昔に出会う旅

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イタリア旅行No.28 ポンペイ遺跡の見学 (2)

2011年03月20日 | 海外旅行
【東北地方太平洋沖地震で被災された方々に心からお見舞い申し上げます。】

11/14 イタリア旅行6日目、オプション旅行で行った「ナポリ・ポンペイ日帰りツアー」の続きです。



ポンペイ遺跡の地図です。

見学コースがあった遺跡の西エリアの地図と、右上隅は遺跡の全体図です。

前回は、左下の料金所からA「マリーナ門」を入り、「アポロ神殿」(地図2)、「フォロ(公共広場)」(地図4)までを書きました。

今回は、地図9~6の施設の見学です。



「フォロ(公共広場)」(地図4)の南東に面して「エウマキア館」(地図9)と名付けられた建物の入口がありました。

実は、紀元79年のヴェスヴィオ山の噴火より前の紀元62年、ポンペイは大地震に見舞われていました。

この建物も大地震で大きな被害を受け、ヴェスヴィオ山の噴火まで修理は、ほとんどされていなかったようです。

入口の両脇の壁にある長方形の窪みは、壁龕[へきがん]だったとされ、中世以降の教会で見る壁龕が、1世紀のポンペイにあったとは驚きです。

資料によると、この両脇四ヶ所ある壁龕にはカエサルに始まりローマ皇帝を多く輩出したユリウス家にまつわる像が安置されていたとあります。



入口に向かって左の壁龕[へきがん]の下に碑文がありました。(読めないのが残念です)

資料によれば「この建物は、アウグストゥスの融和と皇帝への忠誠を誓い、巫女エウマキーアによって献納された」とあります。

又、別の碑文には建物奥の中廊にあった「エウマキア」の石像が毛織物関係の職人たちにより安置されたとあるそうです。

これらにより、この建物はフッロネス(羊毛職人)組合に関係する施設と推測されているようです。



「エウマキア館」(地図9)入口の縁にある大理石に刻まれた浮彫りです。

ガイドさんが指さして説明している場面です。

残念ながらガイドさんの説明は忘れてしまいましたが、透明板で保護された白い大理石の浮彫りは、とても美しいものでした。



入口から見た「エウマキア館」の敷地の中の風景です。

突当りの壁に祭壇のようなものが見えますが、かつての建物内の様子は想像がつきません。

両脇の壁龕[へきがん]や、大理石の浮彫りから破壊される前のファサードを想像すると、この建物の用途は、神聖な宗教関係のものだったとも考えられます。

ユリウス家(カエサル~アウグストゥス帝~)との関係があるとされる「エウマキア館」は、なぜか気になる建物でした。



「ヴェスパシアヌスの守護神を祀る神殿」(地図8)です。

「エウマキア館」(地図9)の北隣にあり、白い祭壇の後方にレンガで造られたチェッラ(聖像安置所)が見えます。

ウェスパシアヌス帝(在位 69年~79年)は、それまで皇帝を輩出してきたユリウス家が断絶し、その後の混乱を収拾した皇帝で、ヴェスヴィオ山が噴火した西暦79年8月の2ヶ月前に亡くなっています。

しかし、この建物もヴェヌパシアヌス帝に捧げられた説の他、前時代のアウグストゥス帝(ユリウス家)の守護神神殿説もあるようです。



「ヴェスパシアヌスの守護神を祀る神殿」(地図8)の奥にある祭壇です。

生け贄の儀式のレリーフ(浮き彫り)が白く輝いていました。

現役の皇帝をたたえる儀式に雄牛を生け贄として奉げている場面とされています。

ハンマーは牛を殺すものでしょうか、中央付近にラッパを吹く人、左に皿や、壺を持つ人も見えます。

レリーフの登場人物、一人一人に儀式の役割があるものと思われます。

「~守護神を祀る神殿」とは、皇帝を祀るのではなく、皇帝の「守護神(祖霊神?)」を祀る神殿と解釈され、日本の公的な古代祭祀とも似ているようです。



「パブリック・ラレス(ララリウム)神殿」(地図7)と考えられている建物です。

ラレスとは、古代ローマ時代の地域や、家庭などで祀られるの守護神的な神々だそうで、ここではパブリックとあり、公的に祀られた地域の守護神の意味でしょうか。

後方の壁の両脇に壁龕のような物が見え、中央には祭壇らしき跡が見えますが、全体的に印象の薄い建物でした。

仏教が伝来する前の様々な神を崇める古代日本と同様、キリスト教が広がる前の古代信仰が息づく社会だったことが感じられます。



食料品の取引がされていたとされる紀元前1世紀の建物「マケルム」(地図6)です。

12本の石柱が円形に並び、一見「ストーンサークル」とも思える施設がありました。

これはクーポラ(円蓋)のある小さな建物跡で、下水道設備のある水槽があったようです。

そこからは、魚の骨や、ウロコが多く発掘され、魚の洗浄などに利用されていたと考えられているようです。

奥にも小さな神殿があり、ここもユリウス家の皇帝のためのものだったようです。

ユリウス家の皇帝は、アウグストゥス、ティベリウス、カリグラ、クラウディウス、ネロ(治世:紀元前27年~68年)と5代続き、79年に滅んだポンペイの施設に色濃く影響をのこしていました。



「マケルム」(地図6)の北西角に屋根のある場所があり、ガイドさんが壁画を指さして説明をはじめています。

下には遺骸の石膏像二体がガラスケースに展示されています。

出土した果実、木の実、穀物や、壁画に描かれた魚、肉で当時の取引の内容がうかがえるそうです。

「マケルム」の敷地には東側の神殿を除き、西南北の三方には食料品を扱う店舗が並んでいたとされています。



ガイドさんが屋根の下のガラスケースの遺骸の石膏像の説明をしています。

積もった火山灰の中に残った遺骸の空洞に石膏を流し込んで固めた像で、苦しんだ様子が伝わってくるようです。

有名な「ポンペイの赤」を多用した背後の壁画には魚類、鳥、ワインの壺などが描かれているとの話がありましたが、よく分かりませんでした。

海と、川のそばにあったポンペイでは多様な魚が食べられていたようで、カキの養殖まであったようです。

豊富な農産物と合わせて、現代の日本の食生活のレベルと大差が無かったのかも知れません。



「マケルム」(地図6)の北隣の道端におもしろい看板がありました。

二人で棒に吊るされた荷物を運ぶ姿の絵は、「運び屋」さんの看板だそうです。

大量輸送する馬車では運べない中量の荷物を担いで運ぶサービスだったようです。

食料品の取引で、販売する荷物の持ち込みや、購入した荷物の持ち帰りなどを担ったものと思われます。

終戦後の日本で、荷車で運送会社を創業した会社の話を思い出しました。

参考文献
「ポンペイの歴史と社会」ロジャー リング著、堀 賀貴訳、発行所:同成社
「POMPEI RICOSTRUITA」Maria Antonietta Lozzi Bonaventura著