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たろの日記ページ,gooブログ版

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勉強への挫折の想い出

2012-01-14 20:57:09 | 育児・教育
アメリカの高校生がこれまで努力もせずにAを取っていたのが,取れなくなって「自分は賢くなかったんだ」と落ち込んでいるのをMITの学生が励ましてる文章が話題になってました。原文だとアレなので翻訳してくださってるのをリンクします。

ネットでは高校に上がったくらいに,こういうのを経験するんでは?とか,ここでいうツール(道具箱)が重要みたいな話で盛り上がっていた。ちょっと自分の経験を書いてみたくなったので書く。

自分の経験だと,子供の頃親はよく「勉強しろ」とか「宿題しろ」とかうるさかったけど,勉強が嫌いとか辛いと初めて思ったのは中学の2年くらいの事だったと思う。というのはそれまで,たいして努力しなくても,学校で習ったことをその晩に軽く復習をすれば,それなりのテストの点数がとれていたので,好きとか嫌いとか考えたことが無かったように思う。

ちなみに復習をするというのは,小学校の1年か2年の時,「直角」というのを習ったときに,先生の話を聞き損ねて,しばらく意味がわからず苦労をしたことがあり,一旦置いていかれると,後で苦労をすると知ったから。そういう意味ではきちんと授業についていかなきゃと思ったのは,小学校のこの時かもしれない。

まぁそうであっても,一日に習った勉強を,夜,わからないところはないよねと軽くチェックすれば,テストはほとんど満点に近く,四教科は常に「5」だった。他の音楽・体育・工作は3とかで,だからあまり好きじゃなかったという意識もあった。

中学校に入って,どこかのテストで学年一位をとったことがあり,校長に呼ばれて誉められたこともある。というのが,まぁ勉強が辛いと思う直前の話だった。

ところが中学校2年になり,夏休みに転校した。転校先のテストではいきなり200位とかそういう順番になった。今考えると教科書も違うので習う順番も違うから当たり前と言えば当たり前だけど,多分ショックは受けたんじゃないか?という気がする。転校先は地域の特性からか,非常に教育熱心で,その前にいたのは割と田舎だったのもあり,おっとりしていたので,先生が物凄く厳しくなったように感じた。。実際当時はまだ体罰が問題になる直前で,先生は生徒を何かにつけて殴ったりかなり高圧的だった。まぁその後体罰が問題になって先生が暴力をふるわなくなったら,今度は学生が暴れる校内暴力が起きたわけで,どっちがいいか,難しいところだけど。

というわけで,天然でいい点数を取れた時期は終わり,苦労して勉強し,してもなかなか成績が上がらないということを実感し,勉強が大変と意識を始めたわけ。最初のリンクに習うと「僕は頭が良かったわけじゃない」と思ったのはこの頃になるのかな。

というわけで苦労したわけだけど,一方でその転校先は教育熱心な地域だったので,学校の副教材が大量にあった。これまで教科書だけをみていればいいと思っていた中学の勉強に,参考書や問題集みたいな別の冊子を与えられて,それをこなせと言われた。その地域は実は一年しかおらず,そこでは高校を受験しなかったのだけど,そんな調子で勉強をし,あまり成績が上がらなかった3年の夏,また別の地域に引っ越した。

今度の引っ越しは,親も子供の前回の転校の苦労を意識したのか,転校先の夏休み,強化塾みたいのに行かされた。そこでもまぁ教科書と違う教材で授業を受けた。そして夏休みの後,転校先に行き,しばらく勉強をすると,実は結構わかる…という意識になり,そしてテストでも一桁ではないが二桁くらいの順番の成績をとるようになった。

その時に思ったのが,前の地域で使っていた副教材がかなり威力を発揮していたということ。なので転校して不要になったはずのその教材をわたしは手放さず,結局最後までやった。それと学校の教材と両方をやったわけで,まぁ効果があったということだろう。

そして高校受験をし,志望校に入り,一浪して,大学にいって…という感じに進んできたけど,その辺になると,自分にあった問題集を見つけたり,勉強のやり方を工夫するようにとかは自覚的に行うようになった。そういう意味では,自分の道具をそろえる工夫をするようなったのは多分中学の時なんだと思う。ちなみに,挫折感を明に意識したのは,一浪した時かなぁ…。あれは結局一浪して志望校に通ることで乗り越えたことになるんだろうけど…。

確かに言われてみれば,挫折があったからやり方を工夫するようになったのかも知れない。逆に小学校から出来ない子だったらどうだったのかな?という気もする。わたしの甥はどちらかというと,小中とずっとあまり成績が良くないのが,高校受験に合わせて勉強を始めたら伸びた…ってことで,そういう場合挫折とかあったんだろうか?という気もする。

リンクの例は,元々高校まで勉強ができた子(多分頭はいい子)が初めて苦労をするということを意識する話だったけど,先日書いたように,卒研とかで壁にぶつかり欝になる人もいる。あと社会に出たら,今度は勉強以外の要素もあり,壁にブチ当たる。それも乗り越え順調に行っていても,会社の状況や,社内競争とかいろんなもので,…というかもう,その歳になると年齢的なものから,頑張りも効かなくなり,また挫折とか従来のやり方が通用しなくなるとか,まぁ人生はそういう節目というのが結構ある。

そういう節目というか,挫折にどう折り合いをつけるか…折り合いをつけない事も含めて,その人だと思う。人生生きていれば,挫折は何度もやってくる。その覚悟と,それにどう立ち向かうか?…って事自体に引出しがあった方がいいのだろう。競争を避けるというのも挫折を乗り越えて学ぶことなんだけど…。

ということは,良く成功体験が大事だというし,わたしもそう思うけど,若いうちに挫折をし,それをどういう折り合いをつけるか?っていうのも経験が必要なんだろうな…という気がする。でもそこで「イヤなものから逃げる」という折り合いの付け方を早々に学んでも困るんだけど…。
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子供に休ませるのは?

2011-11-23 22:17:43 | 育児・教育
「子供を平日欠席させてディズニーランドに…ありでしょうか?」という質問。同じような状況だと,私も悩むなぁ,と思ってみたら,意外に「休んでいくだろ普通」という意見が多くてビックリした。むしろ逆だと思ったんだけど。ちなみにこの記事をブックマークしたはてなの人は,休みの日に行けという意見も結構多くてホッとした(苦笑)。

自分の経験を思い返すと,子供の頃に学校を休んで旅行や遊びに行った記憶はありません。だからそんなに普通にはありえないという感覚があります。もっとも私の場合ディズニーランドなんていける場所じゃありませんでした。もしかしてこういう悩みって首都圏特有のものですか?。地方の遊園地なんて休日でもそこまで混んでないし,東京に行こうと思うと日帰りは無理だから,やっぱり長期休暇が取れる時期になるし,平日にディズニーランドに行くとかいうのが首都圏特有の話だとすると,ちょっと滑稽だなぁ…とか思います。

親としては空いている平日に遊園地に行って楽しみたいというのがあるのでしょうけど,やっぱり子供にとって学校を休んで遊びに行くというのは,勉強で遅れるかもしれないというリスクもあるし,他の同級生から悪い意味でうらやましがられる可能性もあるし,いい事ばかりじゃないように思います。なにかご褒美としてわかりやすい事でもあればいいのかもしれません。例えば授業一日分,丸々予習できているとか,テストで全科目100点取ったとか。

でも子供がディズニーランドに行きたいか?というとこれまた微妙で,私の幼少の記憶だと,結構親と一日どこかに出かけるのは,楽しさ半分,辛さ半分だったような気もします。大体,途中で不機嫌になってかえりたくなっていたように思います。だから平日にディズニーランドに行きたいというのは親の願望かもしれなくて,もしくは親が子供を喜ばせようと思っていてから回りしてるのかもしれません。

うちの場合,子供の都合関係なく,私たちはあちこち子供をつれて遊びまわってますが…。子供の都合無視なので,親自身は最後まで楽しそうにしておこうとは思ってますが。

結論としては良くわかりません。子供がそういう歳になったときに,子供の様子を見て考えるかなぁ…という感じです。一般論的には語れることってないのかなぁと思います。平日じゃなくても,夏休み冬休み春休みってあるんだから,そっちにあわせて会社のほうを休めばいいかなとも思いますが。
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子育ての思想

2011-05-14 12:11:30 | 育児・教育
趣味Webの「母は動じなかった」という文を読んですごいなぁと思いました。この方は現在30歳過ぎぐらいの様ですが,自分の母親が自分たちをどう育てたか?という想い出。下のほうに「幼少の思い出」という文が四つリンクされてますが,それも同じようなもので同じく感心しました。子育てにおいて子供に危険なものを丹念に教えるけど,教えたら自由にさせる。「命のリスクを徹底的に嫌悪して制限と監視を強化していけば、人は人らしく生きられなくなる」と思ってたらしいと書かれてます。

そのほかにもいろいろと感銘を受けることがかかれてます。というか感心はするのだけど,自分は親としてこの様に子供を育てることが出来るだろうか,とむしろ不安に思ってしまいました。

流石に人為的ではない事故にあって子供が怪我をした時や病気でひどい目にあったときに,無理やり誰かのせいする…ということはしたくないと思ってますが,それでももしそういう場面になったら何かやってしまうかもしれないし,子供の自主性を育てたいと思うけど,でも,そこまで子供を信じて放任することが出来るだろうか…というのは今でも思います。

もちろんここに書かれた文は子供から観た母親像なので,実際は母親は子供に気づかれない形で子供を結構監視していたのかもしれません。でもそう子供に思わせてないのは見事です。

それにしてもこの母親はいくつなんでしょう。Webの人が30歳くらいなら,もしかしたら私よりちょっとだけ歳上なだけかもしれません。でもいまどきの人がそういう考え方が出来たのだろうか?とも思います。

私の親はもう80を越えてますが,戦争を体験していてまた兄弟を小さい頃になくしたりとか,そういう時代だったので,子供が死ぬことはありえる…というようなことを考えていても不思議ではありません。でも自分はどういう考えの下に育てられたのか…とか聞いたことないし,今となってはどうなんだろう…とも思います。まぁ私は子供の頃からだが弱かったし,子供が死ぬこともあった時代だから,特に思想が無くても,生死というのは運命みたいなものだ…とかは思っていたかもしれません。

いろいろ思いました。
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