たろの日記ページ,gooブログ版

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権威の否定がいきづらさにつながる

2008-09-02 08:30:26 | ココロ
紙屋研究所の「生きづらさ」についての文を読んでいて,ここしばらく考えていたことを思い出しました。
本当に今の人は生きづらくなってるんでしょうか?。いつの時代も同じで,いつもこういうことはいわれている可能性もあります。でも,時代の変化で変わっただろうってことはあって,たとえ今も昔も生きづらさがあったとしても,生きづらさの原因は変わっているでしょう。
最近,若い男女がなかなか結婚できないとかいう記事とかをみるのですが,男女ともあまってるのに出来ないのは,それぞれハードルというか理想が高いから。でも理想が下がらないのは,実はそこまで困ってないからとも言えますが,いや,その後にくるだろうもっと深刻なことをに対する想像力がないともいえます。生きがいが見つからないとかいうなら,紙屋さんが書いてる通り,子供とかができるとそれなりに自分の存在価値を感じるというのもあります。
生活が苦しいといっても過去の日本もどこの国でも貧乏でも子供は作ります。というか,昔は歳をとって大人になったら結婚して子供を作るのが当たり前で,そこにあまり迷いはなかったのでしょう。ところが今は,必ずしもそうしなくても良くなりました。子供を作らなくても責められないし,結婚しなくても,そんなに責められない。ある意味,古い習慣から開放されたとも言えますが,その代わりとなるものが何もないので,自分で道に確信を持てない人は迷うし,それがいきづらいのではないでしょうか?。
そういえば,今は権威,特に精神的な権威というものが日本にはありません。宗教もそうですが,学校の先生の言うことにも親子共々従わない状況です。病気のことも専門家である医者の言うことも疑います。確かに裏を暴けば学校の先生もそんなにえらくはなく一人の人間です。医者も坊主もそうです。でも人は迷ったときに問答無用で「こうしなさい」という人がいたほうがいいのかもしれません。
そうでなければ,人は一人ひとりがいちいち最適解を自分で考えないといけません。その結果心理学やライフハックというのがある時期もてはやされますが,なにかいまいちということで,廃れていくようにも思います。
自分でいちいち考えるのと,意思を持って貫けることが出来なかったら,大半のことは誰かに決めてもらったほうが楽です。でもそれが,怪しい集団や宗教だったりすると危険です。ですから,昔は何百年も続いてきて社会に適合した仏教みたいなフォーマットがあったのでしょう。
まぁ別に宗教を信じましょうとか,学校の先生の言うことを聞きましょうというのがいいたいことじゃありません。ただ,何かを否定することが,結局は自分のいきづらさにつながってるのではないかな?と思うことがあるということです。なにか得をしていきようと思うばかりじゃなくて,どうでもいいことは誰かの言うこと,そして昔から守られていることに従って生きたほうが,本当に大事なことにエネルギーを注げるような気もします。

09/01/10:リンクしていただいたので
少し続きを書きました
コメント (2)
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