たろの日記ページ,gooブログ版

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遺族の心のケアを医療に求めないでほしい

2008-09-05 12:39:46 | 医療・福祉
一昨夜の9時のNHKのニュースを見ていたら,トリアージ関連の話をしていました。トリアージはwikipediaにもある様に災害時などの救命現場で,人手が足りないときに患者に優先順位をつけることで,軽症な人や,命が助からない人よりも,治療をすれば助かる危篤患者を優先することを指します。確かに患者を仕分けをすることや,こういう極限状態での医療関係者の判断基準とかいろいろ議論があるところで難しい問題というのはわかりますが,こういうことの必然性はわかります。助からない人にいつまでも手をかけるより,その手を手を施せば,生存確率が大きく好転する人を優先するのは,おかしなことではないと思います。
しかし昨日のニュースはおかしなことを言ってました。実際に電車事故だったか?天災だったか忘れましたが,多くの被害者が出た災害でトリアージにより黒いタグをつけられた人の遺族(確か親)を取材してました。その人の家族はその災害で死んだのですが,おそらく現場で手の施しようが無いと判断されたのか,黒タグをつけられていたそうです。しかしその黒タグには何も記入されてなかったことに気づき,…まぁいろいろ思うところがあったのか,その後,黒タグの場合も何かを記入しようという話になってました。
その番組では訓練で黒タグに記入する試みをやっていましたが,実際の災害の場でそういうことをやるだけの余裕があるかわからないで終わってました。
でも,そのコーナーの趣旨は,要は遺族の心を慰めるために,救急現場で,助かる可能性のある人を救うための時間を割いてくれ,と言ってることのようです。
わたしはトリアージの意味をわかって言ってるのか?と思いました。こういうことを勧めるような動きが広がると,結局災害時に死ぬ人が増えるかもしれないことをわかってるのだろうか?と。
そもそもなぜ,救急医療に従事している人が,怪我や病気で苦しむ患者ではなく,そちらを差し置いてまで,遺族の心のケアをしなければいけないかが良くわかりません。最近とてもそういう話が多いです。誰かが死んだら家族が誰かを責める。たいてい医療関係者か役人を責めます。再発防止を求めるならわかります。でもそういうわけではないように見えます。
今回のタグの件は責めていたわけではありません。でもやっぱり危険な考え方だと思います。大体この手の話にあるのは,遺族が大切な人を亡くしたことを納得できず「何か出来ないか?」と模索してることが原動力のような気がします。納得できないから誰かのせいにしたり,誰かに何かを頼んだり,運動をします。遺族が大切な人を亡くして正気でいられないのは当たり前のことですから,わたしはこういう行為を強く非難する気にはなりません。でも,そういうのをまともに受け取り,意向を他の人に押し付けるような周りの人やマスコミはおかしいと思います。彼らは正気ではないのだから,真に受けるなよ,と。周りの人のすることは,周りの人がケアをすることで,たしなめたり慰めたりすることでしょう?。それを助長してどうする…と。
本来大切な人が亡くなったら,それを遺族に納得させるために宗教があったのです。宗教に求めが行ったので,医療や行政がそれに手を割かなくても良かったのだと思います。
わたしはみんなが宗教に帰依すべきだとは思ってませんが,自分の大切な人の死を,他人や帰属社会に転嫁して,社会に支障を起こすのであれば,まだまだわれわれの文化は宗教から独り立ちするほど精神的成熟をしてないのだなと思います。
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権威の否定がいきづらさにつながる

2008-09-02 08:30:26 | ココロ
紙屋研究所の「生きづらさ」についての文を読んでいて,ここしばらく考えていたことを思い出しました。
本当に今の人は生きづらくなってるんでしょうか?。いつの時代も同じで,いつもこういうことはいわれている可能性もあります。でも,時代の変化で変わっただろうってことはあって,たとえ今も昔も生きづらさがあったとしても,生きづらさの原因は変わっているでしょう。
最近,若い男女がなかなか結婚できないとかいう記事とかをみるのですが,男女ともあまってるのに出来ないのは,それぞれハードルというか理想が高いから。でも理想が下がらないのは,実はそこまで困ってないからとも言えますが,いや,その後にくるだろうもっと深刻なことをに対する想像力がないともいえます。生きがいが見つからないとかいうなら,紙屋さんが書いてる通り,子供とかができるとそれなりに自分の存在価値を感じるというのもあります。
生活が苦しいといっても過去の日本もどこの国でも貧乏でも子供は作ります。というか,昔は歳をとって大人になったら結婚して子供を作るのが当たり前で,そこにあまり迷いはなかったのでしょう。ところが今は,必ずしもそうしなくても良くなりました。子供を作らなくても責められないし,結婚しなくても,そんなに責められない。ある意味,古い習慣から開放されたとも言えますが,その代わりとなるものが何もないので,自分で道に確信を持てない人は迷うし,それがいきづらいのではないでしょうか?。
そういえば,今は権威,特に精神的な権威というものが日本にはありません。宗教もそうですが,学校の先生の言うことにも親子共々従わない状況です。病気のことも専門家である医者の言うことも疑います。確かに裏を暴けば学校の先生もそんなにえらくはなく一人の人間です。医者も坊主もそうです。でも人は迷ったときに問答無用で「こうしなさい」という人がいたほうがいいのかもしれません。
そうでなければ,人は一人ひとりがいちいち最適解を自分で考えないといけません。その結果心理学やライフハックというのがある時期もてはやされますが,なにかいまいちということで,廃れていくようにも思います。
自分でいちいち考えるのと,意思を持って貫けることが出来なかったら,大半のことは誰かに決めてもらったほうが楽です。でもそれが,怪しい集団や宗教だったりすると危険です。ですから,昔は何百年も続いてきて社会に適合した仏教みたいなフォーマットがあったのでしょう。
まぁ別に宗教を信じましょうとか,学校の先生の言うことを聞きましょうというのがいいたいことじゃありません。ただ,何かを否定することが,結局は自分のいきづらさにつながってるのではないかな?と思うことがあるということです。なにか得をしていきようと思うばかりじゃなくて,どうでもいいことは誰かの言うこと,そして昔から守られていることに従って生きたほうが,本当に大事なことにエネルギーを注げるような気もします。

09/01/10:リンクしていただいたので
少し続きを書きました
コメント (2)
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