昔に出会う旅

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イタリア旅行No.25 ローマ「コロッセオ」周辺の見物

2011年03月07日 | 海外旅行
11/13 イタリア旅行5日目 「ヴェネツィア広場」からガイドさんの案内を聞きながらバスは「コロッセオ」へ到着しました。



バスの前方の窓に巨大な「コロッセオ」が見えて来ました。

約2000年前の貴重な遺跡「コロッセオ」のすぐ近くまで道路が迫っていることに、危なかしい感じを受けます。

一帯に古代ローマ時代の遺跡が密集する場所で、世界から観光客が押し寄せるローマだけに遺跡の間に道路を造るのはやむを得ないのかも知れません。



ローマ市内の地図です。

バスは、赤い字の番号(2)「ヴェネツィア広場」から古代ローマの中心地「フォロ・ロマーノ」を右手に見ながら(3)「コロッセオ」へ向かいました。



バスを降り、赤い服のガイドさんを先頭に歩いて行くと「コンスタンティヌスの凱旋門」が見えてきました。

右手に「コロッセオ」がそびえ、左手の小高い場所に「ウェヌスとローマの神殿」が見えます。

「コンスタンティヌスの凱旋門」は、ローマ帝国末期の四分割統治時代、西方副帝コンスタンティヌスが、西方正帝マクセンティクスと対立、312年に「ミルウィウス橋の戦い」で勝利したことを記念して建造されたものです。

324年、コンスタンティヌス帝は、分割統治のローマ帝国を再統一、330年にローマからビザンティオン(現イスタンブール)に遷都した皇帝でもあります。

395年、ローマ帝国は東西に分裂して行きますが、その前に登場した最後の強い皇帝だったようです。

又、この凱旋門の碑文には「ミルウィウス橋の戦い」での勝利はキリスト教の神の加護によるものと刻まれ、ローマ帝国で初めてキリスト教が公認された時代でもありました。



「コンスタンティヌスの凱旋門」の三つのアーチから丘の向こうの風景が見えていました。

参考資料には高さ25mとか、21mと書かれてさだかではありませんが、ローマ最大の凱旋門のようです。

凱旋門に装飾された彫刻の多くが、それ以前にあった施設から集められた再利用品だったとされ、ひっ迫した財政事情によるものか、戦いが終了して凱旋式までの短い期間によるものだったのか分かりません。



コロッセオの北西の丘に建つ「ウェヌスとローマの神殿」の遺跡です。(左端は凱旋門)

「女神ウェヌス(ヴィーナス)」と、「女神ローマ」の二つの神殿が背中合わせに造られた珍しい建物で、古代ローマ時代の神殿では最大のものとされています。

「ウェヌスとローマの神殿」は、ローマ帝国全盛期の第14代ハドリアヌス帝(在位117年~138年)の時代に計画・着工され、第15代アントニヌス・ピウス帝(在位:138年~161年)の時代135年に完成したようです。

中央にそびえる塔は、神殿が廃墟となった後世に造られた「サンタ・フランチェスカ・ロマーナ聖堂」の鐘楼のようです。



巨大な「コロッセオ」に近づいてきました。

左手の外壁が途中で崩れ、断面のアーチが現れています。

外壁の高さは48m、楕円形の直径は188m~156mで、一周約5分で歩けます。

「コロッセオ」は、72年ウェスパシアヌス帝により着工され、80年にティトゥス帝(第10代・在位:79年~81年)の時代に完成しました。

100日間も続いたとされる「コロッセオ」のこけら落の興行で、5,000頭に及ぶ猛獣が殺されたとされ、多くの市民は、刺激的な興業に酔いしれたものと思われます。

ティトゥス帝の実質2年間の短い在位期間には、ローマの街で3日間も続く大火災が発生、ヴェスヴィオ火山の噴火でポンペイの町が壊滅した激動の時代だったようです。



古代ローマ時代の赤いマントの兵士姿の男たちがたむろしていました。

ガイドさんからの注意では、「ナカタ! ナカタ! 日本語話せます!」と近づいて来て、一緒に写真を撮ると、10ユーロをぼったくる人達だそうです。

最初1人が始め、よく儲かることが知れて、次第に増えてきたようです。

ハッキリと断れない日本人観光客は、彼らにとって大切なお客様です。

そう言えば「ヴェネツィア広場」にもいましたが、営業エリアも拡張しているのでしょうか。



見上げると、歓声をあげたくなるほど雄大なコロッセオの風景です。

コロッセオの外壁の断面が補修され、柵のある展望台のようになった場所から大勢の人が周囲の景色を見下ろしていました。



外周一階のアーチの一つからコロッセオの内部が見えていました。

建物の内部は、地下施設のある中央の闘技場の周囲に四階層の観客席があり、下から元老院議員階級、騎士階級、平民、最上階は女性、その上の立ち見席に奴隷と決められていたとされています。

又、座席は木製、天井には開閉式の日除けの布製の屋根がドーナツ状に付いていたようで、現代の競技場施設などと比較しても驚くような良い環境だったようです。

ガイドさんの話では、イケメンの剣闘士には未亡人などのファンがついて、近隣の都市へ戦いに行く時には追っかけで見に行ったそうで、現代とほとんど変わらないことに驚くばかりでした。



南から見たコロッセオの風景です。

外壁の高さ約48m、楕円形の直径188m~156m、この巨大な闘技場の収容人員は、45,000人で、広島の「MAZDA Zoom-Zoomスタジアム」の33,000人をはるかに上回っています。

1世紀初頭のローマの人口は約100万人、広島市とほぼ同規模の都市でした。

当時、コロッセオの興業は、無料で開催され、その費用を負担していたのは数少ない特権階級で、その影に周辺国の負担や、市民の貧富の差もあったようです。



コロッセオの周囲を歩いていると壁がドス黒く汚れていました。

ガイドさんの説明では自動車の排気ガスによる汚染で、きれいにするにはたくさんの費用が必要となっているようです。

ローマ市のジャンニ・アレマンノ市長は、地元の優秀な高校生を同行して広島市を訪問、厳しい財政事情を訴えて日本へ遺跡整備の寄付を要請したそうです。

広島市のサイト「主な出来事」では2010年4月12日にローマ市長及び高校生代表団が訪問されたことが記載されていました。

広島市長のオリンピック開催都市立候補の資金案も世界各国からの多額な寄付に依存するもので、ローマ市長さんの寄付の要請がヒントになったのかも知れませんね。


参考文献:「ローマ古代散歩」小森谷慶子・小森谷賢二著、新潮社


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