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たろの日記ページ,gooブログ版

http://taro-r.sakura.ne.jp の分家です。一部内容が重複してます。

芸妓峰子の花いくさ (岩崎峰子著)

2004-12-20 18:06:09 | 書評
かって祇園甲部で売れっ子ナンバーワン芸妓であった著者が自らの半生を書いた自叙伝。
著者は祇園甲部の花柳界が海外はおろか日本の国内でも正しく認識されていないことにいきどおりを感じこの本を書いたとのこと。この本は海外でも翻訳され販売されている。
なるほど,確かに日本の中では芸妓さんを遊郭の花魁などと混同している人も多いように思う。しかし祇園甲部の花柳界の舞妓・芸妓はあくまでも舞や演奏等の芸を売り物にしており身を売るわけではありません。もちろん接待も行いますが,それはプロとしての接待術であります。
この自叙伝を読んでいると,その辺の作者のプロ意識,プライドの高さがひしひしと感じられます。幼少の頃から芸妓になるために育てられ,一流の芸,技を習得し,それを一流の環境でお客様に提供するというおもてなしの仕事ということなのでしょう。とはいえ花柳界のシステムが時代にあっていないことも確からしく,その危機感も著者は訴えております。
…とはいっても,なかなかわたしには別世界だなぁ…という印象も受けました(^^;)…。お客様はあくまでも政界や財界,学者,芸術家等であり,単なる企業研究者がおもてなしを受けられるような日が来るんでしょうか?。余談ですが,祇園甲部に行けるような学者ってどういう人なんでしょう?…。やっぱり著作物とかがたくさんある先生なのかなぁ…。
それからシステムが古いと書きましたが,ということは一方でTVや雑誌がない時代のアイドルの売りだし方…みたいなものがそういうシステムだったのじゃないか?…とちょっと想像したりもしました(でも大衆芸じゃないところもミソな気がします)。
いずれにせよ非常に興味深く読ませて頂きました。いつかその芸に触れれる日が来ることを楽しみにしたいと思っております。
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愚か者の哲学 (竹田青嗣 著)

2004-12-19 10:04:33 | 書評
プチ哲学は流行ってしばらくたつが,この本も哲学的バックグランドが,現代を我々が生きていくことに対しての助言を過去の偉人の言葉を引用しつつしているという意味ではその類いかも知れない。
人生を「子供」「若者」「大人」の三つの段階にわけ,その時の心情,行動をうまく説明していると言える。わたしもすでに大人になってしまっているから,逆に子供の頃の心情をこのように表現されると強く納得させられるものがある。
たとえば子供がイタズラをするのはルールをおぼえるためのものであるとか,子供には誉められたいという自己愛があるとか…。そういうのを「すべての人間は生まれながらに,しらんことをほっす」というアリストテレスの言葉,「自己愛は,あらゆるおべっか使いの中でもっとも強力」というラ・ロシュウフーコーの言葉など。挙げるときりがないので止めておくが,多くの言葉が引用されている。そういえば,説得力がある文章を書く人は,多くの引用をするが,単純に結論を言うよりも,多くの引用を挙げていくということは重要なのかも知れない。
ところでこの本は序章で「愛せない場合は通りすぎよ」というニーチェの言葉を挙げているが,最後の章の大人の哲学では,多くの失望や怒りに対してどう向かい合うか?…に多くのページを裂いている。それは結局のところ人間は子供から若者という成長を通りすぎた後は多くの失望が待っている…ということで,そこで如何に自分を見失わずに生きていけるか?…と言うことなのかも知れない。事実自分の周りで同じ年代の人達を見るとルサンチマンをもって生きている人というのは意外に多い。そして彼らは決して幸せのようには見えない。そういう意味では,ルサンチマンをもたないため,そしてニヒリズムを克服するために,こういう本を読むということはいいのかも知れない。
そういう意味では体系的なちゃんとした哲学の本ではないが,実践学という意味で,ここに書かれていることを頭にいれておくのはいいことかも知れないと思う。
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横須賀再発見 トンネルの風景(写真集団「岬」)

2004-11-14 10:38:23 | 書評
わたしは横須賀に住んでいるんですが,住んで二年近くになります。車であちこち彷徨いていると横須賀はやたらトンネルが多いことに気づきます。ちょっと入っていったわき道にあったり,国道の横に歩行者用のトンネルがあったりと。
いつかバイクでも買って,トンネルを調べてホームページにでも載せてみようか?…と思っていたら,写真集が出てました(^^;)…。というわけで先にやられてしまった感があるのですが,この本を買って横須賀には電車も含めて120あまりのトンネルがあることを知り,100近くのトンネルの写真を観たという事で,結構満足感が得られました。
トンネルが多いというのは,平地が少ないところに無理やり住んでいるから…って言うのもあるし,基地の街なので,(これはわたしの想像ですが)国から特別予算をもらって財政的に余裕があるともいえます。そういう意味じゃトンネルが多い街ということに含まれている意味は単純なものではないのかも知れませんが,とりあえずこの不思議なトンネル達を眺める事自体は純粋に楽しいです。

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江川達也のニッポンを鍛えろ!(江川達也著)

2004-11-13 14:38:08 | 書評
江川達也氏は漫画好きならたいてい知っていると思われますが,「東京大学物語」などを描いた漫画家です。いきなりこういうことを書いて別にけんかを売りたい訳じゃありませんが(^^;),わたしは江川氏の出世作Be Freeは好きだったものの,それ以降の作品はあまり口に合いませんでした。しかし彼が喋ってるのを聞いたり,最近連載している「源氏物語」「日露戦争物語」「家畜人ヤプー」についてはその連載の意図的に賛同できるものもあり,(単行本を買うまでには至ってませんが)読んでいるものもあります。
というわけで漫画家に理解を示しながら作品を読んでないというのは失礼なやつなんですが,なぜわたしが一時期の氏の作品を受け付けなかったかというと,彼の作品には強烈なミームが含まれている気がして,読んでいるとなんかマインドコントロールされているような感覚があったからです。実はこの感覚は正しいようで,江川達也氏は,マインドコントロールを作品のテーマ自身にもまた表現手法にも利用している様です。あとどうも氏は自分の才能を自覚しているところがちょっと鼻につくこともあるんですが,まぁそれはキャラだからしょうがないのかなぁ,と最近は思うようになりました。
で,本作はマインドコントロールを使って日本を立て直そうという氏の論を本にしたものです。そもそも教育自体がマインドコントロールであり,人間はマインドコントロールから逃れることはできない。そうであれば,それを逆手に取り,自分たちの意識改革,そして制度改革や外交などに積極的に利用しようというものです。
そういう意図では書かれているとして,実際に具体的に何をするかはかなり極論であり,とても実施できるのかな?,というような感じですが,まぁその辺はネタとして(^^;)。
という訳で,さくさくと読めましたが,漫画家の作品で漫画よりエッセイの方を楽しんでしまうのは,漫画家にちょっと失礼だっただろうか?,とも思ったりします。もっともこの本を読むと,氏の本が読みたくなるので,そういう効果を期待して書いている部分もあるのかもしれません。
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死ぬ瞬間~死とその過程において(E.キューブラー.ロス/鈴木晶訳)

2004-11-08 13:05:21 | 書評
死の宣告を受けたいわゆる末期患者に対してカウンセリングを行った記録という本。大学のゼミを兼ねてのインタビュー記録だったようです。なかなかチャレンジグだと思いましたが,やはり最初は病院側に強力に拒否されたとのことです。しかし現状はむしろ望まれてやっているとのこと。特に患者の方はこのインタビューにより良い末期を迎えられたとのことです。
この本によると,死を宣告された患者は,そこから死ぬまで「否認と孤立」「怒り」「取引」「抑鬱」「受容」という段階を踏むとのことです。もちろん,最後までいかなくて途中で亡くなる人もいるとのこと。
最初はその死の宣告を受け入れられず,「間違いに違いない」と否認する。しかしだんだんそうじゃないとわかってくると「どうして わたしが…」と怒りを覚えるようになる。更に「良い行いをすれば 助かるのではないか?」というような神との取引を考える。 そして「抑鬱」になるが,最後は受け入れると…。
このどの段階でカウンセリングが有効…ということは言っておらず,どの段階でもカウンセリングは有効なようである。いやむしろカウンセリングを行わない場合途中の段階で亡くなるというのもあるのかも知れない。
この本のインタビューを読んで思ったのは,結局のところ死に瀕した人達が持つ不安や恐れ,怒りは周りの人達に「見捨てられる」という事のようだ。人間は死ぬまで社会的な生き物って事だろう。取り残される家族を心配する人もいるがいずれにせよ死ぬと決まった時点で,社会から見捨てられ, なかったもののようにされてしまうことに不安を感じる様子。ある意味,あとしばらくすると消えてしまうのであるが,それでも…,いやそれだからこそ自分の存在をしっかり残して死んでいきたいのかもしれない。
現代社会のように死を社会から隔離している世の中では,そういう恐れはますます強くなっているのかも知れない。
それにしてもアメリカのホスピスとかには牧師がいるらしい。それに比べると日本のホスピスのはお坊さんがいたりするのだろうか?。死に瀕した人達が,死後の世界を相談するような人っているのだろうか?。
さて,不謹慎を承知で言えば,わたしは死ぬことが決まったら宣告して欲しいと思っている。これは私だけじゃないと思う。世の中には死を宣告された人を描いた映画や小説がたくさんあるので,こういう考えは 結構あるのだろう。しかし実際死の宣告を受けた人は残された時間をやりたいことをやって有意義に過ごすとか,悟り得て静かに暮すとか,おそらくそういう事じゃないのかもしれない。 だいたいにおいて病院で死に至る病が発覚した場合,即入院であるし,それを無視した場合,相当苦痛が続くようである。
自分が実際にそうなったとき,どうなるのであろうか?。上記の 5つの段階を踏むのだろうか?…。それともこの本を読んだことでさっさと乗り越えられるのだろうか?。
この本は末期患者を扱うすべての医者と,すべての看護師に読んで欲しい。しかし日本には末期患者と接する宗教関係者がいないのはなんと寂しいことなのだろう…。
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