最後の会話となった。最後に会ったのは4年前だった。

 帰りたくなった時、いつも支えてくれた母。失意の中、葬儀のためインドネシアに帰り、1か月近くを過ごした。日本に戻っても試験勉強に身が入らないまま、夏が過ぎ、冬が来て12月になった。

 そんな時、夢で久しぶりに母の顔を見た。「絶対できる。絶対に受かるよ」と笑顔で応援され、身が引き締まる思いがした。そして思った。「私には、応援してくれる人がいる」

 それからは、遅れを取り戻そうと猛勉強の毎日が始まった。睡眠時間は4時間。くじけそうな時は、日本各地で看護師を目指す母国の仲間と電話で励まし合った。ずっと指導してきた同病院の高島豊子副看護部長(45)も「必ず受かる」と母代わりのように接してくれた。

 そうして勝ち取った看護師の資格。フェブリさんは「努力の結果です」と笑顔がはじけた。高島副部長も「ほかの候補者の励みにもなる」と期待を寄せる。

 震災の影響で余震が続き、隣接する福島県では原発事故が発生し、不安は募る。

 一緒に来日した仲間の中には帰国する人もおり、家族や友人からは「インドネシアに帰って来て」との声も届くが、病院の利用者には震災の避難者もいる。「私はここで、少しでも多くの人を助け、励ましてあげたい」と決めている。
(2011年4月21日 読売新聞)

最新の画像もっと見る

コメントを投稿