京のたんぽぽ日記

夫婦共にリタイヤ後の生活を綴っていきます。
日本ぶらり旅や、京都のおいしいお店、海外旅行にも行けたらいいけど。。

京セラ美術館 兵馬俑展2

2022-06-14 00:45:45 | 美術館・観劇・映画・スポーツ

京セラ美術館 兵馬俑展1の続きです。

いよいよ秦皇帝時代の本物等身大の兵馬俑です。

西安の3つの俑坑には総計8,000点にのぼる
陶製の兵馬俑があるそうですが、
今回は、戦国、漢時代を含めて総計36体の兵馬俑が
日本にきているそうですよ。

秦の始皇帝陵墓と兵馬俑

秦は周代・春秋時代・戦国時代にわたって存在し、
秦の始皇帝は紀元前246年(13歳の時)に軍隊を組織し
王座に上りました。

始皇帝は紀元前230年(29歳の時)から
漢、趙、魏、楚、燕、斉の6か国を征服し始め、
紀元前221年初めて中国を統一しました。
始皇帝39歳の時です。
この統一から滅亡までの期間を秦朝と呼びます。
(※紀元前は数字が大きいほど古い年になります。
  。。ってご存じですよね。
 私があれって思ってしまうだけですよね。

また、始皇帝は、13歳で王座に着くとすぐに、
自分の陵墓と兵馬俑を造り出したそうです。

若くして自分の死後のお墓と軍隊造りとは。。と、
現代に生きる私達は、なぜって思ってしまいますが、

現世が存在するように、死後の世界も存在すると
信じていた始皇帝には、
死後の世界でも皇帝であり続ける為の宮殿と
自分を守ってくれる軍隊が必要だったのでしょうね。

殉死の代わりの兵馬俑

兵馬俑は皇帝の陵墓を守る軍隊です。

古代中国では主君の死を追ってあの世でも仕える為の
殉死は当たり前のことで、そのせいで有能な人材が
多く失われ国力が衰退していきました。

秦の時代から殉死は廃止され、
始皇帝は殉死者をださない為
等身大の兵馬俑を造ったのだそうですよ。

兵馬俑

そして、お待たせしました。
こちらが兵馬俑です。
アクリル板のケースの中に入っている実物の兵馬俑。

これが、兵馬俑か・・
2000年以上の時を超えてきた兵馬俑が、今目の前に。。
兵馬俑の写真を撮ることができるなんて。。なんか感激でした。

跪射武士俑(一級文物)

左足を立て、右膝を地に着け、弩(弓)を持って
待機する武士俑。

立射武士俑(一級文物)

戦車、騎馬、歩兵の混合部隊の前面に立つ
弓兵部隊俑。

鎧甲武士俑(一級文物)

北方遊牧民胡の騎兵の服を着ている武士俑。
武士の髪は中央で左右に分け、
向かって左側に髷を高く結んでいる。
これは、秦の一般兵士の特徴だそうです。

戦車馬(一級文物)

戦車を4頭で引く馬。
両耳は前方に向け、口は馬銜を加えて開く。

尾の先は結んで絡まないようにしています。

鎧甲軍吏俑(一級文物)

単版長冠を被っている武官。

鼻・頬などに肌色、唇に白の顔料が残っています。
元々、これらの兵馬俑は美しく彩色されていたのが、
長い年月の間に土色になったのですが、
その名残がわずかに残っているのだそうです。

戦服将軍俑(一級文物)

こちらは、数多くの兵士や馬が埋蔵されている
始皇帝陵の兵馬俑で11体しか確認されていない
将軍俑の中の一つ。

高さが196センチもあり、
今回の兵馬俑展の目玉展示の一つだそうです。

鎧甲武士俑(一級文物)向かって左

髪を中央で左右に分け、左側に髷を結ぶ
秦の一般兵士の特徴をもった武士俑。
履はくるぶしの部分で紐を結んでいます。

鎧甲騎兵俑(一級文物)向かって右

武器を立ててもち、右手で手綱を引きます。
鎧は腹部の一線で切れ、乗馬に支障がないように
なっているそうです。

近くで兵馬俑を見ると、それぞれ顔が異なり、
歩兵、射手、将校、騎兵の表情や服装、髪型まで
異なっていて驚かされます。

さすがに殉死者の代わりの軍隊。
また、始皇帝を守る軍隊が、広範な民族の混成部隊
であった事も伺い知れました。

レプリカの兵馬俑

こちらは、レプリカの兵馬俑。
西安ではこんな風にずらっと並んでいるんですよね。

でも、2つとして同じものがないという精巧な職人技の兵馬俑に比べ
レプリカだけに、こちらはどの兵馬俑の顔も髪型も装束も手の位置も
みな同じです。

始皇帝の死後

始皇帝は紀元前210年に49歳で亡くなります。
陵墓や兵馬俑の建設だけでなく、
各国々が独自に築いた万里の長城を繋げたり、
郡県制度の導入、文字の統一などを手掛け、
全てを手に入れ絶大な権力を誇った始皇帝ですが、

不老不死の薬を求め、水銀でできたものを
不老不死の薬と信じて飲み続け、
そのせいで亡くなったともいわれています。

始皇帝(紀元前260–紀元前210)の死後は、
陰謀で長男次男が殺され、末息子の胡亥が即位したものの、
秦朝は、なんとわずか4年足らずの紀元前206年に
滅亡してしまうのです。

つまり、秦朝は、紀元前221年から紀元前206年まで、
わずか15年存在した中国の王朝という事になるのです。
だから兵馬俑の建設も紀元前206年で終わっているのですね。

秦朝がそんなに短い王朝であったとは。。知りませんでした。
いや、昔世界史で勉強していたのかもしれないけれど
全然覚えていませんでした。

死後の宮殿や兵馬俑という軍隊まで造った始皇帝なのに。。
と思うと、なんだかちょっとショックです。。

おごれるひとも久しからずの
平家物語と重なるところがありますよね。

でも、不老不死の秘薬を求め、そのせいで亡くなるなんて。。
クレオパトラや楊貴妃も不老不死の薬を求めたと言いますが、
それぞれ30代で亡くなっています。

どんなに権力を持ち栄華を尽くした人も寿命だけには勝てない。

寿命だけは、人として生まれてきた以上、
限界値を超えられないという意味では、
平等なのかもしれませんね。
限界地内での不平等はありますが。。

 

さて、ピラミッドを見ずしてエジプトに行ったと言えないように、
兵馬俑を見ずして中国に行ったとは言えない
という言葉もあるようで、

いつか、現地に行ってみたいなという思いと、
コロナ禍の中国を見ると、これからも中国には
とても行けないだろうなという思いと。。

今は、なかなか現地に行くチャンスはなさそう。
今回本物を少しでも見る事ができてよかったです。

 

京セラ美術館日本庭園 京都モダンテラス
に続きます。

 

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ありがとうございました。

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