昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
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能登旅行「気多大社」参拝

2011年05月24日 | 中部地方の旅
ゴールデンウィークの4/29~5/3の4泊5日、北陸の旅行に行きました。

今回は、特に印象に残った4日目、能登地方の「気多大社」です。



能登国一宮「気多大社[けたたいしゃ]」の鳥居です。

金沢市内のホテルを出発、約1時間後の8:20頃到着しました。

両脇の鳥居の柱を支える小さな稚児柱がある両部鳥居[りょうぶとりい]ですが、白木のためか清楚な感じです。

両部鳥居と言えば、海に映える宮島の大鳥居が浮かびますが、「気多大社」の名に似た若狭国一宮の「気比神宮」の鮮やかな鳥居も思い出します。

■鳥居の横に案内板があり、説明文を転記します。
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気多大社
当大社の御祭神は、大国主命(またの御名大己貴命)と申し、能登の地を開いた大神と仰がれています。
創立年代は、第10代崇神天皇の御代と伝えられ、延喜の制では、名神大社に列しています。
本殿背後約1万坪の社叢(入らずの森)中央の奥宮には素盞嗚命、奇稲田姫が祀られています。
伝統的な特殊神事としては、新年の門出式(1月1日未明)をはじめ、平国祭(3月18~23日)、蛇の目神事(4月3日)、鵜祭(12月16日未明)等が有名です。
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能登半島の地図(Map Fan)です。

能登半島の南西部にある赤丸印の付近が「気多大社」です。

「気多大社」は、七尾市の「能登生国玉比古神社」(気多本宮)から分祀された伝承があり、毎年3月には「気多大社」から「気多本宮」までを6日間で往復する「平国祭」が行われているようです。

かつて羽咋市から七尾市市街地近くまで深く入りこんだ邑智潟があり、それを埋め立てた幅3~4kmの低地(邑知地溝帯)が続いています。

驚くほど波静かな富山湾側の七尾市の地から大和への海路の起点としやすい羽咋市の地へ移ることは不自然な話ではないと思われます。

■気多大社には以下の伝承があるようです。
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同社の縁起によれば、上古、大己貴命が出雲国より因幡の気多崎に至り、そこから能登に渡ってこの地を平定、やがて所口に鎮座し、孝元天皇のときに社殿の造営があった。気多とは気多崎によるもので、それから百有余年を経た崇神天皇の御宇に大己貴命は鹿島路湖水の毒蛇を退治して竹津路に垂述したのが一の宮(気多大社)である。
(「日本の神々 神社と聖地」 谷川健一編より)
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この文献から、出雲大社が思い浮かんできました。

出雲大社は、出雲平野の北に横たわる島根半島の西北端にあり、能登半島の付け根、邑智潟の西北端にある気多大社と類似しているように思われます。

又、「邑智潟」「邑知地溝帯」の珍しい名から島根県出雲市の南西にある「邑智郡」を思い浮かべます。

島根県松江市や、出雲市には越の国にちなむ「古志」の地名があり、日本海で結ばれた古代からの交流の歴史が感じられます。



一段高い場所にシルエットが美しく、苔生した檜皮葺き[ひわだぶき]の屋根の神門が見えて来ました。

1584年(天正12)の建立と伝えられ、国の重要文化財にも指定された由緒ある門のようです。

この門は、両部鳥居と同じ様に左右の門柱の前後に控柱がある四脚門様式とされています。



神門を見上げる参道の左手に数株の水芭蕉が咲いていました。

花屋さんで似た花はよく見かけますが、自然の水芭蕉を見るのは初めてです。

この後、能登半島の先端に近い禄剛崎灯台への遊歩道でも水芭蕉を見かけました。

水芭蕉の日本での自生地の南限が兵庫県の高地とされ、今回の旅行で見たかった花です。

この後の予定で、二千株の水芭蕉が咲く名所「来入寺」(能登有料道路の上棚矢駄IC付近)を訪れるつもりでしたが、これだけで満足して止めにしました。



神門の脇の塀の前に遅い満開の桜があり、その下にも赤いつつじが咲き始めていました。(花の拡大写真を付けています)

ほとんどが散っていた北陸地方の桜ですが、たくさんの花びらがある珍しい桜が満開で、水芭蕉と合わせてちょっと得をした気分になりました。

赤いつつじには「能登キリシマ(ツツジ科)」の前に立て札があり、能登島北東エリアで多く植栽されているようです。

■桜の前の立て札や、境内にあった案内板の説明文を転記します。
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【桜の前の立て札】
 「気多の白菊桜[ケタノシロギクザクラ]<県指定天然記念物>花弁数(花ビラ)が150枚~300枚になる珍しい品種です

【案内板】
石川県指定天然記念物 ケタノシロギクザクラ
1.指定年月日 昭和43年8月6日
2.指定理由  このキクザクラは、ヤマザクラ系ながら菊咲きする珍しい品種である。県内では他に数本が認められる。
3.説明事項
 花はおおむね一段咲きで、その名の示すように白色八重咲きである。花弁は50~160枚、花径は2.3~3.0cmあり、4月下旬から5月上旬に開花する。めしべは筒状のがく筒の底から生えていて、完全なものが多く、2個から6個の実をつける。
 幹の直径は15~25cmほどあるが、原木は数十年前に枯死し、現在のものは株から生じ5幹にわかれている。
 学名は右記のとおり Prunus jamasakura SIEBOLD cv. Haguiensis
4.保存上注意すべき事項
 (1)柵内に立ち入らないこと。(2)みだりに枝葉の伐採をしないこと。
        石川県教育委員会 / 羽咋市教育委員会
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前方の拝殿建物は、神々しさを感じる入母屋造妻入りで、1653~54(承応2~3)年、加賀藩3代目藩主前田利常により再建されたようです。

拝殿後方の「気比大社」本殿は、11代目藩主前田治脩により1787(天明7)年に再興された建物で、庇が前方に伸びた「流造」様式を、後方にも庇を伸ばした珍しい「両流造」様式です。

本殿後方の奥宮への礼拝を意識した様式だったのでしょうか。

本殿の右隣りにある建物は、摂社「白山神社」の本殿(三間社流造)で、気比大社本殿と同じ1787(天明7)年に再建されたようです。

写真では見えませんが、本殿に向かって左隣に1569(永禄12)年に能登守護畠山義綱により建造された最も古い建物、摂社若宮神社の本殿(一間社流造)がありました。

「気比大社」の祭神は、「大己貴命」、左の「若宮神社」の祭神は、「事代主命」、「白山神社」の祭神は、「菊理姫命」です。

神門をくぐって拝殿の美しさに足を止めていると、宮司さんに声を掛けられ、神社の説明を聞かせて頂きました。

印象的だったのは、宮司さんが年末、裏山の「入らずの森」で行う年1回の神事の話でした。

今では奥宮に信者の名を書いたものを奉納するそうですが、かつては新たな年のために神様の新御魂をお迎えする神事だったのかも知れません。



神門前にあった境内の案内図です。

本殿の背後に「気多大社入らずの森」とよばれる約3万平米とされる社叢が見られ、境内の広さと、さほど違いないことに気が付きます。

又、奥宮と云うには余りにも近く、その祭神も本殿の大国主命と異なる素盞嗚命、奇稲田姫とされており、その位置が本殿後方左と考えると、出雲大社本殿後方にある「素鵞社[そがのやしろ]」と類似しているように思われます。

又、出雲国の中心が出雲大社の東にある松江市にあったことと、七尾市の気多大社本宮の位置関係も似ているように思われます。

ところで、「気多大社入らずの森」の裏には、「昭和堤」と名付けられた灌漑用と思われる人口池が見られます。

裏山に広がる神聖な森は、時代と共に開発され、次第に狭くなってきた歴史があったのかも知れません。

昭和天皇が行幸され、社叢をご覧になって詠まれた歌がありました。
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■境内の案内板と、石碑に刻まれているものです。
案内板「昭和58年5月22日気多大社御行幸 昭和天皇御製碑」
石碑「斧入らぬ みやしろの森 めづらかに からたちばなの 生ふるを見たり」
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拝殿から右手奥に進んだ場所の風景です。

右手の鳥居の奥は、案内図では「楊田神社」とありましたが、なぜか社殿は見当たりませんでした。

気多大社の縁起に大己貴命が出雲国から能登に渡ってこの地を平定したとあり、旧来から祀られていた神様だったのでしょうか。

石段の上の建物は、境内案内図によると「神庫」とあり、建物前の立て札に「あぜくら造り 県指定重要文化財 約二百年前」と書かれています。

奈良の正倉院の建物を小さくした様な造りですが、山の湿気が多い環境が気になります。

石段の右手にあるタテ長の白い案内板に「気多大社入らずの森」とあり、石段の上にある「神庫」方向へ案内するようにも見えます。



国土地理院の地形図で、気多大社付近を調べてみました。

海岸近くのなだらかな斜面に水田が広がり、その上の高台には水田に水を供給するための池が驚くほどたくさん見られます。

「昭和池」の奥には「宮の池」と名付けられた池があり、かつては「気多大社入らずの森」が及んでいたエリアだったものと思われます。



境内右手奥にある「太玉神社」で、社殿後方から当たる朝日で、神々しい風景でした。

祭神は、天活玉命[あめのいくたまのみこと]とされ、神話では高皇産霊神[タカミムスビノカミ]に連なる神様のようです。



参道の脇にあった「養老大黒像」です。

小さな社殿に個性的な風貌の大黒様が鎮座されていました。

その後、出雲からこの地に来た大国主命の一族にどんな歴史があったのでしょうか。

様々な想像をかき立てられる神社でした。


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